●『男たちの大和』映画ロケセット

 戦艦『大和』の最後を描いた映画『男たちの大和』で使用された実物大の『大和』映画ロケセットが、撮影終了後に広島県尾道市で一般公開されました。(公開期間:2005年7月17日〜06年5月7日)

 呉市の『大和ミュージアム』には1/20の模型がありますが、こちらは実寸大。迫力ある『大和』の船首〜艦橋左舷甲板付近までが再現されていました。

 あめふらし@管理人は、2005年(平17年)10月に訪れています。

>>2006.04.10 Update

 

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◆戦艦『大和』映画ロケセット

 戦艦『大和』は1945年(昭20年)4月7日、約390機にも及ぶ米艦載機の攻撃を受けて、およそ3000名近い乗組員と共に海底に没した世界最大級の戦艦でした。(その経緯はこちら

 2005年(平17年)は大和沈没から60年目にあたります。その節目の年に合わせて制作され05年12月に公開されたのが東宝映画の『男たちの大和』。 過去何度か映画化されていますが、「映像化される最後の『大和』作品」と言われています。

 制作に当たっては、広島県尾道市にある休止中の日立造船所において実物大の映画ロケセットを約6億円かけて制作。映画撮影終了後の05年7月17日より一般公開され、尾道の新しい観光名所となりました。

 右写真は1944年(昭19年)10月のフィリピン沖海戦の時に米軍機から撮影された戦艦『大和』の写真。今回映画セットとして制作されたのは、艦橋と煙突の間付近から船首までの部分の約190m。主として左舷を中心に、第一・第二主砲と第一副砲が復元されています。艦橋(前檣楼)は予算の都合か、強度的な問題かは分かりませんが復元されていません。

注>>映画ロケセットは2006年5月7日で一般公開が終了しています。

 JR尾道駅前から出ている向島 運航の渡船に乗り向島に向かうと、尾道水道に面した日立造船所に巨大な映画セットが見えてきます。ここが尾道で有名な観光地となっていた『男たちの大和』映画セットです。

 なにしろ艦橋付近から艦首までを原寸大で復活させたとか。沈没60周年ということで気合いが入っていますな東映。戦艦『大和』自体が巨大な艦だったことからセットも巨大なモノになるのは当然ですか。

 さすがに国会議事堂の高さとほぼ同じ高さの艦橋(前檣楼)は再現されていません。それでも

再現された世界最大の46センチ主砲だけでも、その大きさが良く分かります。 上の写真は渡船から見た造船所。一見すると建造中のようにも見えます。ちなみに実際の建造時は、造船所のドックを覆う巨大な屋根を設置して隠蔽しています。

【写真】 向島運航からほぼ真横を見ることが出来ました。

●菊華紋章

 会場となっている造船所に到着します。ドッグまでは工場内を通らないとならず、また距離もあるのでバイクや車は特設駐車場に止めてシャトルバスに乗車。工場内を通り抜けて『大和』セット前まで移動します。バスから降りると、正面には『大和』の船首の一部が見えていました。

 階段を上ると『大和』船首部分を見ることが出来ます。巡洋艦以上の軍艦にあった「菊華紋章」が誇らしげに輝いています。「菊華紋章」は巡洋艦以上の軍艦、戦艦や空母 に取り付けられていました。これらの艦船は『天皇陛下の軍艦』と見なされ、「菊華紋章」が船首に紋章があったのです。駆逐艦や潜水艦、補助艦などの軍艦は消耗品という風に考えられていた ので紋章はありません。また現代の海上自衛隊は帝国海軍の技術や伝統を引き継いではいますが、艦船に「菊華紋章」を取り付けてません。

 この「菊華紋章」ですが、紋章のあった艦船はことごとく沈没してしまい、辛うじて残った艦船も

戦後解体されたり海没処分にされたりしてしまったので残っていません。本物の紋章として残っているのは、明治時代の戦艦である『三笠』の物だけだそうです。戦時中に謎の爆発で沈没した戦艦『陸奥』の菊華紋章があると聞いたことがありますが、詳しいことは分かりません。m(_ _)m

 さて『大和』の船首に輝く菊華紋章。直径は約1.5mという巨大な物。これぞ帝国海軍軍艦の象徴です。

レプリカだと分かっていますが、実物大は迫力がありました。その上に見えるのが艦首旗用支柱。この柱脚に横棒があるのが『大和』の特徴だそうです。セット柱脚にあるかどうかは確認してません。こだわってくれていたらうれしいのですが・・・。

【上写真】帝国海軍軍艦のシンボルである「菊華紋章」。

【下写真】船首にある菊華紋章。船首旗用支柱には日章旗が掲げられていました。

●甲板

 この後、入場券を購入して入場。第二主砲付近の左舷からタラップで甲板上に上がります。 実際の『大和』の甲板はチーク材が使用されていました。チーク材は海水に濡れても腐りにくい性質を持った木材で、他の多くの艦船でも甲板材として使用されていました。沈没した今でもほぼ原型を保ったまま残っているそうです。

 さて主砲付近から左舷を船首に向かって歩いて行きます。歩き出すと、船の甲板でありながら勾配がついており、なだらかな坂のようになっていることに気が付きます。これは『大和』型戦艦の特徴の一つ。

 他の戦艦が艦首から船尾にかけて水平な甲板なのに対して、『大和』型では船首に大きなシーア(甲板の反り度)を付け、船首から艦尾に向かってなだらかな斜面を描いて高さが下がり第一主砲付近で最低となった後、艦尾に向かって高さを上げて艦橋付近から船尾にかけて水平となっていました。目的は第一主砲の位置を下げることで重量軽減と重心を下げることと、凌波性を良くすることにありました。他の日本戦艦と比べて、『大和』や『武蔵』が精錬されたイメージというかスッキリした感じを受けるのは、この甲板形状にあるようです。

 ちなみにこのシーアを付けていたのは米海軍戦艦ではサウスダゴダ級とアイオワ級、ドイツ海軍戦艦のシャルンホルスト級とビスマルク級、イギリス海軍ではヴァンガード級ぐらいでした。

第二主砲左舷から乗艦。甲板が大きく下がってい

るのが分かります。

第一主砲付近から船首を見ます。なだらかな斜面

があり、船首に向かって上り坂になっています。

実際の甲板はチーク材を使用。海水に濡れても

腐りにくい木材でした。

●主砲

 次は『大和』の兵器関係を見て行きましょう。戦艦『大和』は主砲として世界最大の46センチ砲三連装三基九門を、副砲として15.5センチ砲三連装四基一二門を搭載。(後に副砲は二基を撤去) その他、高角砲や機銃が装備されていました。

 ロケセットでは第一・第二主砲と第一副砲、並びに艦橋左舷の高角砲・機銃が再現されていました。残念ながらロケセットの第一主砲には砲身はありません。実際の映画ではCGで合成されていたようです。

【右写真】船首から見た主砲塔。艦橋がないのでなんか違和感ありすぎです。第一主砲に砲塔がないのが残念。

 『大和』型戦艦に搭載された主砲は世界最大の45口径46センチ砲三連装三期九門でした。前部に六門、後部に三門配置されていました。では、なぜ『大和』型戦艦に45口径46センチ砲を搭載することになったのでしょう?

 46センチ砲搭載の決め手となったのは、意外にもパナマ運河の幅でした。当時、アメリカの造船所は東海岸に集中していたため、新造戦艦を太平洋に回航しようとすればパナマ運河を通らねばなりませんでした。パナマ運河の幅は約33.5mなので、新造戦艦の艦幅は33m以内にしなくてはなりません。

 戦艦の場合、その艦幅は主砲塔のおよそ3倍になります。46センチ砲3連装の砲塔の直径は約13mなので、艦幅は約39mとなります。46センチ砲3連装装備の戦艦をアメリカが造ったとしても、パナマ運河を通ることはできません。アメリカは工業力と資源力をもってして40センチ砲3連装の戦艦を多数建造してくるので、日本海軍は『質』でもって対抗し、46センチ砲3連装の主砲を装備した戦艦でもって優位に立とうということになったのです。

 45口径46センチ砲だと最大射程は41400mとなり、アメリカ戦艦が搭載していた45口径40センチ砲の最大射程38300mよりも3100mも差がつきます。『大和』型戦艦が40センチ砲搭載のアメリカ戦艦と対戦した場合、『大和』型戦艦の射程距離内に敵艦が入っても、敵艦にとって日本海軍側は主砲の射程外となるので発砲できないことになります。もし『大和』『武蔵』がアイオワ級戦艦と対戦したら日本側が有利だったことが容易に想像できます。日本海軍が巨砲を追い求めたのは、このことがあったからなのです。

 実際に完成した主砲を試射したところ、仰角45度で発射された重さ1460kgの砲弾は、富士山の2倍の高さ(7200m?)を飛んで約41km先に着弾しました。大阪駅からだと京都駅の手前となります。この距離は海上においては水平線に相当しています。

第一主砲横、右舷から見た第二主砲。結局、敵

戦艦に向かって砲弾を打ち出すことはありません

でした。

主砲塔のアップ。主砲塔の装甲は46センチ砲弾

が当たっても飛び込まないほどの性能を持ってい

ました。

正面からみた第二主砲と第一副砲。艦橋がない

ので今ひとつ迫力に欠けます。右舷側高角砲群

の省略具合もよく分かります。

●副砲

 副砲として搭載されたのは60口径15.5センチ砲3連装でした。『大和』『武蔵』とも竣工当時は副砲は四門搭載されていましたが、両舷の甲板上にあった第二・第三副砲は1944年(昭19年)の改装の際に撤去されています。

 さて『大和』に搭載されたのは60口径15.5センチ副砲。もともとは軽巡洋艦『最上』に搭載されていた砲で、同艦が1939年(昭14年)の改装で主砲を20.3センチ砲に付け替えて重巡洋艦になった際に余剰となった砲を転用したものでした。

 転用される際に装甲の防御力を高めるといった対策は講じていたようですが、もとから主砲塔のような強固な装甲鉄を使用していないため、爆弾の直撃を受けると火薬庫内部まで爆弾が達して爆発する 恐れがありました。それゆえ『大和』の弱点と言われています。

 1944年(昭19年)10月25日、フィリピン沖海戦(サマール沖海戦)において、『大和』に突入しようとした米駆逐艦『ジョンストン』を副砲の射撃によって撃沈したことは有名 な話です。

第二主砲塔横から見た第一副砲。主砲塔が大き

すぎて小さく見えます。

アップ。副砲とはいえ、巡洋艦『最上』の主砲でし

た。

左舷側から撮影した副砲。こう見ると副砲も大きく

見えます。

●九六式25ミリ対空機銃

 フランスのホチキス社製25ミリ機銃をライセンス生産した機銃です。1分間に220発を撃つことができました。配置員は3連装タイプの場合だと、砲台長1名、給薬手3名、装填手3名、旋回手1名、俯仰手1名、射手2名の計11名でした。沖縄海上特攻作戦時の『大和』には3連装タイプが29基、単装タイプが26基搭載されていました。他に13ミリ2連装対空機銃が2基搭載されていました。

 ロケセットでは、第一主砲と第二主砲の間にシールドのない機銃が置かれていましたが、実際の『大和』にはこの場所に25ミリ3連装対空機銃は設置されていないはずです。単装タイプが2基設置されていたように思います。展示のためか撮影のためにここに置かれているのだと思います。

25ミリ3連装対空機銃。剥き出しですが、シール

ドのあるタイプも搭載されていました。

斜め後方から。椅子には射撃手が座っていまし

た。

第二主砲と25ミリ対空機銃。実際はこの場所に

機銃はありません。

艦橋左舷付近。奥にあるのがシールド付きの25

ミリ対空機銃。

シールド付きタイプ。主砲発射時の爆風から兵士

を守るためにシールドが付いていました。

シールド付きタイプは船体から張り出すように設置

されていました。

●八九式40口径12.7センチ高角砲

 日本海軍のほとんどの戦艦に搭載されていた主力高角砲。1分間に14発が発射可能で、主として急降下爆撃機に対する攻撃を目的としていたので、俯仰(上下)を重視した構造になっていました。

 『大和』には2連装高角砲が12基搭載(片舷6基ずつ)されており、うち6基(片舷3基)はシールド付きでした。シールドが設けられたのは、主砲発射時の風圧を回避するためでした。主砲発射時、シールドのない機銃や高角砲にいた兵士はその都度退避しなくてはならなかったのです。

下段にあったシールド付きの高角砲。副砲を降ろ

した後に設置されました。

上段の高角砲。竣工時からあった高角砲で、シー

ルドは下段に転用されています。

手前がシールド付き25ミリ対空機銃。その後ろに

シールド付きの高角砲が見えます。

 

左舷の兵装の配置状況が良く分かります。

こう見ると建造中のように見えます。

左舷の8m測距儀まで再現していました。その奥

の箱は機銃の火器管制装置です。

 

●やはり映画セットだった『大和』

 戦艦『大和』は左舷に攻撃が集中しました。ゆえに左舷側に配置されていた兵士の多くが犠牲になられています。映画では左舷での様子が中心でしたので、セットも左舷側を中心に再現されていました。右舷側は台座などがあるだけのホントに形だけ。第一主砲も砲身が省略されていました。せめて第一主砲だけでもまともに再現して欲しかったですね。

 とは言え、映画セットと言えども原寸大で再現したことは評価すべきでしょう。写真でしか見たことのない『大和』の大きさを実感することが出来たのは嬉しいことでした。

 順路を一巡して階段を下りるとき、ロケセットの裏にある骨組みが見えました。なるほど、こうして造ってあったのね・・・。やはりセットだったのでした。

艦橋の右舷側はこういう状態。最小限度の構造

物しかありません。擬装前のような状態。

『大和』セットの裏側。ご覧の通り鉄骨で造られて

いました。

映画セットはこのような造船所に造られていまし

た。セットにいると建造中のように感じました。

【映画ロケセット 終わり】

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