>>2009.07.01 Update

●美保航空基地

 航空自衛隊美保基地は、鳥取県西部の弓ヶ浜半島にある航空基地。西日本唯一の輸送機部隊が所属しています。美保基地は自衛隊機・民間機の共用飛行場としても指定され、米子空港が併設されています。また第8管区海上保安部美保航空基地も設けられています。

 この美保基地の前身となったのが、旧帝国海軍美保航空基地。昭和14年(1939)3月に用地買収と基地建設が開始され、昭和18年(1943)6月に第1期工事が完了。同年10月に美保海軍航空隊が開隊し、第13期甲種飛行予科練習生が入隊します。

さらに昭和19年(1944)9月には第二美保海軍航空隊が開隊し、主に甲種予科練生の訓練が行われました。

【下写真】:壕に取り付けられていた甲種予科練の銘板。

 

 

 しかし昭和20年(1945)2月、第二美保海軍航空隊は奈良県桜井市に開設された柳本飛行場に転出して早くも解隊。第一航空隊も他部隊への転出が行われ、同年6月末をもって解隊されます。それ以後は実戦部隊の作戦基地となり本土決戦に待機しますが終戦により、基地そのものが閉鎖となりました。

 昭和20年11月、飛行場は連合国軍に接収。接収中の昭和30年(1955)6月には航空自衛隊の部隊が配備され、昭和33年(1958)9月の返還後は航空自衛隊美保基地となり現在に至っています。

 民間空港の米子空港としては、接収中の昭和33年(1958)5月から定期便が運行されていました。返還後は自衛隊機・民間機の共用空港として再スタート。昭和48年(1973)3月には1500m新滑走路の供用開始。昭和55年(1980)10月に空港ビルが完成。平8年(1996)3月には滑走路が2000mに延長され、またターミナルビルの増改築工事が終了するなど、民間空港として拡大整備が進んでいます。なお滑走路は平成22年(2010)度までに2500mまで延長される計画で、周辺道路とJR境線の迂回工事が行われています。

●掩体壕

 昭和18年(1943)に開隊した美保海軍航空隊ですが、先に滑走路などの施設を優先的に建設したため、兵舎や掩体壕などの施設は開隊までに間に合いませんでした。掩体壕などの施設の建設は昭和18年12月から開始され、完成したのは翌昭和19年(1944)中頃だったそうです。

 有蓋掩体壕、無蓋掩体壕などがいくつ建設されたのかは分かりませんが、昭和49年(1974)撮影の航空撮影写真(下写真)を見ると、美保基地(米子空港)周辺には6〜7基の有蓋掩体壕が確認され、また少し離れた場所には壕らしき構造物を確認することが出来ます。JR境線から南の一帯が旧海軍美保航空基地の敷地だったエリア。この一帯に兵舎や格納庫、掩体壕が建設されたそうです。

 

 

 撮影された昭和49年(1974)の頃には、1500m級の新滑走路が供用開始となった後の頃。写真左端に写っている真新しい白い滑走路が新滑走路(現在の滑走路 の前身)。それに交差するような形のタイヤの跡が残っている滑走路が、1200m級の旧滑走路で用途廃止されています。海軍航空隊基地の滑走路だったのは旧滑走路の方です。

 この写真では有蓋掩体壕が6基確認できます。掩体壕AとBは現在(平20年6月時点)でも健在ですが、美保基地の敷地内にあります。掩体壕”あ””い”付近には県道のバイパス道路が建設されたため、現存しているかどうかは不明。現地調査の時は

見つけられませんでした。掩体壕”う””え”のある辺り一帯は、現在は米子空港ターミナルビルと駐車場などになっており、現存していません。掩体壕”う””え”周辺には他に1〜2基の掩体壕が写真に写っており、空港ターミナル付近には4基前後の掩体壕があったと思われます。

 掩体壕群から離れた場所にある壕は航空機用の掩体壕ではなく、単なる『壕』とのこと。発電壕か指揮壕かは不明です。

 

 

 上写真は昭和51年(1976)撮影の航空撮影写真。滑走路南東側のみを拡大しています。掩体壕@〜Bが現存している掩体壕で、掩体壕”あ””い”は前述の通り、現存しているかどうかは不明です。

 平12年(2000)撮影の航空撮影写真では、”あ”と”い”の位置に掩体壕らしき構造物が写っていました。掩体壕なのか盛り土なのかは分かりません。また滑走路北西側(空港北西側)にも誘導路があって、その先に掩体壕があったそうです。そちらは全く調べていません。機会があれば再度調査に行きたいものです。

■掩体壕@

 航空撮影写真に記してある掩体壕@です。現在は真正面をr47(県道米子境港線)が通っており、道路上からよく見えます。

美保基地の掩体壕群の中で最も有名な掩体壕です。

 

 

 正面携帯は凸型をしています。垂直尾翼を通すためです。大きさからして小型機用掩体壕です。掩体壕上部には盛土が残り草木が生えています。後方は田畑の中に入らねばならず撮影していません。 掩体壕正面は滑走路(旧滑走路)に向いています。

 

 

 別角度から撮影。各地の掩体壕と同じく、あちこちに亀裂が入っています。掩体壕内部の地面はもっと下にあったはずです。

でないと、この開口部の高さでは機体が入りません。現在は倉庫として使用されています。

 

 

 掩体壕内部の奥を撮影。最後部は開口状態となっています。他の掩体壕も開口していたので、もともと開口していたようです。この内部状態からすると、外形は高知飛行場掩体壕と同じような形態をしているものと思われます。

 掩体壕内部はご覧の通りいろんな物が置いてあります。

 美保基地の掩体壕が建設されたのは昭和18年(1943)頃。資材にまだ余裕があったのか、内地ということもあってコンクリートの状態はマシな状態です。大きな石が混ざっていません。補強のための鉄網もありました。しかしコンクリ表面の剥離や亀裂、漏水などが認められます。状態は良好な部類に入りますが、建築後65年ほど経過するとあちこちに老朽化が目立ちます。

掩体壕内部の天井部分。コンクリの剥離や亀裂は少なく、状態は良好な部

類に入ります。建設時の板の当て方がよく分かります。

縮小写真では分かりずらいのですが、網目状の鉄網がコンクリ内にありまし

た。資材に余裕のある頃の建設だからでしょうか?コンクリもマシな状態。

正面左端の部分を撮影。やや大きい石が混じっています。表面には大きな石

がありますが、建設当初からあるのかは不明。

正面の上部を撮影。継ぎ目に沿って亀裂が走っていますが、大きな剥離など

は見られません。厳しい気象条件下にあるのに状態は良好です。

 最後に正面から撮影。r47の中央分離帯付近から撮影しないと正面全景は入りません。撮影時は走行する車に要注意です。

 

 

■掩体壕A/掩体壕B

 掩体壕@とはr47を挟んで北西の方向にあります。2基が近い位置に建っており、共に正面は滑走路方向を向いています。なお、2基とも美保基地の敷地内にあるため、敷地外からしか見ることが出来ません。

 

 

 道路の歩道から敷地内の掩体壕を撮影。手前の舗装は用途廃止となった旧滑走路の一部。その向こうに、こんもりとした丘のようなのが掩体壕。写真左が掩体壕A、右にあるのが掩体壕Bです。位置的には掩体壕Bが旧滑走路寄りの位置にあります。

・掩体壕A

 

 

 掩体壕A。ほぼ真横から撮影しています。大小の半円形がくっついた形をしています。前の部分には盛土が残っており、草木が生えています。あいにくとコンパクトデジカメの望遠モードで撮影したので、詳しい状態は分かりません。

 

 

 掩体壕Aはr47のすぐ近くにあるので、歩道からフェンス越しに見ることが出来ます。後方から掩体壕Aを撮影。後方に開口部があるので、美保基地の掩体壕は後部に開口部があるようです。ここから見るかぎりではコンクリの状態は良好なようです。

・掩体壕B

 

 

 掩体壕B。少しだけ正面が見えていますが、草に隠れてよく見えません。掩体壕Aと同じく大小の半円形がくっついた形をしているようです。掩体壕Aと比べると盛土が多く残っています。後部が見えないところを見ると、ほぼ全体が盛土で覆われているようです。

 

 

 r47の歩道からフェンス越しに撮影。周囲には草が生い茂っているためほとんど隠れてしまっています。後部の一部だけが見えています。ほぼ完全な(?)盛土を覆った掩体壕ということでしょうか?

 

 

 最後に美保基地の風景を。旧滑走路の向こうに航空自衛隊美保基地の格納庫などが見えます。手前に駐機しているのはC1輸送機。右端はYS11ですかね?

取材日:平成20年(2008)6月7日

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