●帝国海軍標津第二(川北)航空基地 掩体壕【北海道標津郡標津町】

 戦争後半になって 北海道東部から千島方面の防空基地として建設が開始されたのが標津航空基地です。 第一と第二の2航空基地が建設され、うち第一飛行場については戦後に(旧)中標津空港となりましたが、第二飛行場は未完成だったこともあり、そのまま農地になってしまいました。

 飛行場周辺には十数基の無蓋掩体壕が建設されたとのことですが、農地になったり林になったりしてほどんどが消失。残る掩体壕もかなり確認しずらい状態です。

>>06.07.28 Update

◆標津第二航空基地

 

 対ソ戦を意識してか、アリューシャン列島沿いに南下してくるであろうアメリカ軍を意識したのかは分かりませんが、北海道東部ならびに千島方面の防衛力強化を目的として、1942年(昭18年)度頃より北海道における既存飛行場の拡充と飛行場の新設が計画されます。

 海軍としては、すでに千歳や美幌第一(女満別)などに航空基地がありました。また稚内や厚岸などにも水上機基地がありました。そして新たな陸上航空基地 の建設候補地となったのが、広大な土地のある標津一帯でした。まずは1943年(昭18年)秋頃に標津郡中標津町開陽地区に標津第一航空基地 の建設に着工。第一航空基地は1944年(昭19年)に完成します。続いて同年、標津町東川北地区において標津第二航空基地の建設が開始されました。

 しかし第二航空基地は主滑走路や一部施設が完成しながらも、実際に戦闘機などが配置されて使用されることもなく終戦を迎えます。ほぼ完成したのは主滑走路、地下通信室、司令室、戦闘指揮所、兵舎、無蓋掩体壕だけだったそうです。

 終戦後、第一航空基地は廃棄されて農地になるかもしくは放置されます。1957年(昭32年)より北日本航空の遊覧飛行の飛行場として再利用された後に、1960年(昭35年)4月に第3種空港の中標津空港として開港。後に滑走路が延長されて現在の中標津空港に至っています。一方の第二航空基地は未完成のまま廃棄され農地となり姿を消しました。

【写真】掩体壕の近くにあった標津第二航空基地の案内看板。

標津第二航空基地掩体壕

掩体壕 2005年9月取材

●第二航空基地跡

 標津第二航空基地は主滑走路と一部施設が完成しただけで、実戦機が配備されて作戦行動を

行う前に終戦となりました。終戦後は農地として払い下げられ姿を消しましたが、上空から撮影すると滑走路跡などがはっきりと見えるようです。右写真は1978年(昭53年)に撮影された空中写真です。かなり以前の写真ですが、周囲はほとんど変わっていないので、今でも同じような感じに写るのではないでしょうか。

 左端に斜めに走るのが現在のr774(道道川北中標津線)。この道路の一部はもう一本の滑走

路として使用される予定だったそうです。真ん中の長方形が滑走路跡と平行誘導路跡。全長1200mの滑走路でした。その周囲をぐるりと取り囲んでいるのが誘導路跡。滑走路南東と北側(写真でいうと右下と上)付近に掩体壕群が建設されたそうです。

●掩体壕

 右写真は同じく1978年(昭53年)に撮影された空中写真で 、上の写真よりやや北側を撮影した写真です。滑走路の北端が見えます。その先に延びるr774に沿ってもう一本の1500m級滑走路が建設されることになっていました。

 滑走路の北側。楕円で囲んだ、r774に直角に当たる道路に沿って出来た林の中に掩体壕が認められます。写真は縮小しているので何がなんだかわかりませんが、原寸大の写真では楕円内に8基の無蓋掩体壕跡が確認できました。

【航空写真は「国土画像情報(カラー空中写真) 国土交通省」より】

●掩体壕

>>DATA

 所在地:北海道標津郡標津町

 訪問日:2005年9月20日

◆写真

 標津第二航空基地の掩体壕は、コンクリートで出来た格納庫タイプではなく、

土を盛り上げて造られた『無蓋掩体壕』と呼ばれる種類でした。それゆえ、航空撮影写真にははっきりと写りません。

 さて写真の掩体壕群がある林付近をやや大きめにしてみました。丸で囲んだ場所に無蓋掩体壕跡と思われる『U字型』の構造物が認められます。ほとんどが誘導路に沿って建設されていたことが分かります。外れている2基についても、

その前に誘導路があったのでしょう。

 写真のうち、@〜Cの番号がある4基が標津町の史跡として指定されている掩体壕です。2005年(平17年)9月に訪れたときに探したのはこの4基です。

 右側のやや奥まった所にある4基については現存しているかどうかは不明です。これら4基の存在を知ったのは、帰阪後に航空撮影写真を見てからでした。いずれまた現地を訪れることがあれば探してみます。

【航空写真は「国土画像情報(カラー空中写真) 国土交通省」より】

◆ほとんど分からない掩体壕跡

 掩体壕のあるのは標津郡標津町東川北。R244からr774(道道川北中標津線)に入って2kmほど中標津方面に進んだ付近にあります。T字交差点角に右写真のような看板があります。掩体壕前の道路は『メロディーロード』という音楽の出る道路の試験場となっているので、『メロディーロード』を目指せばすぐに着くことが出来ます。r774から町道(農道?)に入り南東方向に進んだ場合、道の右側に広がる林が掩体壕がある林となります。

 ところが一帯はすでに林となってしまっており、一見しただけではどれが掩体壕跡なのかさっぱり分かりません。もともと土を盛り上げて造られただけなので、戦後60年以上も経過すると自然

に還ってしまったようです。

 案内看板があるので、その付近に掩体壕があることが分かるので、目をこらしてよく見てみると不自然に盛り上がった盛り土が林の中にあることが分かりました。どうやらそれらが無蓋掩体壕跡のようです。道路側に開口部を向けている3基(掩体壕@

〜B)の掩体壕らしき構造物は確認できましたが、奥(滑走路跡寄り)にある1基(掩体壕C)については全く見えません。

 標津町史跡に指定しておきながらも放置状態です。このままではあと10年もすれば完全に草木に埋もれてしまい見分けすらつかなくなるでしょう。

【写真】r774沿いの目印。目立つのですぐに分かります。

◆無蓋掩体壕

 現地を訪れたのは2005年(平17年)9月のこと。まだ夏草が生い茂っている頃のことで、完全に隠されてしまっていました。 

実際に現地で見てみると草木や木立の植立の具合によって何となく輪郭が分かったのですが、帰宅してから撮影した写真を見てみると、かなり分からなくなっていました。掲載のために縮小すると更に分からなくなりました。m(_ _)m

 以下に撮影した写真を掲載しますが、かなり分かりずらくなっていることをご了承下さい。

>>掩体壕@

 南東端にある無蓋掩体壕です。写真1が道路から見た風景で、

鬱蒼とした林の手前に小さい木々が植林されています。

 奥の木々の根本付近が暗くなっています。その辺りに掩体壕の盛り土があります。開口部は道路側に向いているので、写真奥が

掩体壕の壁となります。

 草木の列が並んでいますが、それに平行して写真右→左奥方向に向かって盛り土らしきモノが写っています。

1.奥の暗い部分が盛り土。

2.拡大した写真。

 写真2が奥の部分を望遠で撮影した拡大写真。木の後ろにこんもりと盛り土があるのがなんとなく分かります。

>>掩体壕A

 真ん中にある無蓋掩体壕を写した写真だと思います。これがもっとも分かりずらい掩体壕です。ススキの後ろにある木立の中にこんもりとした盛り土があるのですが、写真ではかなりわかりずらくなっています。

 拡大したのが写真2。なんとなく盛り土があるのが分かります。

おそらく奥の壁(U字の底の部分)にあたる盛り土ではないでしょうか?

1.奥の暗い部分が盛り土。

2.拡大した写真。

>>掩体壕B

 3掩体壕の北西端にある無蓋掩体壕です。この掩体壕がもっとも分かりやすい存在です。白樺林の向こうにこんもりとした盛り土が

はっきりと分かります。

 写真1が道路より見た風景。写真2が望遠で撮影した写真です。

自然のものではなく、人工的に造られた構造物であることが分かります。掩体壕Bの他の部分も撮影したのですが、何がなんだかさっぱり分からないので、写真はこれだけです。m(_ _)m

1.これが一番よく分かります。

2.拡大した写真。

●よく分かりませんね・・・m(_ _)m

 標津町は掩体壕を史跡に指定おきながら付近一帯はそのまま放置しています。ゆえに草木は伸び放題、成長し放題という状態です。盛り土なので掩体壕の上にも草が生えておりいずれは埋没することになるでしょう。数年先には鬱蒼とした林となってしまい、掩体壕の存在は忘れ去られることになるのでしょう。

 さて、今回取材した掩体壕ですが、ご覧の通り何がなんだか分かりません。撮影した@管理人自身も、どれがどの部分なのか分かっておりません。(^^;) 掲載した写真がどうにかそれと分かる写真です。機会があれば再調査したいも のです。

 ここは初冬か初春、草木の枯れた時期に行かないとはっきりと分からないようです。

【標津第二航空基地掩体壕 終わり】

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