●帝国陸軍大正飛行場 掩体壕【大阪府八尾市】

 大阪府八尾市垣内には、大阪府唯一の掩体壕が残っています。この掩体壕は、八尾にあった陸軍航空隊大正飛行場(現:八尾空港)の掩体壕として、1943年(昭18年)頃に建設されたそうです。

 建設の詳しい経緯は不明ですが、当時の 大正飛行場は陸軍航空隊の第11飛行師団が置かれた実戦基地であり、近畿・中国・四国の防空を担っていました。そのため、連合国軍の攻撃を真っ先に受ける場所だったため、貴重な戦闘機を攻撃から守るために建設されたのでしょう。

 建設予定地の農地は強制的に買い上げ(接収)されたそうで、多数の地元住民を始め朝鮮人労働者が建設に従事したとのこと。建設された数は不明ですが、聞く所では現在の大阪府八尾市垣内地区〜恩知地区にかけて、コンクリート製や木造(?)の物を含めて4〜6つほどの掩体壕があったそうです。

 戦後になって用地が返還されると掩体壕は撤去されたそうですが、一部はそのまま残って農機具を入れる倉庫代わりに使用されていました。しかし老朽化や宅地開発などが進んだため、年々その数は減って行き、2004年2月時点で残っているのは、これから紹介する掩体壕ただ1つだけとなりました。

 場所は離れますが、現在の八尾飛行場の南東付近一帯(八尾市太田新町9丁目付近〜西弓削町付近)にも掩体壕が12基あったそうです。こちらは滑走路のすぐ近くとなります。1963年(昭38年)頃の地図には掩体壕を示すマークがあり、少なくてもその頃までは存在していたことになります。ただ現在は、付近一帯は工場や運送会社事務所、宅地と化しており掩体壕は跡形もなく消失しています。(2005年12月に確認)

八尾空港

 

 大阪府八尾市には八尾空港があります。ジェット旅客 機などが離発着するような大きな飛行場ではなく、個人所有のセスナ機や民間ヘリコプター、警察ヘリなどが使用する飛行場です。陸上自衛隊のヘリコプターも配備されています。

 この八尾飛行場の前身は、大阪府大正村(現八尾市)に、1934年(昭9年)に設立された阪神飛行学校となります。同学校は財団法人阪神航空協会により設立された民間の航空学校でした。1938年(昭13年)に航空局米子航空機乗務養成所阪神分教場が設置され、翌1939年(昭14年)に大正飛行場と改称されます。

 しかし1940年(昭15年)に陸軍に接収され、1941年(昭16年)に軍用飛行場となりました。太平洋戦争中は第11飛行師団が置かれ、近畿・中国・四国の防空を担当しました。また航空補給廠も設けられました。

 1945年(昭20年)8月の終戦後は、アメリカ軍に接収され阪神飛行場と改称。1954年(昭29年)に日本政府に全面返還され、その後は民間飛行場の八尾空港として現在に至っています。

【写真】:現在の八尾空港入口にある銘板。この先は軍用鉄道引き込み線跡だそうです。

大正飛行場掩体壕

掩体壕(その1) 2004年2月取材

掩体壕(その2) 2005年12月取材

●掩体壕(その1)

>>DATA

 所在地:大阪府八尾市垣内

 訪問日:2004年2月24日

◆掩体壕(外観)

 大阪府柏原市の安堂交差点で、R25からR170旧道(東高野街道)に入り北上します。柏原市から八尾市に入ると、昔の街並みが残る旧街道っぽい風景の中を進んで行きます。恩知神社入口前でr15(府道八尾茨木線)が分岐すると、ほどなくして八尾市立南高安小学校前を通過。そこから300mほど北上した辺りにある交差点を右折し少し進むと、1車線幅の狭路となって町の裏手に出ます。

 『村の裏道』という感じの狭路を進んで行くと田畑の脇に出ます。そこから右側(山手)を見てみ

ると、どう見ても違和感のあるコンクリート製の建造物が畑の中にあることに気が付きます。それが掩体壕です。

 すぐ近くから高台に至る畦道があるので、そこを歩いて行くと掩体壕に近づけます。畑と掩体壕を迂回するようにして町内へ向かう畦道があるので、そこを歩きながら掩体壕の外観を確認することが出来ます。

 掩体壕は半円形の逆U字形コンクリート製となっています。蒲鉾のような感じだと言えば想像できるでしょうか。全長(奥行き)は約15〜20m、幅は前方が約20〜25m、後方が約10〜12m、高さは地面(床?)部分から約15〜20mという大きさでした。(注意:目測なので、数値は適当です。)

 掩体壕は、最低でも戦闘機を1機完全に隠せるだけの大きさが必要です。2002年(平14年)4月に知覧特攻平和会館に展示されている3式戦『飛燕』と4式戦『疾風』の実物を見ていたので、この掩体壕はどうみても長さが足りないことに気付きました。また掩体壕は完全に覆われていないとおかしいわけで、後部がぽっかりと開いているのはおかしいのです。近づくいて見てみると、周囲にはコンクリートの残骸があったので、戦後のいつ頃かは分かりませんが前方と後方部分を撤去したようです。

 切断面のコンクリートを見てみると、石が大変多いことに気が付きます。よく見ると小さい木片も混じっています。鉄筋は全くと言っていいほど見あたりません。急造したので造りが雑だったというよりも、太平洋戦争開戦2年あまりにして資材不足だったことが伺えます。

 斜め前方より。掩体壕としては中途半端な形を

 しています。全長(奥行き)が短いのです。

 横より撮影。前方と後方部分が無くなっていま

 す。戦後になってから撤去されたそうです。

 斜め後方より。後ろ側にも入口が出来ています。

 本来はここもコンクリで覆われています。

◆掩体壕(内部)

 掩体壕のある土地は個人の農地となっています。近くに農家の方がおられたので許可を得て入りました。

 内部は周囲の地面より2mほど深く掘られています。壕前方は丘のようになっており、掩体壕内部から前方は全く見えません。これも謎です。掩体壕の内部に飛行機が置かれていたのならば、前方は開けているはずです。

 現在の内部は農機具置き場となっており、一部分が畑となっていました。天井を見ると至る所から漏水の跡が・・・。かなり痛んでおり老朽化が進んでいるようです。木枠の跡があるので、アーチ場に木枠を組んでコンクリートを流して建設したのでしょう。所々にある穴は、連合国軍の戦闘機(艦載機)による機銃掃射の跡かもしれません。また天井には電線と電球のソケットが残っていました。これは建設当時に付けられた物でしょう。

 野外音楽堂のようなアーチ構造となっていま

 す。内部は結構広くなっていました。

 ご覧の通り、内部は農機具置き場となっていま

 す。前方から後方を撮影。

 後方から前方を撮影。前方は小高い丘になって

 います。これでは戦闘機が出られません。

 コンクリートの老朽化が進んでいましまた。至る

 所から漏水の跡が・・・

 右端にあるのが電線と電球の跡。左端の穴は

 機銃の穴か爆破のための穴だそうです。

 丘から前方を撮影。ここから八尾基地に向かって

 幅約40mの道路が延びていたそうです。

◆掩体壕(撤去部分)

 掩体壕後方付近には見あたらなかったのですが、前方付近にはコンクリートの塊や基部が不自然に残っていました。これらのコンクリート片は撤去された部分です。

 現存する掩体壕の天蓋付け根から前方に向かって8mぐらいのコンクリ製の基部が残っています。断面は明らかに人為的に破壊されたことを示しています。掩体壕内部にある畑の前方にある丘の斜面には、不自然な埋もれた状態でコンクリの塊が残っています。近づいて見てみると、内側は現存する壕天蓋と同じく木枠の跡が付いているので、撤去された壕前方部の天蓋のようです。

 さらに掩体壕前方にある小高い丘の向こうには『L字型』のコンクリ製の基礎が残っていました。縁にあるコンクリ基部を辿って行くと、どうやらそこに行き着くようです。ここがかつての掩体壕前方部であり、入口だったということになります。

 天蓋付け根から8mほど前方に延びる基部。

 畑のある部分も覆われていたことになります。

 壕内部にある畑の前にある丘の斜面にはコン

 クリの塊がありました。

 左写真のアップ。天蓋だった部分だと思われま

 す。コンクリ断面が雑なのが分かります。

 丘の反対側にあったL字型基部。これが掩体

 壕最前部分となります。反対側(北側)にもL字

 形基部が残っています。

 右の竹林の付近にコンクリの壁があります。こ

 こまでが掩体壕でした。かなり大きな壕だった

 ようです。

 掩体壕左側の壁となる部分。斜面を覆っている

 コンクリ壁ではありません。周囲の土砂は掩体

 壕を覆っていた土砂とのことです。

◆掩体壕あれこれ

 掩体壕を取材する私達一行を、近くの農機具小屋から眺める農家の方達がおられたのでお話を伺いました。60歳代後半〜70歳代前半の方々で、かなり詳しいお話を聞くことが出来ました。(これまでの本文中に書いてある詳細は、この方々から聞いたお話です。)

>>戦争中

 完成したのは1943年(昭18年)頃。当時は入口から八尾飛行場に向かって幅約40mの道路が付けられていたそうです。戦闘機は、馬や牛に引かれて基地に移動していたとか・・・。この掩体壕には戦闘機は配置されていなかったそうで、主に飛行機の部品(補修部品や予備部品)が置かれていたそうです。

 完成した掩体壕はコンクリートむき出しではなく、上に土をかぶせて草木を植えてカモフラージュしてありました。当時の農家の人達は、朝に掩体壕の上に植えた草木に水をやることから1日が始まったそうです。そんなことしてもすぐに見破られたとかで、連合軍戦闘機の機銃掃射を受けていたそうです。

>>戦後

 戦争が終わると掩体壕は利用価値がなくなり放棄されました。土地は元の持ち主に返還されても掩体壕自体はそのまま残りました。掩体壕を手入れすることもなくなったため、コンクリートの上にあった土砂は次第に崩れていったとか。掩体壕周辺の田畑が一段高くなっているのは、掩体壕を覆っていた土砂が崩れた結果だそうです。

 部分撤去されたのがいつかというと、どうやら朝鮮戦争(1950〜53年)の頃のようです。戦争が始まったことにより、いわゆる『特需』が発生。これを機会に日本経済が息を吹き返します。この時期、鉄の値段が異常に高騰したため、掩体壕に入っている鉄筋を取り出すためにダイナマイトを入れて爆破したそうです。ところが爆破してみたら、コンクリ内部には鉄筋がほとんど無いことが判明。これ以上爆破するのは無駄だと言うことで爆破は中止され、再び放棄されて現在に至るというわけです。表面のあちこちにある穴はダイナマイトを入れるための穴だったのです。

 丘の斜面に埋まっていたコンクリ片は爆破時に崩落した天蓋部分であり、小高い丘になっている部分の土は掩体壕を覆っていた土だったということなのでしょう。後方から前方を見た時、全く前が見えなかった理由が分かりました。

 近くの丘から掩体壕全景を撮影。ここもあと何

 年もつのでしょうか?

 表面にあった直径2cmぐらいの穴。ここにダイ

 ナマイトを入れて爆破したそうです。

 農家の方々のお話を熱心に聞く調査隊。お話は

 生駒山にいるイノブタの話に変わりました。(^^;)

◆掩体壕のこれから

 管理人の知っている範疇では、大阪府内の航空基地は3箇所(八尾、伊丹、泉佐野)にありました。泉佐野の基地は跡形無く消え去り、伊丹基地は大阪国際空港へ、八尾基地は八尾空港になりました。戦後60年ほど経過して、周辺も開発が進んだため(おそらく建設されたであろう)掩体壕は撤去されたものと思われます。八尾に残る掩体壕は、不完全な形ながらも大阪府唯一の掩体壕となっています。

 しかし亀裂や漏水などの老朽化が激しく、いつ崩壊してもおかしくない状態です。今後数年の間に農地が宅地になる可能性もあります。そうなると貴重な『 掩体壕』は過去帳入りすることになります。

 『掩体壕』は当時の日本 の建設技術を物語る貴重な歴史的資料として残すべきものだと思うのです。(注意:『過去の行為の反省』のために残すというのではありまへん) 個人での保存が難しい以上、八尾市や大阪府などの行政が積極的に保存してもらいたいものです。関東地方では掩体壕を『史跡』として保存されている場合が多く、東西で対称的な状態となっています。「前例がない」わけではないのですけどね・・・。

 大阪府は戦争関連の建築物の保存には消極的なので難しいかもしれませんなぁ・・・。

 八尾上空は大阪空港への着陸コースに入っているため、上空をジェット旅客機がよく飛んでいます。取材時も何機かの旅客機が上空を飛んで行きました。太平洋戦争末期に、無差別爆撃を行うB29や民間人を狙って機銃掃射する戦闘機を眺めていた掩体壕は、平和な時代の中で民間旅客機を眺めながら静かに余生を送っています。

【注意】

 八尾の掩体壕は、個人所有の畑の中にあります。許可を得ずに勝手に立ち入ったりしないで下さい。畑の中を勝手に歩くなど非常識な行為は慎んで下さい。

☆★☆ しょ〜とつ〜りんぐれぽ〜と ★☆★

『掩体壕を探そう!』ツーリング

 【2004年2月24日(火)】

 今回の掩体壕は、ひすあきさん主催のツーリングオフ会で訪れました。参加者は、あめふらし@管理人の他、ひすあきさん、@こ@さん、息子さんの計4名。原付バイクでのんびりとご近所ツーリングとなりました。

>>日本の未来・・・

 お話を伺った農家の方々とは、戦争以外の話も含めて30分ほど話していました。現在の日本の農政についての話では、「自給率が低く、輸入ばかりに頼っていては国に成り立たない」と嘆いておられました。確かに『食』は国の存亡に関わる一大要因です。農家の方は敏感に感じておら

れるはずです。

 2004年2月末は、アメリカのBSE騒動で牛肉の輸入がストップした直後の時期だったので、『食』について考えるのにはうってつけの機会だったはずです。ところがマスコミは『吉野家や松屋などから牛丼がなくなる』というネタばかり。(゚Д゚)ハァ? 

 「今の日本人は、食べ物が何もしなくても無尽蔵に出てくると思っている。誰かが作ってくれるだろうと考えている上に、無ければ作るのではなく買えば良いとも思っている。だから食べ物を粗末に扱っている。」ともおっしゃっておられました。

 その続きで、「国を守るのも、何かがあれば誰かが守ってくれると信じ切っている。(この場合の誰か=アメリカ)」 自分の国を自分たちで守ろうとしない国がどこにあるのかと、いつからこんな情けない国民になったのかと嘆いておられました。そしてこうもおっしゃっておられました。

 

「世界の誰もが食料を売ってくれない、(アメリカが)守ってくれないとなったらどうするんだ?」

 「自分のことは自分でやる。やってもらったならば感謝するという、世界の常識を知らない島国根性が嫌いだ」

 

 現在の日本の繁栄が昔からあったのではなく、多くの犠牲の上に手に入れたこと。そして今の繁栄を支えているのは、諸外国からの食料・原材料の輸入であることを知らない人達のなんと多いことか・・・。日本という島国的発想で世界全体を見ないで過ごしている今の日本は、太平洋戦争当時と同じままです。この島国の考え方を変えない限り、日本はどんどん没落していくかも知れません。

>>イノブタ700頭Σ(゚Д゚)マジ!?

 その後話題がコロリと変わりました。「生駒山中にはイノブタが700頭もおるんや。そいつらが悪さをしよるから困っとる。」

 なんでも近くにイノブタを養殖しようとした業者がいたそうですが、事業に失敗してしまい山中にイノブタを放棄。それがそのまま野生化・増殖したそうです。すでに野生の猪のごとく、牙も生えかなり大きくなっているとか。((((;゚Д゚)))) 

 生駒山の大阪府側をねぐらとして、奈良県側で仕事(餌を取る)をしているとか・・・ 府県を跨いでいるので駆除するのが難しいそうです。

 「天敵がいないからやよ。昔は狼がいたから自然と調整していたのに、狼を人間が駆除したからこうなったんだ。」

 ニホンカモシカもそうですが、現在個体数が増えすぎて大問題になっている動物は結構多いのが現実です。個体数が多くなって人里まで下りてきて農作物を荒らす事例が続出しています。原因は、天敵である『狼』を絶滅させた人間にあるとおっしゃっておられました。

「生駒山への登山道があるが、決して1人で歩いてはあかんよ。あいつら(イノブタ)は人間なんて怖くないから、平気で突進してくるぞ。2人でもあかんからなぁ。」

 生駒山中を歩かれる場合は、4〜5人で行きましょう・・・(^^;)

>>農業用発動機

 掩体壕の調査の後、ひすあきさんの知り合いであるKさんのお宅にお邪魔します。ガレージに

案内されましたが、なんとそこは機会好きの方には宝の山でした。昔のバイク・車が所狭しと置かれ、至る所に部品が置かれておりました。何があるか分かりません。メッサーシュミットもありました。ヽ(゚∀゚)ノ

 昼飯の後は『農発』(農業用発動機)を動かして遊びました。へっぴり腰でびびりながらも、あめふらしも『農発』を動かしました。(^^;) 『原動機付き自転車』(パタコ?)も動かそうとしましたが、

BSモーターの調子が悪く断念。

 「休みの日に、お店に突然押しかけて遊んですみません。」と言ったら、Kさんは旧車のレストア屋さんではなく別の職業の方だそうです。趣味でいろんなエンジンやバイク本体を集めてレストアされていると聞いて驚きました。ちゃんと整備して丁寧に扱えばいつまでも動くということです。古いからとすぐに捨てるのではなく、寿命が尽きる(限界)まで使ってあげましょう。

 突然押しかけ(しかも初対面)、現在のバイクの先祖に当たるいろんな物を見せて頂きました。m(_ _)m

 この日は古い物づくしの1日でした。

【終わり】

>>八尾の掩体壕 その2

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