瀬戸内海を渡ろう!
〜神戸淡路鳴門道編〜
|
|
|
|
明石海峡大橋。淡路島から撮影。 |
鳴門大橋。四国(徳島)側から撮影。 |
3つある本州・四国連絡ルートの中で2番目に開通したのが神戸淡路鳴門ルート。 兵庫県神戸市と徳島県鳴門市を、淡路島を縦断して結ぶのがこのルートです。 大橋は鳴門海峡と明石海峡の2箇所に架けられています。 1985年6月8日に大鳴大橋が開通し、13年後の98年4月5日に明石海峡大橋が開通。 これにより本州と四国が淡路島を経由して陸続きになりました。
|
神戸淡路鳴門道〜神戸淡路鳴門ルート〜 |
神戸淡路鳴門道の明石海峡大橋は世界最長の吊り橋です。 また大鳴門橋には未使用のままだった鉄道橋部分を活用して、 橋の上から鳴門のうず潮を見ることが出来るようになりました。 こんな特徴がある両大橋なのですが、残念なことに自転車と原付では渡ることが出来ません。 『しまなみ海道』のように専用道がないので、両海峡はフェリーで渡るしか手段はありません。 そのフェリーも明石海峡フェリーはどうにか存続しましたが、 鳴門海峡のフェリーは廃航となってしまっているので、自転車と原付では淡路島までしか 渡ることが出来ないのです。 ちと不便ですね。 渡るときは126cc以上のバイクで渡りましょう。 |
(注意) 内容は走った当時のものです。現在では通行料や乗船料などが改定されていたり、 廃航などで渡れない場合もありますので、訪れる場合は予め確認して下さい。 |
☆★☆ ご案内 ☆★☆ |
☆★☆ 神戸淡路鳴門ルートの基礎知識 ☆★☆ |
本州と四国を淡路島経由で結ぼうという発想は1907年(明40年)頃からありました。1914年(大3年)になって鳴門海峡に橋を架けるという建議案が第31回帝国議会に提出されましたが、議会では否決されてしまいました。 その後1940年(昭15年)になって、原口忠次郎氏(元神戸市長:故人)が架橋による本州・四国連絡案を提唱されましたが、軍事戦略上の重要海峡である鳴門海峡に橋を架けることに反対した軍部により立ち消えとなってしまいました。しかし神戸・鳴門ルートによる本四連絡構想は消えることなく、戦後になっても四国側の地元である徳島県を中心にして着工に向けて着々と構想が練られて行きました。 そして本四連絡構想が現実味を帯び始めた1950年代後半から約10年間もの間、現在の3ルートを抱える県を中心にして大誘致合戦が繰り広げられ、1969年(昭44年)5月に現在の3ルート同時着工が閣議決定されました。 しかし第4次中東戦争に端を発したオイルショックにより工事は凍結。いろんな経緯を経て1976年(昭51年)7月にようやく鳴門大橋の工事のみが開始。鳴門大橋は1985年(昭60年)6月8日に開通(供用開始)しました。 明石海峡大橋は、当初の予定では瀬戸大橋と同じく鉄道・道路併用橋として建設され、将来は新幹線を渡らせるつもりでしたが、当時の国鉄の膨大な赤字と新幹線の採算性が不明なことと、当時の橋梁建設技術では難しいこと等から1980年(昭55年)9月に道路単独橋として建設することに決定。その5年後の1985年(昭60年)12月にようやく明石海峡大橋の工事着工が決定され、翌86年(昭61年)4月に明石海峡大橋の工事が開始されました。明石海峡大橋の建設には、当時の最新橋梁建設技術が注ぎ込まれました。その技術力の高さは1995年(平7年)1月17日の阪神淡路大震災において証明されています。 1998年4月5日、明石海峡大橋が開通(供用開始)したことにより、神戸淡路鳴門ルートが全通。明治期の『夢物語』は鉄道ではなく道路いう形で、約90年の時を経て実現したわけです。 |