◇◆◇ 特別攻撃隊への私考 ◇◆◇

 最初に断っておきますけど、私は右翼や軍国主義者でもないし、左翼や共産主義主義者でもございません。政治や思想といったことについては、サイトで

は一切記述しないことにしていますが、ここでは少し触れるかもしれません。あくまでも、『一日本人』として書くことにします。そういうことに興味のない方は飛

ばして下さい。

 ここでは特攻隊についての考えを述べていますが、本質的には先の戦争に参加されて亡くなられた方、犠牲となった方々への思いと見て下さい。

 なお、文字数を減らすために、「特別攻撃」は「特攻」と略させて頂きます。<(_ _)>

 小学生のころ、田宮模型のウォーターラインシリーズという軍艦模型に熱中していた頃がありました。その流れで軍艦や軍用機といったことに興味を持ち、さらには『大東亜戦争(太平洋戦争)』に関するテレビ番組や本を見たり読みあさりました。小学生ですから、大東亜戦争(太平洋戦争)の意義とか言った難しいことは考えず、模型となった軍艦などの実物の映像や写真を見たかったのでしょう。それでも『特別攻撃隊』というのは、どういうものだったのかということは小学生の私でも理解出来ました。『飛行機に爆弾積んで敵艦に突っ込んで行く体当たり攻撃』という記述は、小学生の歴史教科書にも載っていたように思います。

 当時、神戸の某UHF局では夕方に『太平洋戦記』という番組を放送していて、毎週欠かさず見ていました。番組も終わりに近づく(=終戦に近づく)と特攻隊の話が出てきました。そこでアメリカ軍の戦場撮影班が撮影した特攻機の突入シーンを初めて見ました。しかもカラー(総天然色)で。

 半狂乱となって対空砲を撃ちまくるアメリカ兵達の頭上を飛び越えて甲板で爆発する特攻機。対空砲で撃墜され、火だるまになって落ちて行く特攻機。空母に突入するも外れて海上に激突・爆発する特攻機・・・などなど。

 それまで軍艦や軍用機が『かっこいい』と考えていた私にとって、その場面は衝撃的でした。それまでの番組で幾度と無く戦場でのシーンを見てきても、テレビ画像ということで特に何にも感じなかったのに、特攻機の画像を見た途端に『悲惨だ・・・』と初めて感じたのでしょう。それを機会に『戦争は悲惨だ。戦争をしてはいけない』(どこかの宣伝ですな)と思うようになり、軍艦や軍用機への興味は減り次第に『ガンダム』などのアニメへと興味が移っていきました。

 現実から目を背けて空想世界に浸ってしまったのでしょうね。小林よしのり氏風に書けば、『過去の日本を見つめるのを止め、過去との関係を断ち切った』とでもいうのでしょう。

 中学以来つい最近まで、知識として大東亜戦争(太平洋戦争)の歴史を知ってはいても、意義とかいった深いところまではあえて考えないでいました。マスコミ(某新聞)の垂れ流すことを鵜呑みにしていたのかも知れません。(『従軍慰安婦問題』や『教科書問題』などを機に考えるようにはなっていましたけどね・・・)

 2001年(平13年)8月、NHKで『最後の特攻隊』(?)という特番が放送されました。後述する、旧日本海軍航空隊、最後の特別攻撃部隊についての番組でした。この番組を見てある疑問がわきました。

『戦争が終わったのに何故出撃したのか?』

 これを機に、特攻に出撃するのにはもっと奥深い考えがあるのではないかと思うようになり、ただ単に『特攻隊は悲惨だ』と考えるのではなく、『確かに悲惨だが、そうまでしても何故多くの方々が志願して出撃されたのか』を知りたくなりました。

 その後、インターネットや書籍でいろいろと調べ直し、志願した奥深い理由を納得。さらに2002年(平14年)4月に南九州ツーリングを企画し、知覧、万世、鹿屋と南九州にある3つの特攻隊に関する資料館に立ち寄り、そこにあった遺品・遺書・遺影を見て確信しました。

 特攻隊に参加された隊員の方々は、『日本の未来のため、郷里に残してきた両親・妻子のため』に出撃されたのでしょう。

『ここで自分が戦わなければ(=特攻しなければ)、故郷に残してきた親や妻子、故郷も含めて「日本」そのものが無くなってしまう。(日本人の)子孫が残れば「日本」は必ず復興する』と信じておられたのではないでしょうか?

 遺書からは、そういう思いが込められていることをひしひしと感じました。

 もちろん誰1人とも「生きては帰れない作戦」に参加したくはなかったでしょう。普通に考えれば当たり前です。誰だって死にたくありません。実際に『まだ死にたくない』と述べられた方もおられたそうです。

 それでも参加されたというのは、隊員の方々がいた『軍隊』とは『国を護る』組織であって、手段はどうであれそうすることが当然(義務)だと感じておられたからでしょう。もはや通常戦法で米英に攻撃することは不可能であることを悟っていたのかも知れません。初の『神風特別攻撃隊』の隊長であった関行男大尉は『ぼくのような優秀なパイロットを殺すなんて、日本もおしまいだよ』と新聞記者に語っておられたそうです。

 それでも特攻隊の隊長を引き受けて出撃されています。関大尉は、先の言葉の後、新聞記者に対してこう述べられました。『最愛の妻のためにいくんだ。日本が敗けたら、妻がアメ公に何をされるかわからん。ぼくは彼女を守るために死ぬんだ』と。 陸軍・海軍の区別なく、全ての隊員の方々の本心を語ってくれていている言葉だと思います。

 航空機による特別攻撃を考案したのは旧海軍の大西瀧治郎中将。大西中将は特攻作戦そのものが『外道の戦法』であることは十分に承知されていたようです。(注1)しかしながら、 戦地(フィリピン)に赴任して現実を知り、もはや通常戦法では敵に通用しないことを悟り、悩み、そして特攻を決意されたそうです。 (ただし、あくまでもフィリピン攻防戦のみでの限定的な戦法として。)

 中将は第一航空艦隊司令としてフィリピンにいる間、出撃するすべての隊員と会い握手を交わされたそうです。しかしながら日本本土に召還されてからはそうすることも出来なくなりました。中将は 、本土召還後、『特攻隊員は会いたくても会うことが出来なかったのだから』と妻子にも会わずに1人で過ごされたそうです。

 1945年8月15日終戦。翌16日未明、大西中将は『吾死を以て旧部下の英霊とその遺族に謝せんとす』で始まる遺書を残し、亡くなられた特攻隊員の方々を追って自害されました。 

 特攻隊に関しては、「無理矢理参加させられて死んだのだ!」とか「旧日本軍に殺されたのだ!」などという人がいます。確かに中には無理矢理参加させられた方もいたでしょう。やけ酒を飲んで嘆いた方や、三角舎で一晩中泣いた方がおられたという話も聞きました。

 『愛国心』『憂国の志』から特別攻撃隊員に志願されならがらも、時間が経過するにつれて「やはり死にたくない」と思うようになるのは当たり前ですし、『(生還の可能性のある)通常作戦で戦死するならばともかく、(確実に戦死する)特別攻撃作戦に参加して戦死する』ということに疑問を感じ方々もおられたことでしょう。

 特攻隊の御遺族にとっては『旧日本軍に殺された』と感じても当たり前でしょう。しかし『軍隊』にいる以上、『国・日本民族を護って戦う』のは義務であり、それによって『死亡』することもあり得ることを納得していなければなりません。特別攻撃隊に参加され亡くなられた方々は、そういう『軍隊』の特殊な性質を十分に承知されていたはずです。『命がけ』で『国』を守るのが『軍隊』なのです。(注2)そしてまさしく自らの命を犠牲にして『国』を守って下さいました。

 『旧日本軍に・・・』と感じられている御遺族の方は、そういう『軍隊』の性質を理解してはいるが『生きて帰還することのできない体当たり攻撃』を立案・実行した『軍』に対して納得できないのではないでしょうか。単に言葉の表面だけを捉えてあれこれ主張される方々には疑問を感じます。

 ここで書いた『国』というのは『(将来を含めた)日本(=現代日本)』のことであり、『郷里・両親・妻子そして子孫』なのです。そう、今こうして、私のサイトをご覧になっているあなたの為に特攻隊(そして先の戦争で戦死された全ての方々、犠牲となられた全ての民間の方々)は亡くなられたのです。

 『死にたくないのに、特攻隊に無理矢理参加させられたに違いない』という風にひとまとめにしては、特別攻撃で亡くなられた方々に対して失礼です。

 『1945年8月15日以前の日本(日本軍)は悪玉だ!』と教えられてきた戦後教育のおかげで、特攻隊の方々への関心は年々薄らいでいるように思います。出撃され奇跡的に生還され終戦を迎えた特攻隊員の方々、出撃されずに終戦を迎えられ生き残った特攻隊員の方々、特攻隊員の身の回りをされた方々は年々少なくなっています。いずれはおられなくなります。そうなった時、特攻隊員の思いを伝えてくれるのは、知覧・万世・鹿屋といった資料館や各地にある慰霊碑しかありません。

 特攻隊員の方々を忘れずに、そして我々に託された思いを肝に銘じて生きることが、特攻隊員の方々に対する私たちの供養であると思います。

 鹿児島に行かれることがあれば、時間を割いてでも是非訪れて下さい。右翼や左翼、思想にとらわれず、『日本人』として訪れ、そしてご自身の目で特攻隊員の方々の遺書・遺品そして御遺影と向き合って考えて下さい。

(2003.01.25)

(注1)

 大西中将が『特別攻撃隊』を生み出したように言われていますが、それは誤りです。1943年(昭18年)6月末に侍従武官の宮城大佐が、自らが指揮官と

なる航空機による特攻部隊の編成を提案します。しかし、航空本部長であった大西中将は「乗員が100%死亡する攻撃方法は採用すべき時期ではない」と

して退けます。

 1944年(昭19年)3月、軍令部は『特殊奇襲兵器』の試作方針を決定。これに基づいて、『海竜』『震洋』『回天』が制作されました。また同年8月中旬には

特別攻撃兵器である『桜花』が製造開始され、同年10月1日には『桜花』による特別攻撃隊である「神雷部隊」が編成されます。

 1944年(昭19年)10月8日、大西中将は『航空機による体当たり攻撃』を決意し軍令部に上申。同年10月13日に軍令部より『神風攻撃隊』という名称

を使用した特別攻撃隊についての電文が届きます。中将は、同年10月19日にフィリピン・マバラカット基地にて『体当たり攻撃』を提案。同年10月21日、関

行男大尉率いる神風攻撃隊敷島隊が出撃。敵機動部隊を見つけることができずに4回基地に帰投したのち、同年10月25日に体当たり攻撃を敢行・散華

(さんげ)されました。

 さて、日付から分かるように、敷島隊が出撃する前にはすでに特攻兵器である『桜花』による部隊が編成されています。これは大西中将が『航空機による体

当たり攻撃』を決意するかなり以前から、軍令部では『有人による体当たり攻撃』を考えだし、そしてその専用兵器を開発・製造していたことを示します。神風

攻撃隊敷島隊が出撃した後に『桜花』を始めとする特攻兵器が作られたのだと思っていたので、これには正直驚きました。『有人による体当たり攻撃』は戦争

中期頃から軍中枢部で考え出され、密かに準備が進めれれていたことになります。

(注2)

 だから海外では軍隊は尊敬されています。尊敬していない国は日本ぐらいなもんです。こう書くと「軍隊を賛美している!」「日本軍のしでかしたことを忘れ

たか!」とかいう人がいますけど、命をかけて我々を守っている人達を尊敬するのは当たり前だと思いますよ。

 先の戦争に参加されて生還された方でないと、『軍隊』の存在理由についての本質は分からないでしょう。徴兵制のない戦後日本に生まれ育った世代の人

々の大多数には理解できない(したくない)でしょう。戦後世代で理解出来るのは現役の自衛隊員もしくは元自衛隊員の方々ぐらいです。こう書いている私も

自分では理解しているつもりでも、それは表面上のことであって「いざ実戦!」になったらどうなるか分かりません。本質は実戦経験のない自衛隊員でも理解

できないのではないでしょうか?

<<同時多発テロと特別攻撃を一緒にするな!>> 本文の内容から離れるのでこちらに書きます。

 2001年(平13年)9月11日、私が北海道ツーリングに出かけて支笏湖畔の宿にいた時に『ニューヨーク同時多発テロ』が発生しました。歴史の歯車(とい

うかアメリカ)が狂いだした日です。ハイジャックした民間航空機をミサイル代わりにビルに突っ込むという前代未聞の大惨事に、世界の多くの国々が驚愕し

憤慨したのは記憶に新しいところです。一晩中テレビに釘付けになった人は多かったでしょう。

 で、私もその1人。宿のテレビでアメリカCNNのニュースを見ていました。その時、翻訳を通して聞き捨てならない(CNNの)解説者の言葉を聞きました。

『まさしくカミカゼだ』

(カミカゼ=神風。日本の特別攻撃を指すことは明白)

 次の瞬間、

『ちがうやろ〜〜〜!卑劣なテロ行為とカミカゼを一緒にするなぁ〜〜〜〜〜!!』

 と、叫んでしまいました。

 『神風特別攻撃隊』を始めとする日本帝国陸海軍が行った『特別攻撃』は、航空機・潜水艦・水上挺などいろいろありましたが、全て軍用機・軍艦などの

日本帝国軍の兵器であり、操縦していた隊員は全て日本帝国軍人であったのです。そして目標は、あくまでも敵であるアメリカ軍を主体とする連合国軍

軍艦だったのです。

 民間人が零戦に乗って突入したとか、特攻機に民間人が乗っていたとかという話は聞いたことがありません。そして敵国の町に突入したということもありま

せん。あくまでも操縦・操艦していたのは日本帝国軍人であり、突入した目的は連合国軍の軍艦だったのです。

 一方、イスラム過激派の行ったテロでは、民間旅客機を乗っ取り民間人を乗せたまま「世界貿易センタービル」に2機突っ込みました。「ペンタゴン」というア

メリカ軍の中枢にも1機突っ込み、乗っ取られながら途中で墜落した機も1機ありました。その4機共が、乗っ取った民間機であり民間人を乗せたまま突っ

込んでいったのです。

 両者は本質からして全く異なる攻撃方法なのです。それを混同し同一次元で話すとは、特別攻撃に参加されて亡くなられた方に対する侮辱です。

 アメリカ人にしてみれば、「カミカゼも同時多発テロも、共に『体当たり攻撃』だから一緒だろーが」という、まぁ短絡的な発想しか出来ないからああいう言葉が出てきたのでしょう。このニュースキャスターの発言が、多くのアメリカ人がそう考えていることを示しています。きっと彼らの多くは、同時多発テロの原因が

誰(どこ)にあるか分からないでしょう。考える力すらないでしょうね。

 この発言を、何も考えずに鵜呑みして同じことを喋っていた日本のドアホな解説者も見たな・・・あぁ、情けない。こんな考えはしないで下さいね。

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