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●帝国陸軍北伊勢飛行場 掩体壕【三重県鈴鹿市】 三重県亀山市能褒野(のぼの)町から三重県鈴鹿市広瀬町にかけての地域に建設されたのが陸軍岐阜飛行学校北伊勢分教所(通称「北伊勢飛行場」)。大東亜戦争(太平洋戦争)後半、本土空襲が激しくなったため、飛行機の分散・退避させるために掩体壕が多数建設されました。 三重県鈴鹿市三畑町に残る掩体壕はこのときの1基で、唯一残る有蓋掩体壕です。この掩体壕、国の登録有形文化財として登録されています。
>>08.02.07 Update |
●北伊勢飛行場と追分飛行場 |
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終戦前、三重県鈴鹿市周辺には2つの陸軍飛行場がありました。北伊勢飛行場(通称)と追分飛行場です。両飛行場はかなり近い所にありましたが、歴史的には北伊勢飛行場が先に完成しています。 資料集めであちこちのサイトや三重県立図書館で文献を見ていると、北伊勢飛行場と追分飛行場を間違えていたり、ごちゃ混ぜにしているものがいくつかありました。ほとんど資料が残っていないし、両飛行場が近接していたので無理はないかと思います。実際、最初は管理人も追分飛行場を北伊勢飛行場と思っていましたから・・・。 まずは両飛行場について説明しますが、幾分にも資料が少なすぎるため、あまり詳しくありません。 >>北伊勢飛行場 北伊勢飛行場は、対米英戦争が始まる少し前、1941年(昭16年)4月に開設された陸軍飛行場です。現在の三重県亀山市能褒野(のぼの)町〜三重県鈴鹿市広瀬町にかけて建設された飛行場で、東西方向に2本の滑走路が設けられ、他にも兵舎や格納庫が数基建設されたとのことです。この飛行場には陸軍岐阜飛行学校北伊勢分教所(*1)や第一教導飛行隊北伊勢分教場などが置かれ、陸軍航空隊の搭乗員育成が主な目的でした。 終戦により飛行場は閉鎖。滑走路は破壊され用地は農地に払い下げられたようで、1947年(昭22年)の米軍撮影の航空写真には滑走路の痕跡ぐらいしか写っていません。現在の古川電工亀山工場がある一帯が飛行場諸施設や滑走路の一部があった所だと思われます。 >>追分飛行場 搭乗員不足から大量の搭乗員が必要となりましたが、北伊勢飛行場だけは追いつかず、補完的な飛行場として陸軍追分飛行場が1943年(昭18年)に突貫工事によって建設されました。北伊勢飛行場の北西、現在の鈴鹿市追分町付近に建設された飛行場で、東西約2000m、南北約1800mの未舗装滑走路2本が十字の形で交差する、独特の形をした飛行場でした。戦後の1947年(昭22年)に米軍によって撮影された航空撮影写真にははっきりと滑走路が写っています。 今はすべてが開墾されて農地になっており何も残っていませんが、同基地用の無蓋掩体壕が数基残っているそうです。 *1:岐阜飛行学校は1943年(昭18年)4月に廃校となったので、以後は陸軍明野飛行学校北伊勢分教所に移管されます。 |
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●北伊勢飛行場掩体壕 |
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米軍による日本本土空襲が激しくなり始めた戦争後半、陸軍では飛行機を分散・避難させることを計画。北伊勢飛行場北部に誘導路を建設して飛行機の退避施設である掩体壕の建設を開始します。数基建設され無蓋掩体壕・有蓋掩体壕のうちの1つが鈴鹿市三畑町の掩体壕となります。 |
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1975年(昭50年)撮影の航空撮影写真に写る扇形の建築物が掩体壕。ここから南西方向(写真だと左下方向)に北伊勢飛行場の滑走路があったとのこと。ここまで誘導路があったのですが、今はご覧の通り跡形もなくなっています。 またこの掩体壕周囲には4基ほどの無蓋掩体壕があったとのことですが、こられも全て破壊されて農地になってしまっています。 三畑町の掩体壕は、幅29.6m、奥行き23.1mの扇形をしており、現在は農家の方の敷地内にあり、個人所有物となっています。 管理人の知る限りでは、三重県内唯一の有蓋掩体壕だと思います。 なお、近くの追分飛行場跡周辺には無蓋掩体壕が今でも残っているそうです。 |
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この掩体壕は終戦直後は内部に土が詰まった状態だったとか。内部に土が詰まった状態ということは、この掩体壕は一度も飛行機を内部に収納することなく(つまりは一度も使用されることなく)終戦を迎えたということになります。詰まっていた土ですが、おそらくは掩体壕の型枠を押さえるための盛土だったと言われています。 この話から推測するに、掩体壕は・・・ 1.掩体壕の外形を土で作る。 2.盛土の表面に板を敷いて型枠を設置。 3.必要最小限の鉄筋を入れて(もしくは鉄筋なし)、コンクリートを流し込む。 4.固まったら内部の盛土をかき出し、内部を整地して完成。 ・・・という作業で建設したということでしょうか? |
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取材日:2007年8月9日 【航空写真は「国土画像情報(カラー空中写真) 国土交通省」より】 |
◆北伊勢飛行場掩体壕【三重県鈴鹿市三畑町】 |
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東名阪道鈴鹿ICを下りてr41(県道神戸長沢線)に入り、鈴鹿市街方向に2kmほど進むと鈴鹿市三畑町に到着します。この三畑町の集落内にある農家の敷地内に北伊勢飛行場の掩体壕が残っています。 県道から市道(?)へ入り、さらに集落内を通る狭路に入って少し進むとこんもりとした丘のような半円形のコンクリ構造物が見えてきました。近づくと掩体壕であることがわかります。 個人の敷地内(庭?)にあるので、道路上から撮影したあと、家の方の撮影許可を頂いてから敷地内に入り撮影しています。 |
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掩体壕のコンクリ表面を見てみると、他地区の掩体壕同様、大きな石が混ざっており、一目見て粗悪なコンクリートであることが分かります。崩壊があまり進んでいないのは、鉄筋がやや多く使われているからでしょうか。 |
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許可を得てから掩体壕壕内部へと向かいます。前方の開口部の幅は約30m近く。小型機ならば無理すれば2機平行して格納することができます。奥行きは約23mだとか。現在は農機具置き場として使用さています。 内部を見ます。ここの特徴がもう一つあります。2カ所に設置された出っ張りです。この掩体壕は飛行機の整備用掩体壕として作られたとのこと。整備用とするならば、ここに何かを設置する予定だったのでしょう。 コンクリ表面を見てみると、あちこちに水が染みこんできているのが分かります。一部ではコンクリ塊が脱落している場所や、 雨漏りしているところもあり、劣化が進行しているようです。 |
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●登録有形文化財に指定されている掩体壕 |
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北伊勢飛行場の掩体壕は、2004年(平16年)2月に国の登録有形文化財に指定されています。掩体壕には左写真のプレートが埋め込まれており、文化財として登録されていることを示していました。選定理由は『現存例が少ない貴重な戦争遺跡』などだそうです。実際にはあちこちに残っていますけどね・・・。 市町村や都道府県の文化財などに指定されている掩体壕はあるそうですが、国の文化財として登録されているのはここだけではないでしょうか? ちなみに登録有形文化財に指定されると、必要な修復の設計管理費の半分を国が補助 |
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し、敷地の地価税が半分に減税されるという優遇処置を受けることができるとのこと。 |
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取材した当日、この掩体壕の持ち主の方とお会いして許可を頂いた際、いろいろとお話を聞くことができました。 持ち主の方は戦争中は陸軍工兵として従軍。1944年(昭19年)には比島(フィリピン)のクラーク基地に配置されていたとのこと。米軍による比島攻略戦が始まる直前に、たまたま上司の士官と共に台湾の陸軍飛行場に転属。台湾で終戦を迎え復員し無事帰国。基地に残った部隊の戦友は誰一人として消息が分からないとか・・・。「あのまま比島にいたなら死んでいただろう」とおっしゃられていました。実際に体験された方のお話は重みがあります。 戦後はこの地で農業を営み現在に至っています。農業を始める際に掩体壕共々この地を購入。朝鮮戦争時の鉄価格高騰の際に、掩体壕を壊して鉄筋を取り出そうという話があったそうですが、頑として断られたそうで。おかげで現在も掩体壕があるというわけです。 現在でも月に1〜2人ほどの来訪者があるそうです。当時、少年飛行兵だった方達も懐かしがってこられるそうで。あとは私のようなマニアか、大学やコンクリ会社の研究員などがちらほらと。こらからも大切にして欲しいものです。 掩体壕が文化財に指定されているという話から、掩体壕の現状の話になりました。掩体壕も老朽化が進み、あちこち補修しなくてはならないとか。雨漏りがひどく、水受け用のバケツには雨水が溜まっていました。あちこち状態が悪い場所を示しながら、「修理費用を県(国?)が予算難を理由に出してくれない」「知り合いの議員を通じているけど、なかなか返事がこない」と嘆いておられました。文化財に指定するのはいいけど、あとのフォローができていないのですな。┐(´д`)┌ 最後に農業の話題に。辻氏は「外国野菜などを輸入していてはダメだ」とおっしゃられていました。食を外国に依存しているのがおかしいというのです。まさしく正論。戦中そして戦後の食糧難の時代を実体験して来られた方だからこそ、”食”の重要性を理解しておられるのですな。実に重みのあるお言葉でした。 2008.02記 |
北伊勢飛行場掩体壕【終わり】 |