●帝国海軍吉田浜飛行場(松山航空基地) 掩体壕【愛媛県松山市】

 愛媛県松山市にある松山空港の前身となったのが、帝国海軍の吉田浜飛行場。194

1年(昭16年)に建設が開始され、1943年(昭18年)に完成しました。戦争末期の第

三四三航空部隊の本拠地として有名な飛行場ですが、もともとは予科練の飛行場でした。

 飛行場跡周辺にはコンクリート製の有蓋掩体壕が24基、無蓋掩体壕が39基、合計63基の掩体壕が建設されてましたが、戦後はそのほとんどが消失。現存が確認されている のは有蓋掩体壕が3基だけとなっています。                 >>06.09.12 Update

◆吉田浜飛行場(松山航空基地)

 

 1941年(昭16年)に建設が開始され、2年後の1943年(昭18年)10月に帝国海軍航空隊の吉田浜飛行場として完成しました。完成後は帝国海軍松山航空隊が置かれ、飛行予科練(練習航空隊)として延べ約15000名もの若鷲を育成しますが、1945年(昭20年)7月15日に解隊されました。

 1944年(昭19年)12月25日には、海軍軍令本部の参謀・源田実大佐(戦後に空自空将)を司令官として第三四三航空部隊が開隊。同隊は吉田浜飛行場(松山基地)を本拠地とする防空部隊で、主に呉周辺の防空を担当し、瀬戸内海から西日本一帯をカバーしていました。「紫電」・「紫電改」の戦闘機と「彩雲」という偵察機を有し、また歴戦のベテラン搭乗員を主軸とする近代的な部隊でした。 戦争末期の1945年(昭20年)3月19日の松山上空での空中戦で米軍機約50機を撃墜したのは有名な話です。

 1945年(昭20年)8月の終戦後、アメリカ軍に接収され進駐します。1952年(昭27年)に日本に返還され、以後は民間の松山空港として現在に至っています。

吉田浜飛行場掩体壕

掩体壕@ 2006年5月取材

掩体壕A 2006年5月取材   

掩体壕B 2006年5月取材

掩体壕C/D 未確認

●吉田浜飛行場(松山航空基地)跡

 吉田浜飛行場(松山航空基地)は戦後のアメリカ軍進駐の後、1952年(昭27年)7月

に日本政府に返還されます。返還後は松山空港として再スタート。1960年(昭35年)10月には第二種空港となります。

 空港は整備・拡張が行われ、1972年(昭47年)に滑走路が2000mに延長。さらに1991年(平3年)には2500mに延長され、現在の姿になりました。

 さて右写真は1974年(昭49年)に撮影された航空撮影写真です。2000mに延長された直後となります。空港滑走路の南東端付近の写真ですが、空港周辺は田畑と住宅

地が広がっています。空港周辺としては長閑な風景が広がっています。2006年5月に訪れましたが、周辺は宅地開発が進み今ではかなりの場所が宅地や工業用地になっています。

 戦時中の写真を見ると、滑走路南端から北東(写真右斜め上)方向に誘導路が延びており、誘導路に沿っていくつかの掩体壕が見られました。写真に写る田畑の多くの部分が誘導路だったことになります。

●掩体壕

 上写真の赤枠内を拡大したのが右の写真です。南北に走る道路がr22(県道伊予松山港線)です。このr22を軸にして周辺に掩体壕が5基確認できます。

 このうち現在(2006年)も存在が確認出来たのは掩体壕@〜Bの3基です。一帯は宅地開発が進んだため、写真に写っている田畑の多くは宅地となってしまいました。写真に写っている掩体壕Cと掩体壕Dについては確認できなかったため、恐らく開発のために撤去されたものと思われます。

 残る3基の掩体壕周辺については、撮影当時(1974年)と比べると大きく変わってしまい、周辺には住宅やマンションが建ち並んでいます。

【航空写真は「国土画像情報(カラー空中写真) 国土交通省」より】

掩体壕@

>>DATA

 所在地:愛媛県松山市南吉田町

 訪問日:2006年5月12日

 3基ある掩体壕の中で唯一内部まで見ることが出来るのが掩体壕@です。付近は宅地開発が進んでおり、新たに造られた道路によって掩体壕の端が削られてしまっていますが、ほとんど原型を保ったまま現存しています。2006年5月時点では掩体壕前の田畑は開発されていないため、r22道路上から全景を見ることが出来ます。

 場所ですが、r18(県道松山空港線)交差点から伊予市方面に向かい、堂之元川を渡ってから2つ目の信号を越えてすぐの交差点を左折すると見えてきます。角にバイクショップがあるので、それが目印になります。

【写真】r22道路上から見た掩体壕@。写真で見て左端の部分が削られています。

>>内部

 周囲に柵などがないので自由に出入り出来るようです。紫電や紫電改などが翼を休めていたであろう掩体壕ですが、内部は、案の定ゴミ捨て場のような状態になっていました。何故か布団が2組放置されています。お決まりのDQNの落書きもあって悲しい限りです。

 掩体壕の幅は約15m、奥行きは12mぐらいでしょうか。紫電改の全幅が約12m、全長が8.9〜9.3m、高さが約4mなので格納することができます。 掩体壕中央部には幅約8m、高さ3mぐらい、奥行き3mぐらいの小さな半円形の部屋が突き出るような形で設けられています。機体後部(尾翼部分)を入れていたのでしょう。

 内部のコンクリート表面は綺麗な状態で残っています。ひび割れが何カ所かに見られますが、すぐに崩落する危険性はないようです。

掩体壕内部。小さな半円形の部屋があります。

尾翼部分が入ったのでしょう。

内部は荒れています。何故か2組の布団があり

ました。干しているようには見えません。

内部はDQNの落書きだけ。壁にはあちこちにヒビ

が入っています。

雨水の染み込みも見られます。意外と劣化が進

んでいるようです。

内部から外を見ます。この先に誘導路と基地滑走

路があったのでしょう。

掩体壕のコンクリ表面。戦時中の建物に共通して見られる、大きな石の多いコンクリです。

>>外見

 正面から見ると半円形をしています。端部はとがっているのですが、道路側の方(正面から見て左側)の端部は残念ながら削られてしまっています。半分が土に埋もれているので凸型に見えますが、壕の入口はよく見ると十字型をしています。被弾する可能性を低くするために壁を最大限にしたのでしょう。上部に向かって切り取られているのは、垂直尾翼があるからです。正面入口が上(もしくは上下)に切り取られているのは海軍型掩体壕の特徴です。

 側面から見ると案外強い傾斜となっています。掩体壕表面は盛土がなされて擬装されていたようですが、今は土などは一切残っておらず、コンクリートが剥き出しの状態です。所々に鉄筋が認められます。松山の掩体壕は鉄筋を取るために破壊されずに済んだようです。

 後部は半円柱の構造物が突き出たような形になっています。機体後部(尾翼)を入れる部分だったのでしょう。八日市の掩体壕のようにしぼんでゆくような型にはなっていません。この型の方が建設しやすかったのでしょうか?コンクリ表面は他の部分と同じような状態でした。詳しく見たかったのですが、掩体壕@のすぐ隣の敷地には住宅が出来てしまったため近付いて見ることができませんでした。

道路側から入口を見てみます。屋根の盛土はす

でにありません。

よくみるとあちこちに鉄筋が入って(残って)いま

す。比較的多く組み入れられているようです。

隣は宅地に。車から大凡の長さ(幅)が推測でき

ます。

掩体壕入口付近の基礎がよく分かります。

入口正面右側の部分を撮影。

真横から。道路工事にともない、一部が削り取ら

れているのが残念です。

後ろの部分はこんな状態。すぐ隣に住宅が建って

いるので後部の全景は撮影できませんでした。

>>掩体壕@

 内部まで見ることが出来る唯一の掩体壕です。今の時点では入ることが出来ますが、DQNとかの溜まり場にもなっているようで、いずれは閉鎖されるかも知れません。倒壊などよりも不審火による火災の方が心配です。

 それと周囲が宅地開発されるのかどうかが気になります。壕正面に住宅が建ったら全景を見ることができなくなります。保存する気があるなら、ちゃんと整備してもらいたいものです。道路拡張か何かで潰すぐらいだから、保存する気はあまりなさそうです・・・。

 すぐ隣には住宅が建ってしまっているので、後部の状態ははっきりとしません。他人の敷地内なので勝手に入るわけにもいきません。今回は敷地外(道路上)より撮影しただけです。

 周囲は住宅街です。あまりウロウロすると不審者視されるので注意して下さい。

掩体壕A

>>DATA

 所在地:愛媛県松山市南吉田町

 訪問日:2006年5月12日

 掩体壕@の北西に位置するのが掩体壕Aです。この掩体壕周辺は宅地開発が進んでおり、掩体壕入口前には住宅が建ってしまいました。正面から掩体壕を見たり、撮影することは非常に困難になっています。

 掩体壕の敷地は手前に建った住宅の敷地内にあるのか、その家の駐車場として用いられていました。なんとも羨ましい使い方です。

 場所は堂之元川を渡って最初の信号を空港方面に曲がり(r18方向からだと右折)、150mほど進んだ付近にある住宅街内にあります。月極駐車場が目印です。

【写真】道路上から見るとこう見えます。黄色っぽい色をした住宅のすぐ隣に掩体壕があります。

 掩体壕Aの後部は、裏手にある月極駐車場内から良く見ることができます。大中二つのカマボコを並べたような形状になっています。後部の形状は掩体壕@と後述のBと同じ型です。見る限りではひび割れなどはないようです。

 掩体壕Aの特徴は壕正面の型にあります。この壕については、海軍の掩体壕ながら陸軍型掩体壕と同じように正面の壁がありません。正面から見ると掩体壕@のように十字形になっておらず、半円形の入口となっています。資材不足からなのか、工期が間に合わずにそうなったのかわかりません。珍しい型となっています。

 掩体壕正面には住宅が建ってしまったので、横の空き地からしか見ることができません。見た限りでは内部には2台ほどの車が”格納”されていました。かつては戦闘機で今は乗用車。時代の流れを感じさせます。 

掩体壕Aの後部。掩体壕@では近づけなかった

ので形状などがよく分かります。

小屋が建てられ草木が生えています。後ろは畑

か草むらが広がっています。

正面からはこれだけしか見られません。逆光気味

で見づらいですが正面は陸軍型のようです。

>>掩体壕A

 海軍の掩体壕ながら、陸軍型の正面形状をした珍しい掩体壕です。正面に住宅が建ってしまったので正面からはっきりと見れなくなったのが残念です。 この掩体壕、壕の敷地内にある住宅の駐車場として使用されているようです。もしかしたら車を入れるために正面の壁を撤去して陸軍型のようになったのかも知れません。

 正面からの撮影はほどほどにしておきましょう。盗撮でもしているのかと勘違いされて通報される恐れがあります。@管理人ですが、フェリーの到着時間の都合で、現地を朝の通学時間帯に訪問してしまったのでかなり怪しく見られました。(^^;)

 なお、隣も宅地として造成されているのでいずれは住宅が建ってしまう可能性があります。正面から見ることは非常に困難になってしまうかも知れません。松山市は周囲を公園などにして整備・保存する気は全くないようです。

掩体壕B

>>DATA

 所在地:愛媛県松山市南吉田町

 訪問日:2006年5月12日

 現存する3基のうちで空港から最も離れた位置にあるのが掩体壕Bとなります。掩体壕Bのある場所は公園かと思ったのですが、どうやら敷地自体は個人所有のようです。掩体壕自体も何かの倉庫として使用されています。周囲は宅地開発が進んでいないので、県道上から全体像を見ることが出来ます。

 3基の中では最も分かりやすい場所にあって発見も容易です。r18交差点からr22を伊予市方向に向かい、堂之元川を渡ってすぐ右側(空港方向)に建っています。県道は交通量が多いので、別の場所でUターンしてくることをお勧めします。

【写真】掩体壕B。周囲に住宅がないので全体像が良く分かります。

 掩体壕Bも他の2基と同じ形状をしています。正面の状態については板が付けられて扉が設置されてしまったので分かりません。おそらく掩体壕@と同じような型だと思います。

 周囲は畑となっています。掩体壕B自体は農機具小屋として使用されているのでしょうか?表札みたいに『掩体壕』と描かれた看板がありました。

掩体壕B正面は板で塞がれており、状態がはっ

きりとしません。

扉もついています。カギなどかかっていないようで

す。内部の状態は不明です。

扉の横にあった看板。『掩体壕』と書かれていま

す。たぶん倉庫として使用されているのでしょう。

横から見ます。大中2つのカマボコが並んだ格好

をしています。

後部から。後ろの部分は勾配(角度)がきついで

すね。周囲は畑です。

戦時中は盛土で擬装されていたのでしょうか?

ZRXは@管理人のバイク。

>>掩体壕B

 周囲に住宅などがないので全体像を見るのにはちょうど良い掩体壕です。倉庫か農機具小屋として使用されているようです

が、内部の状態は不明です。掩体壕の状態は見た限りでは良好のようです。

掩体壕CとD

 

 写真に写っている掩体壕CとDですが、この2つについては未確認のままとなっています。現在は宅地や他の建物が建っていたように思います。おそらく破壊・撤去されています。再訪することがあれば、痕跡だけでも探して来ようと思っています。

【吉田浜飛行場(松山航空基地)掩体壕 終わり】

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