Update 2009.04.02

 

 

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平成20年(2008年)4月17日(木)

◆呉遠征作戦 発動

 平成20年(2008年)の4月第三週に九州ツーリングに向かう計画を立て、往復のフェリーを確保するなど密かに準備を進めていた。しかし天候が悪くなることがほぼ確定になった・・・_| ̄|○ やむえず出発2日前に中止を決定しフェリー予約をキャンセル。しかし、九州ツーリングのために確保しておいた有休と定休日による休みを利用した連休を無駄にするのは勿体ないので、これまた密かに計画していた『呉遠征作戦』を実行することにした。

 『呉遠征作戦』は、その名の通り広島県呉市に向かう計画。ミリタリ熱が出ている@管理人なので、もちろん一般の旅行ではなく、ミリタリ色の濃い旅行となっている。「大和ミュージアム」と「 てつのくじら館」、そして江田島の海上自衛隊幹部候補生学校・第一術科学校(旧:海軍兵学校)の見学、時間があるならば呉基地の見学などなど、ミリタリ関連ばかりの内容てんこ盛りの計画であった。1日ではとても回りきれないので1泊2日で計画を立てる。

 当初はバイク(ZRX1100)でのツーリングで検討していたが、候補生学校に立ち寄るのでジャケットを 持って行くことになったので車(Spike)で向かうことになった。天候が悪いということもあるのだが、さすがに候補生学校にバイク乗りの格好で入る気がしなかったのだ。

 それでも現地での移動用にKSRUを積んで行くことを考えたが、 自転車の方が動きやすいだろうと判断してMTBを積んで行くことにした。天候次第で無駄になるかも知れないのだが・・・。あとは天気予報が外れることを期待した。

◆あめふらし@管理人 西へ

 有給休暇で本来ならば夕方からツーリングに出発するはずだった4月16日(水)であったが、九州行きをキャンセルした反動で前日15日晩から16日早朝まで某シュミレーションゲームをしていたので、昼過ぎまで寝ていた。( ´∀`) 起きてから準備を行い、夕食後仮眠を取ってから出かけるつもりだったが目がさえて眠れなかったので、予定してた17日(木)0330出発を繰り上げて、17日(木)0100に大阪を出発することにした。

 自宅@マンションを出てガレージに歩いて向かう途中から雨が降り出した。どうやら予報は当たるようだ。4月17日(木)0050頃にガレージを出発。阪神高速に入り中国道に向かった。阪神高速走行中に大阪湾を震源とする地震が発生していたらしいのだが全く気付かなかった。つけていたラジオにやたらと雑音が混じっていたのは、何かしら無関係ではなさそうだ。

 中国道に入る。雨は小雨状態だった。長距離トラックに混ざって淡々と西に向かい、0130頃に山陽道に入る。ここからでもまだ320kmほど走らねばならない。呉は遠い・・・。

 兵庫県三木市付近から雨は強く降り出した。低気圧に向かって進んでいるので、西に向かうにつれて雨脚が強まることになる。路面が濡れているので過速度は禁物。おとなしく走行車線を80k/h前後で走っていたら、トラックにどんどん抜かれてしまった。しかし上り坂では抜いたトラックをこちらが抜き返し、平坦な区間でまた抜かれる・・・。その繰り返しであった。

 姫路西ICを過ぎる。ここからが長い。距離的にそう長くはないのだが、姫路〜岡山間が妙に長く感じてしまうのだ。0300頃に岡山を通過し吉備SAで最初の休憩。15分ほど休憩して出発し西に向かう。倉敷を通過して広島県に入ったのが0400頃。尾道付近では雨が上がって路面がドライになったのでペースを上げることが出来た。しかし竹原を過ぎると再び強く降り出した。

 第二休憩ポイントの小谷SAに到着したのは0440頃。中国池田ICから約270kmであった。疲れたのでここで仮眠を取ったのだが、眠ったかどうか分からないまま1時間ほど経過。昨晩コンビニで食べたパンを朝食とし、0620頃に出発した。

 小谷SAから西条ICまではすぐだった。西条ICからはR375を南下。距離的には呉まで約40kmだったので、0700頃には着くだろうと予想する。最初は順調で交通量の少ない2車線道を淡々と走って行けた。しかしR375を南に進むにつれて車の通行量がどんどん増えてしまい、やがて大渋滞の長い車列に巻き込まれてしまった。朝の7時

前なら大丈夫だろうと思ったのだが甘かった。朝の通勤ラッシュに捕まってしまった。_| ̄|○

 やっとのことでR185に入るのだがこちらも大渋滞。覚悟はしていたとは言え、渋滞に巻き込まれてから呉市市街までの約30kmの移動に約1時間もかかってしまった。西条ICから呉市街まで1時間半・・・。呉市の「大和ミュージアム」横の駐車場に到着したのは、朝のラッシュも終わりに近づいた17日(木)0800頃であった。

■大和波止場

 呉に着いたが天気は予報通り雨だった・・・(´・ω・`) MTBでウロウロするという計画は早くもご破算になった。「大和ミュージアム」「てつのくじら館」共、開館時間は0900からなので1時間ほど時間がある。車で待つのもなんなので、傘をさして付近をウロウロすることにした。

 駐車場のすぐ前には「大和波止場」と呼ばれる波止場があった。戦艦大和の左舷前部甲板を実寸大で再現した波止場で、主砲や25mm機銃などがタイルなどで平面に再現されている。

 

 

 艦橋展望台と呼ばれる展望台からの風景。白い船は呉中央桟橋から出港したばかりの高速艇。ドックに大型船がいるのが分かる。遠くに自衛艦の艦影が見られるが艦名は不明。「むらさめ」型か「たかなみ」型護衛艦のいずれかだろう。

 主砲などの構造物がないのでピンとこないが、第一副砲付近から艦首までの大凡の長さがわかる。平成17年(2005年)7月〜平18年(2006年)5月まで、広島県尾道市において映画『男たちの大和』で使用された実物大のセットを見ているので、平面で再現されても今ひとつのいう感じがする。公開終了後、セットの一部がミュージアムに寄贈されたという話を聞いたのだが、それらはどうなったのだろう?

 

 

 大和波止場入口横で、水中翼船「きんせい」と共に保存展示されている潜水探調査船「しんかい」。「いかんし」ではありません。(;´Д`) 昭和44年(1969年)3月就役した戦後初の本格的な潜水調査船。最大深度600mまで潜水可能だったとか。後継の「しんかい2000」が就役した後の昭和52年(1977年)1月末に退役するまでに307回の潜水調査を行ったとのこと。退役後は呉市の海上保安大学校にて保存されていたが、平17年(2005年)に現在位置に移転・保存された。

■戦艦陸奥

 「大和ミュージアム」前には戦艦「陸奥」の主砲塔や舵、スクリューなどが展示されている。戦艦「陸奥」は大正10年(1921年)10月に就役(就役時はまだ艤装中だった)した長門型戦艦の2番艦。世界七大戦艦(ビックセブン)の一つに数えられた艦であったが、大東亜戦争(太平洋戦争)最中の昭和18年(1943年)6月、呉軍港近くの柱島泊地において原因不明の大爆発を起こして沈没した。戦後になって引き上げ作業が行われ、船体のおよそ75%が引き上げられた。山口県大島郡周防大島町にある『陸奥記念館』とその近くにも、引き上げられた陸奥の船体の一部や主砲、スクリューなどが展示されている。

 

 

 ミュージアム前に展示されている「陸奥」の一部。写真手前より、艦尾旗竿、主錨、艦尾右舷フェアリ−ダー、主砲身(四番砲塔左砲)、スクリュープロペラ、主舵。奥は「てつのくじら館」で展示されている潜水艦「あきしお」。

 戦艦「三笠」を除いた旧海軍の戦艦で生き残った艦はすべて解体もしくは標的艦となり沈没したので、まとまった数の船体の一部(現物)が残っているのは戦艦「陸奥」だけとなる。大変貴重な展示品となるのだ。ちなみに「陸奥」は横須賀海軍工廠で建造されたのだが、主砲身・副砲身・装甲鈑・主舵・スクリュープロペラなどの主要部品は呉海軍工廠で製造されて横須賀に運搬されたとのこと。(説明板による)

■てつのくじら館

 「てつのくじら館」に移動する。正式名称は海上自衛隊呉資料館。水上艦艇(海自佐世保史料館)、航空機(鹿屋航空基地史料館)に続き、平成19年(2007年)4月5日に開館した潜水艦と掃海を展示する史料館。(「てつのくじら館」は愛称。) ここの目玉は屋外展示されている潜水艦あきしおの実物。退役した潜水艦をまるごとそのまま屋外展示している。

 

 

 潜水艦「あきしお」(SS579)は、昭和61年(1987年)3月に就役した「ゆうしお」型潜水艦の7番艦。以来17年間の間、現役潜水艦として活動し、平成16年(2004年)3月に退役・除籍となった。退役後は係留されていたが、平18年(2006年)7月から史料館での屋外展示に向けて改修工事が行われ、同年9月に特殊クレーンに吊り下げられ陸揚げ。特殊トレーラで運搬されて現在位置に設置された。あまりに巨大なので、トレーラでの運搬時は道路を封鎖(通行止め)したとのこと。新幹線車両の運搬とはケタが違いますからな。(;´Д`)

 「あきしお」は歩道からも見ることができ、マッシュルームアンカー(主錨)やトリムタンク用の注排出用スリットなど普段は絶対に見ることの出来ない底部を見ることが出来る。

潜水艦の主錨。形から”マッシュルームアンカー”と呼ばれる。展示なので

鎖は潜水艦本体とは繋がっていない。

後部のスクリュープロペラ。潜水艦の隠密性に直結するので、その形状は最

高機密となっている。なので改修時にイミテーションに交換されている。

 開館時間は0900。この日は団体客や他の見学者はいない。なので一番乗り。ヽ(゚∀゚)ノ ゆっくりと見ることが出来る。「てつのくじら館」は3階建て。1階は受付と海上自衛隊の案内コーナーとなっている。

 2階は掃海についてのフロア。歴史から現在の掃海方法に至るまで、各種資料、実際に使用された(使用されている)器具が展示されている。普段はまず見ることのない各種機雷は必見。また掃海艇「ははじま」(H18年2月退役)の後部甲板が再現されており、使用していた器具類も展示されている。

 

 

 

 3階が潜水艦フロアとなる。海上自衛隊発足後からの潜水艦部隊の歴史と、潜水艦内部の再現、兵器類の展示がある。米海軍からの貸与艦となるが、海自初の潜水艦であった「くろしお」(SS501)の模型と艦籍証書、潜水艦「おおしお」(SS561)の風洞実験用模型はめちゃくちゃ貴重な資料となる。

 2階も3階も、海自OBのボランティアによる案内係がいるので、説明を聞きながら見るのも良い。朝早く他に誰もいなかったことから、元掃海部隊や元潜水艦乗りのボランティア海自OBさん達と話し込んでしまった。(^^;)

 屋外展示の「あきしお」には3階から入る。潜水艦内部全てが公開されているのではなく、居住区と操舵室の一部のみが公開されている。計器類は塗りつぶされたりしているが、操舵室内は撮影厳禁となっていた。潜水艦内部は予想以上に狭いものだった。ここにもボランティアの海自OBさんがおられ、あれこれと説明してくれます。

 史料館については海上自衛隊の活動紹介を中心にした展示内容となっていた。活動を国民に広く知ってもらうための広報の役目が強い。それゆえか、旧帝国海軍の潜水艦に関する資料の展示はなかった。唯一、伊400型潜水艦で使用された双眼鏡があっただけである。

*撮影禁止区域以外の館内展示物は撮影可です。@管理人は館内展示物を撮影していますが、個人的に楽しむ分には撮影可と判断しており、サイト上で

 は公開を差し控えます。m(_ _)m

■大和ミュージアム

 正式には呉市海事歴史科学館。日本の近代化に大きく貢献した呉の歴史と、第二次世界大戦後の造船業における世界トップレベルの技術力及び造船大国”日本”の礎を築いた呉海軍工廠の技術力、そしてその結晶である戦艦『大和』に関する博物館として平成17年(2005年)4月23日に開館した。

 ”呉の歴史博物館”となるのだが、呉の歴史(技術史)を語ると、どうしても呉軍港と呉海軍工廠を始めとする旧帝国海軍の話となってしまう。展示物が旧海軍関係の物が多いのはそれ故なのだろう。(展示物は許可されている物以外は撮影厳禁)

 愛称「大和ミュージアム」だけあって、ここの目玉は1/10スケールで精密に復元された戦艦『大和』。全長約26mもある巨大な模型です。映画『男たちの大和』で使用されたように記憶しているが、どうだったのだろう?

 

 

 「てつのくじら館」を後にして1030頃に「大和ミュージアム」に入る。こちらは有料なので入場券を購入しての入館となる。館内に入ると『大和』の模型に目が奪われる。実に精密に復元されている。

 復元に際しては、設計図の原図を始め、各種写真、生存者の証言、潜水調査の映像などをもとにして図面をひき直し、忠実に再現した。模型の『大和』は玉野市の造船所で進水し、呉市音戸町の山本造船が艤装を担当したとのこと。今ある『大和』の史料では、最も正確に再現されていることになる。

 

 

 今さら説明する必要はないのだが、戦艦『大和』は昭和16年(1941年)12月16日に就役した世界最大の戦艦。当時世界最大の45口径46cm砲3連砲を3基9門装備していた。46cm砲の砲弾が直撃しても耐えうる船体強度を持っていたが、時すでに”飛行機の時代”になっており、400機近い航空機の波状攻撃を受けて力尽き、ついに昭和20年(1945年)4月7日に沈没した。『大和』と共に同行した護衛の艦艇も9隻中5隻が沈没している。

 大東亜戦争(太平洋戦争)における海の戦いにおいては悲劇的な戦いはたくさんある。その多くが戦争中期以降の連合軍側からの一方的な攻撃による悲劇であった。事実、一瞬で5千名近い人命が海の藻屑となった戦いがある。広く知られた帝国海軍の象徴であった戦艦『大和』沈没もその中の一つでしかない。

 戦艦『大和』の最期は、過去何度か映画化されたり書籍も数多く出版されるなど、その最期の死闘は広く知られるところとなっている。そしてその悲惨さも広く知られ、いつしか日本人にとって戦艦『大和』は特別な存在になった。犠牲になった3000名近い乗組員がいたということも忘れられることはないだろうし、おそらく永遠に語り継がれることになる。それはそれで良いのだが、戦艦『大和』以外の艦船の悲劇が忘れ去られるのではないかと危惧してしまう。

 戦艦の話だけとしても、たとえば『大和』の同型艦に『武蔵』『信濃』があったことを知る人はどれだけいるだろうか?戦艦『武蔵』や空母に改造された『信濃』がどこで沈んだのか知っている人はどれほどいるだろうか?戦艦『比叡』や『霧島』の最期、それ以前に戦艦『大和』以外の戦艦を知っている人がどれほどいるのだろうか?等々・・・。

 こういう話になると空母や巡洋艦、駆逐艦、潜水艦、その他艦船が云々となって収拾がつかなくなる。各個別の艦艇の最期がどうのこうのという話は興味ある人や研究者などが知っていればいいわけで、史料館に訪れる人達には戦艦『大和』以外にも多数沈没した艦船があること、そしてその犠牲の上に今日の日本と我々がいることを忘れないでいただきたい。

 

 

 閑話休題。m(_ _)m

 模型は下からも見上げることが出来るようになっており、船底の部分をじっくりと見ることができる。さすがに甲板上にはあがれないが、フロア上から見下ろすような形で全体を見ることが出来る。細かいことに、搭載していた零式水上偵察機までもが1/10サイズで復元されて搭載されている。これで艦尾の日章旗がはためくような工夫をしていれば良かったのだが・・・。 ちなみに艦首側からの写真を載せていないのは、撮影しても逆光状態となったためだったりする。(^^;)

 

 

 この後、展示室を一回りしてから大型史料展示室に移動する。大型史料展示室には、零戦六二型、九三式魚雷、回天(試作型)、特殊潜航艇「海龍」、主砲弾、八八式潜望鏡、各種資料など、戦前〜戦争末期までに日本が習得・開発した技術の結晶といえる貴重な産業遺産が展示されている。これらを含むいろいろな兵器開発などのノウハウや技術が、戦後の各分野における日本の驚異的な技術力の礎になったことは間違いない。個人的には大和の1/10模型よりも貴重な品々だと思っている。

〜零式艦上戦闘機〜

 

 

 零戦は日本国内でも、実物(多くが修復・復元された機体)やレプリカなどが多数展示されている。呉海事歴史科学館で展示されている零戦六二型は、平20年時点で現存する唯一の六二型。もともとは第二一〇海軍航空隊所属機で、昭和20年(1945年)8月6日夕方にエンジントラブルにより琵琶湖に不時着水し水没した機体。昭和53年(1978年)1月に引き揚げられ修復された。最初は京都の嵐山美術館で展示されていたが、平成3年(1991年)に同館が閉館したため、和歌山県白浜町の零パークに移転し展示されていた。しかし平14年(2002年)3月に同パークも閉鎖となり、一部の貴重な資料と共に呉市に引き取られ、科学館開館に合わせて展示されたという経緯を持つ。

 展示の際の修復作業などではいろいろと困難なことがあったらしいが、操縦していた元パイロットさん達からの聞き取りや三菱を始め製作した会社の協力、図面・写真など膨大な資料をもってほぼ正確に復元されているという。(塗装についてはまだいろいろとあるそうです・・・) 館内に展示されたのは実に喜ばしいこと。(実質的に屋外展示だった白浜時代は部品の盗難が結構多かったそうだ。) ここまでの復元・展示に尽力した関係者の方々には敬意を表します。

 ちなみにこの機体、琵琶湖からの引き揚げ当時から六二型か六三型のどちらなのかという議論があったそうだが、呉での展示にあわせて行われた学術調査で六二型であることが判明したらしい。(ただし根拠などは公開されていないそうです。)

〜海龍〜

 

 

 海龍は本土決戦用の特別攻撃用兵器として制式化された特殊潜航艇。もともとは有翼潜航艇と呼ばれる、主翼を付けて水中で飛行機のように動き回れる潜水艦(潜水艇)として昭和19年(1944年)8月に開発された。水中での機動性が良好であり、

量産しやすい構造であったことから量産されることになり、昭和20年(1945年)4月から量産が開始された。終戦時には220隻あまりが完成しており、さらに200隻ほどが建造中であったという。制式化されたのは昭20年5月末のことで、終戦までにかなりの数が実戦部隊に配備されていた。幸いにも(?)実戦に参加することなく終戦を迎えている。

 「海龍」は特殊潜行艇として開発された。両脇に45cm魚雷2本を装備して母艦を発進し、敵船近くまで進出して攻撃。母艦に帰還して収容されるという攻撃方法が考えられていた。しかし制式化される頃には艦首に600gの爆薬を付けた特別攻撃兵器となってしまった。

 展示されている「海龍」は昭和20年に静岡県網代湾内において、米軍機の攻撃を受けて沈没した艇を昭和53年(1978年)5月27日に引き揚げたもの。展示されるまでの経緯は不明。

〜回天 十型〜

 

 

 ”人間魚雷”と言われた特別攻撃兵器回天。展示されているのは「回天」十型と呼ばれる、九二式電池魚雷に操縦室を取り付けたタイプ。十型は量産されることはなく試作のみに終わっている。展示されている「回天」十型は、量産前に呉海軍工廠において試作された3艇の内の1艇と言われている。

 ちなみに呉に来る前は京都の料亭の庭に展示されていたとのこと。試作とはいえ”人間魚雷”を酒の肴にはできません・・・。

 呉では戦艦『大和』という巨大な戦艦を作っておきながら、最期に作られていたのは特殊潜行艇(特攻用)・・・。いろいろな事情があったにはせよ、ホンマ悲しくなりますわ。

 この後、2階〜3階に上がると大和の模型を上から眺めることが出来る。3階にも展示室があったが子供の遊び場と化しておりスルーしてしまった。で、なぜかある松本零士コーナーは・・・・・・_| ̄|○

 少し脱力感を感じて大和ミュージアムを後にした。

■アレイからすこじま

 「大和ミュージアム」を出たのは1140頃。外に出ると雨は小雨になっていた。駐車場に戻ってから、せっかく持って来たのだからとMTBを車から下ろす。MTBで旧軍ゆかりの建物などを散策しようと考えたのだ。しかしMTBを下ろした途端に雨が降り出した・・・。_| ̄|○  もう一度スパイクにMTBを積んで駐車場を出発。車で回ることにした。

 R487に出て呉地方総監部横の急坂を上る。この横にはIHIマリンユナイテッド呉工場(旧:石川播磨重工業)、かつての呉海軍工廠が広がる。今度は急坂を下ると、右側に呉基地が見える。何やら護衛艦が見えたが確認できず。その先、赤煉瓦倉庫群のあるあたりが”アレイからすこじま”と呼ばれる区域であった。

 ”アレイからすこじま”は呉市が整備した公園の名称。ここからは日本国内で唯一、海自の潜水艦を間近で見ることが出来る場所なのだ。下調べの時に知ってぜひとも来てみたかったのだ。

 

 

 ”アレイからすこじま”の向かいは潜水艦桟橋と呼ばれる、海自の潜水艦係留地となっている。呉基地には海上自衛隊の第1潜水隊群、第1練習潜水隊、潜水艦教育訓練隊が配備。呉には9隻の潜水艦、2隻の練習潜水艦、潜水艦救難艦『ちはや』が配置されている。

 見つからなければ(探知されなければ)空母でさえ撃沈できる可能性のある潜水艦は、各国の虎の子兵器といえる。海自も例外ではなく、潜水艦は機密の固まり。機密が海の中をウロウロしているようなもので一般公開などは行われていない。@管理人は展示訓練などで見ただけで乗船したことはない。 「てつのくじら館」で展示されている『あきしお』にしても、重要なスクリュープロペラはイミテーションだし、操舵室の計器類もふさがれている。それほど重要な艦種にもかかわらず、すぐ近くから見ることが出来るのが不思議でならない。桟橋の門柵もトラックなんかで突っ込めば簡単に突破できそうで、有事の際に果たして大丈夫なのだろうかと心配になる。心配しすぎ?

 

 

 公園から撮影した潜水艦桟橋。写っているだけで4隻、別の場所には『おやしお』型潜水艦が1隻停泊。写真の潜水艦は手前から『はるしお』型・『おやしお』型・『はるしお』型、反対側にいるのは『はるしお』型(だと思う・・・)。 艦名は不明。一番奥(沖合寄り)に停泊している潜水艦は出航準備中のようで忙しく作業が行われていた。

 

 

 すぐ近くに停泊していた音響測定艦『ひびき』。海洋業務群所属の艦艇で、半没水双胴タイプの艦型が特徴。めちゃくちゃ珍しい艦艇ですわ。ヽ(゚∀゚)ノ

 

 

 ”アレイからすこじま”の一角に残っているクレーン。戦前から魚雷運搬用として使用されていたクレーンで、奇跡的に破壊されずに生き残り、戦後もしばらく稼働。役目を終えた後に現在位置に移設されて保存されている。

 後ろに12階建てくらいの建物が見える。マンションかね?上の階からなら室内から呉基地を一望できるでしょうな。重要な軍事施設の近くにこんな建物建てていいのかね?┐(´д`)┌

■歴史の見える丘

 ”アレイからすこじま”の近くにある馳走庵『仙水』という店で昼食とした。付近の工場に勤める人達御用達の食堂らしく、昼休み時とあって作業着姿の客が多かった。セルフサービス形式の日替わり定食をいただく。(゚д゚)ウマー

 1300頃に呉市街地に戻る。雨が降っていなければMTBでウロウロするのだが、中途半端に降り続いているので歩いてウロウロすることにした。市街地内にあるタワー式の有料駐車場に向かうが車高制限に引っかかり駄目だという。しかし1時間ほどで戻ってくるというと、それぐらいならOKということで、契約車が出ていて開いていた青空の月極スペースに車を止めさせてもらった。m(_ _)m

 市街地内をウロウロする。ここで少し道活動。(^^;) R31とR185、R487の写真を撮影しながら入船山公園に向かう。公園前を過ぎて急坂を上り呉市宮原町に向かった。坂を上りきった付近が”歴史の見える丘”と呼ばれる展望ポイント。IHI呉工場すなわちかつての呉海軍工廠を一望できる場所なのだ。

 

 

 展望場所から見た呉工場。工場内のドッグなどは旧海軍工廠時代の施設をそのまま使用している。戦艦『大和』を建造した造船船渠は平成4年( 1992年)に埋め立てられてしまったが、建造時に秘匿のため『大和』を覆っていた屋根の一部は残っている。写真の建物がそれ。高さ約49mの鉄柱や鉄骨は当時のままとのことなので、『大和』の建造が始まった昭和12年(1937年頃までに建設されたと思われるので、かれこれ70年以上経過していることになる。

 『大和』造船船渠の横には2つの造船船渠がある。共に旧海軍工廠の施設として建設されたもの。写真左の大型船(コンテナ船?)を建造中なのが第三船渠、写真右の空ドッグが第四船渠と呼ばれた。戦艦・巡洋艦・空母クラスの艦艇が建造されたのだろう。今は民間船を建造しているが、時々自衛艦が整備のために入渠することがあるとのこと。ちなみに右写真の右端、白いパラボラアンテナが見える辺りが旧海軍の呉鎮守府で、現在は呉地方総監部の敷地となっている。

 これらの船渠で『大和』を始めとする旧海軍の主要艦艇が建造されたかと思うと何とも言えない気持ちになる。今は民間船が建造されているのだが、その技術の多くが旧海軍の遺産であることを誇りに思える。

 IHI呉工場を見下ろせる場所はR487沿いにあるのだが、国道を挟んだ向かい側(東側)にある丘にはいくつかの石碑が建っている。この丘が”歴史の見える丘”なのだろう。

 その丘でも見晴らしの良い場所にあるのが『噫戦艦大和塔』。”噫”とは「ああ」と読む。旧海軍呉工廠を望むこの場所に建てられた記念塔。昭和44年(1969年)8月8日の第30回目の大和進水日を記念して呉大和会によって建てられた。

 写真左が正面から。小枝で隠されて見えずらい。正面の階段左右には主砲徹甲弾が展示されている。正面左が戦艦『長門』の主砲徹甲弾(41センチ砲用)、正面右が戦艦『大和』の主徹甲弾(46センチ砲用)。写真中央が塔を正面から。艦橋を形どっている。大和のデータ ・建塔由来などがプレートに書かれている。写真右が後ろから。後ろから見ると艦橋の形態となっているのがよく分かる。

 あとで調べて見ると、記念塔建設時、奈良県天理市の大和(おおやまと)神社から神様の分霊を受けて奉鎮されたとのこと。つまりは記念塔には神様がおられますので、失礼な事はなさらぬよう・・・。(ちなみに同名であったことから、戦艦『大和』内には大和神社の祭神の分霊が祀られていたそうな。)

 『噫戦艦大和塔』の北側にあるのがこれらの記念塔と記念碑。どちらも呉海軍工廠に関係のあるもの。

 写真左は『旧呉海軍工廠礎記念塔』。昭和57年(1982年)建立の記念塔で、建立当時に残っていた旧海軍工廠の礎石を集めて作られた。台座の赤煉瓦は旧海軍呉鎮守府庁舎の開庁当時の庁舎に使われた煉瓦を使用している。

 写真右は『造船船渠記念碑』。写真だけ見ると、この記念碑の上に記念塔があるように見えるが隣同士で各々独立している。

記念碑は平成5年(1993年)に建立されたもの。石材の材料は戦艦『大和』を建造した船渠に使用されていた壁石。船渠に下りる階段を再現したものだそうだ。

 

 ”歴史の見える丘”には他にもいろんな石碑があるのだが、時間的な都合もあってあとは見ないまま呉市街に戻った。戻る途中、R487の歩道から呉地方総監部の建物を見ていたのだが、さすがは元鎮守府。堂々とした建物は明治40年(1907年)竣工だとか。もう100年以上経過している建物ということになる。明治末から昭和にかけての、旧海軍艦艇と自衛艦を見下ろしていたことにもなるのだ。・・・と書いておきながら、雨だったので写真撮影しておりませんです。m(_ _)m

■広島へ

 駐車場に戻り車に乗り込む。呉での活動はこれでいったん終わりなので、次の目的地である広島市に移動することにする。呉市街から広島呉道路に入り、仁保Jctから広島南道路を経て広島港(宇品)に向かった。本日午後からは道活動となる。

 宇品港近くの駐車場には1440頃に到着。車を止めてMTBを出そうかと思ったが広島の天気は雨・・・。なので歩いてR487

広島市内区間の調査に向かった。

 広島市内から宇品港へは広島電鉄市内線が延びている。瀬戸内に浮かぶ島々を結ぶ定期船の発着港となっているので、古い車輌から近年の新しい車輌まで路面電車がひっきりなしに走っている。道ネタ集めと共に鉄モードに入った@管理人。やってくる電車を片っ端から撮影してしまいますた・・・。(;´Д`)

 

 

 平20年4月の宇品港周辺は再開発事業が行われていた。広島南道路の延伸とR2バイパスの整備などで周辺道路も大きく変わっていた。R487も道路が変わっていたりするなど変化があるので、車での調査は難しいと思ったこともあってMTBを持って来たのだが、まさかの雨で歩くことになってしまった。

 海岸通りに入り北に向かう。広島市街と宇品港を結ぶ幹線道路で、道路上に路年電車が走る併用軌道区間となる。そんな道なので広い道幅かと思ったが、道幅的には4車線道ぐらい。真ん中に複線軌道があり、両脇に1車線ほどの車道があるという道であった。

 市街地の歩道をてくてくと歩く。その間にも路面電車が何両も行き交う。歩きながら見ていると、軌道内を走る車などいないことに気が付く。それが当たり前なのだが、大阪市内の阪堺電車の軌道内を車が走る光景をよく見ている@管理人にすると、妙に新鮮に見えてしまう。大阪の運転マナーが悪いということか・・・(;´Д`)

 撮影して歩いていたので広島大学付属学校近くに来たのは1530頃。下校時間なのだろう、学生服を着た小中学生達がゾロゾロと歩いて来て、狭いホームで電車を待っている。ちゃんと横断歩道を歩いている光景が妙に・・・(以下略)

 

 

 このままR2交差点まで歩いてみようかと思ったが、皆実町6丁目電停近くまで来た辺りで限界を感じた。残りは車で走ることにして宇品港に戻ることにしたが、歩いて戻る気力はなかったので復路は路面電車に乗ることにした。港に向かう方向なので学生の姿はほとんどないのでのんびり座れる。ガタゴトと揺られてあっという間に宇品港電停に着いた。

 宇品港電停は平成18年(2003年)3月末に現位置に新設・移設された。新設に合わせて広島宇品港旅客ターミナルと一体化しており、電車を降りるとすぐ正面が旅客ターミナルとなっていて雨に濡れずにターミナル内に入ることが出来るようになっていた。

 駐車場に戻り車で広島市街に向かう。海岸通りに入り先ほど歩いた道を車で走る。雨は降り続いている・・・。R2交差点を過ぎると道ネタ活動も終わる。

 

 

 本日の宿である東横イン広島平和大通には1630頃に到着。早々にチェックイン。かれこれ17時間近く活動していたので疲れ切っていたのだろう。部屋に入るなりベットに倒れ込む。目が覚めると19時半頃。腹が減ったので夕食を食べに出かけるが、近くは食堂などがなかったように見えたので、平和大通りを渡ってウロウロしていた。しばらくすると”なか卯”を見つけたので、そこで夕食となった。宿に戻ってからはダラダラと過ごす。やがて疲れたので23時過ぎには寝た。 

【本日の走行距離 383km】

>>その2に続く

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