沖縄散策2003

>>このレポは渡嘉敷島出張の最終日に行った『沖縄散策』のレポです。本島散策ということで独立させています。

 

>>Update:2005.07.28

★首里城へ行こう

 10月24日(金)、この日の昼からOP社で仕事の報告会が行われることになっていました。午前中は何の予定も入っておらず、全くの暇ということになっていました。ダラダラと過ごすのもなんなので、チェックアウトしてから那覇市街をウロウロと散策することにしました。

 さてどこに行こうかと考えた末、 一番近い観光地とうことで10日に訪れた首里城に向かうことにします。タクシーで行くにはお金がかかるし、路線バスではどの系統に乗ればいいか分からない。モノレールの終点・首里駅から歩けば首里城に着くので、モノレールで移動することにしました。

 県庁前駅から乗車。平日ということもあって乗客は少ない。ちらほらと空席があったので座ってみます。座席は少し硬い感じ。昔の大阪市営地下鉄の座席よりは柔らかい座席ですけどね。モノレールは那覇市街を大きく迂回しながら進んで行きます。全区間高架なので市街を一望できます。

 沖縄初のモノレールである『ゆいレール』は2003年(平15年)8月に開業したばかり。那覇空港から那覇市街を経て首里までを結びます。那覇市街の渋滞緩和を目指していますが、車や路線バスの利用に慣れきってしまった人達がモノレールにシフトするのかが注目されます。将来はL

RTなんかも導入されるのでしょうかね? 

 ちなみに戦前には沖縄にも鉄道がありました。しかし1945年(昭20年)4月に始まった沖縄戦で完全に破壊されてしまい、戦後も復活することなく現在に至っています。

★首里城

 現在の終点である首里駅に到着。これで9月23日に乗車した区間も含めて、『ゆいレール』全区間を乗車したことになります。駅から首里城目指して歩きます。修学旅行で訪れた中高校生達で賑やかな観光地となっています。約60年前の初夏、ここで激戦があったことを知っているのはどれくらいいるんでしょうかね?

 丘の上にある城に向かって緩やかな坂道を歩いて行きます。丘の上に城があるということは、ここが要衝であったことの証ということでしょう か。琉球王朝の居城でもあった首里城なので周囲は

強固な城壁で囲まれ、また中心にある首里城正殿まで行き着くまでには守礼門を初め、いくつか

の門を越えなくてはなりません。

 2週間前の10月10日(金)に訪れた時は守礼門側から入ったのですが、この日はモノレールの首里駅方面より歩いて移動してきたので、県立芸大横を通って円鑑池(えんかんち)側から入りました。さて再び正殿まで歩こうかと思ったのですが、あまりにも修学旅行生や観光客が多くて行く気が無くなってしまいました。人が多い所は苦手なのれす。(^^;)

 まぁ、10日に正殿前まで行ったからいいかなと思いそのままスルー。結局、正殿には行かずじまいでした。(;´∀`)

◆首里城の歴史

●首里城の起源

 首里城は標高約120mの石灰岩丘陵に建てられ

た沖縄最大の城です。(ちなみに沖縄では城のこと

は『ぐすく』と読みます。)

 誰によって建てられたのかは不明ですが、14世

紀頃には原型が出来ていたそうです。その首里城

が王城となったかについても不明な点が多く、いろ

いろな文献があり、「察度説」と「尚巴志説」の2説

のどちらかということになっています。

 「察度説」だと1392年に造営されたことになりま

す。一方、「尚巴志説」だと15世紀初頭(1406

年?)に、尚巴志の率いた第一尚氏が統一王朝を

樹立した時に首里城を占拠して王城としたというこ

とになるそうです。

 14〜15世紀の間に王城となったということなのでしょう。

 なお、文献などによると、首里城は沖縄戦までの

間に戦火と失火などにより3回焼失して全焼してい

ます。その都度復旧され、3回目(1709年)の全

焼後に再建された首里城がすべて竣工したのは

1715年のことだったとか。沖縄戦で破壊されてい

なければ、このときの首里城が残っていたことにな

ります。

●17世紀以降の琉球王朝

 17世紀 (1609年)、対中国(当時は明)貿易の

利益を狙った島津藩による琉球侵略により、琉球王

朝は島津藩の支配下に置かれます。 中国に対す

る貿易や外交の関係で琉球王朝は残され、引き続

き首里城は王城として機能します。しかし薩摩藩の

ための南殿や番屋が建設され、島津藩の武士が常

駐するようになりました。

 以来約200年に渡って、琉球王朝は島津藩の支

配下におかれました。この間、琉球王朝の王が交

 

代した時には「謝恩使」、江戸幕府の将軍が交代し

た時には「慶賀使」という使節団を江戸に送らねば

ならりませんでした。

 使節団は1644年〜1850年の間に17回実施さ

れたそうです。これが琉球王朝が「王朝」としての対

面を保ちかつ中国への進貢を続けることが出来る唯

一の策だったそうです。

●明治維新後の首里城

 1868年(明治元年)の明治維新によって、日本

は天皇中心の近代国家として出発します。1872

年(明治4年)、廃藩置県が実施され、琉球王朝は

『琉球藩』となります。藩といっても琉球王朝の体制

はそのままで、管理するのが鹿児島藩(旧薩摩藩)

から中央政府に代わっただけでした。

 しかし1875年(明治8年)に日本政府は琉球藩

に対して、「琉球王朝を廃止して、日本国に属する

沖縄県を設置する」ことを通達。琉球藩は廃止され

『沖縄県』が設置されました。

 1879年(明治12年)3月27日、明治政府より派

遣された役人・官史、兵ならびに警官などが到着。

廃藩置県(琉球藩→沖縄県)を宣言すると、約500

年続いた琉球王朝はあっけなく終焉を迎えました。

 同年3月29日、琉球王朝最後の王である尚泰は

首里城を明け渡します。以後、首里城は日本陸軍

省の所轄となり、帝国陸軍第六師団熊本鎮台沖縄

分遣隊の駐留地となりました。

●明治〜昭和初期の首里城

 陸軍の駐屯は日清戦争が集結する1894年(明

治29年)まで続けられます。この間王城内の建物

は兵舎として使用されます。陸軍撤退後、城の一部

が地元自治体に払い下げられますが、建物は荒廃

が進みかつての栄華は見る影もなくなったとか。

 整備しようにも資金がないことから首里城はその

 

まま放置されます。現在残っている写真の多くはこ

の頃に撮影された写真だそうです。

 昭和に入ってから、正殿を始め27の建造物が国

宝に指定されます。これによりようやく大規模な修

理が行われ、首里城はかつての栄華を取り戻しま

した。

●沖縄戦

 それはつかの間でした。1941年(昭16年)12月

に大東亜戦争(太平洋戦争)が勃発。陸軍は1944

年(昭19年)3月、沖縄を含む南西諸島守備軍であ

る第32軍を創設。日本陸軍は首里城と周辺の地下

に大規模な地下壕を建設し、ここに沖縄を守備する

第32軍軍司令部を設置します。

 強大な要塞と化した首里城一体は、1945年(昭

20年)4月1日より始まった米軍による沖縄本島上

陸以後、一大激戦地となります。強固な日本軍陣

地の前に米軍は一日200mぐらいしか進めなかっ

たとか。しかし圧倒的な物量で迫る米軍に、日本軍

は徐々に劣勢となり、5月下旬には首里一帯から南

部に撤退。首里一帯は陥落します。一ヶ月弱に及

ぶ攻防戦で、首里城の建物は一部の建物を残した

だけでほとんどの建物は砲爆撃により瓦礫と化しま

した。

●戦後の首里城

 戦後、少しづつ再建 が始まります。1958年(昭

33年)に守礼門が最初に復元され、その後円覚寺

総門、弁財天堂、天女橋などの復元・修理が続きま

す。1972年(昭47年)の沖縄県の日本復帰後、

首里城の復興計画は飛躍的に進み、1989年(平

成元年)に首里城正殿が着工。1992年(平4年)

に工事は完了し、首里城は47年ぶりに復活。

 数少ない資料を基に、多くの方々の奮闘によっ

て、首里城は沖縄本島の一大観光地として蘇りま

した。

【写真左】:守礼門。2000円札の絵柄になっています。

【写真中】:首里城正殿前にある奉神門。ここから正殿の御庭に入ります。

【写真右】:正殿前からは那覇市街を一望できます。また遠くに渡嘉敷島を初め慶良間諸島の島影も見ることが出来ます。

★歴史の道

 門前を通り越して石畳に向かいます。ほとんどの観光客は首里城に向かうので、こちらに来る観光客はあまり居ないようです。単に他の観光客が居なかっただけだったかも知れません が。

 さて首里城から南に向かう石畳の道は、琉球王朝時代の 16世紀頃に建設された幹線道路だった道。石畳道は首里城の守礼門付近から始まり、麓の金城川によって出来た谷底に下りて川を渡り、再び急坂を上って行きます。 かつては10kmにも及ぶ石畳道だったのですが、今ではこのうちの守礼門付近から金城川までの間にある約280mの石畳道が残されています。『首里金城町石畳道』と呼ばれています。『日本の道100選』にも選ばれており碑も建っています。

 鬱蒼とした森の中を進む石畳を少し歩くと、すぐに開けてきます。急斜面に出て急坂を下ることになるのですが、すでに両脇には民家が建っています。沖縄っぽい民家で、どことなく石畳に合う造りとなっています。民家を過ぎると、琉球岩で出来た壁が現れていかにも『古道』という感じの場所に出ました。麓に続く急勾配の石畳。向こうには那覇市街を一望でき、辻の角には『石敢當』の碑が。う〜む、まさしく沖縄。しばらく の間、ぼけ〜として休憩します。

 さてさて、この石畳道にある石ですが琉球岩でできているそうです。単に敷き詰めただけのものではなく、ここにはあるすごい秘密があるそうです。以下、途中にあった観光案内板より引用。

『この石をよくご覧下さい。芋を真二つに切り、平らの部分を上に、半丸の方を下にして土床にねかせたように敷かれている。・・・<<中略>>・・・人々の生活に不可欠な水の確保に重大な貢献をなしたことは特筆すべきことである。』

 なんと、石畳は交通路としての役割の他にも水の確保という重大な役割も担っていたのです。さらに引用。

『石畳に落ちた雨水は特別に加工された土床により、吸水、浸透、ろ過される。また瓦れき、砂利等を敷くことにより、スーフカと称する用水溝へ注がれ、任意の村丼(ムラガー:共同井戸)へと誘導される。』

 単に石を敷き詰めただけではなく、瓦れきや砂利も敷くことで雨水を濾過することまで考えていたのですな。今のアスファルト舗装だけの道とは比べ物にならないぐらい素晴らしい道なのです。長い年月をかけて何回もの失敗を繰り返して完成した、自然濾過機能と水の確保機能を持った石畳なのです。またもや引用。

『・・・先人達の高度な土木技法は現代の技術をもっても難しく、復元に苦慮するところである。』

 なんか土足で踏みつけるのが失礼なように思えてくる石畳でした。

急な坂を下って行きます。左側に『道百選』の石

碑があります。

少し下ると琉球らしい道になってきました。この先

にTOP写真を撮影した場所があります。

急斜面で階段がありました。こんな場所ですが、

民家が建っています。上り下りが大変でしょう。

★かなぐしくむらやー

 石畳の坂を下って行くと、典型的な琉球家屋がありました。実はこの家、NHK朝の連ドラ『ちゅらさん』の古波蔵家なのでした。なんでこんな所にあるんだろ?小浜島が舞台じゃなかったっけ? 那覇市観光課の説明板があり、それによるとこの家は、NHK朝の連ドラ『ちゅらさん』で古波蔵家の家として外観だけ使用されたそうです。当然私有地の中にあり、現在も生活されている

方がおられるとかで、敷地内には立ち入らないようにという注意書きまでありました。これは常識なんですけど、そんなことも知らずに立ち入る輩がいるんでしょうな。┐(´ー`)┌

 麓まで来ると『金城村屋(かなぐしくむらやー)』という平屋建ての琉球家屋がありました。集会所のようで、内部は10畳ぐらいの広い部屋がありました。祭りで使用されるのか、大きな太鼓(?)が置かれています。全面開放されており特に注意書きもなかったのでお邪魔して寝転びます。心地よい風に吹かれて沖縄の空を眺めます。なんと贅沢な瞬間。危うく眠りそうになってしまいました。

★瑞盛館

 石畳坂が終わる付近は金城川によって出来た谷底付近となります。今ではすっかり開発されて町となっています。すぐ近くに

『石畳 瑞盛館』という施設があったので立ち寄ります。昔は泡盛工場だった所だそうです。ここには『泡盛記念館』と『民俗資料館』が併設されており、食堂もあって食事することもできます。門を入ると「ヒンプン」があります。門前から家の中を見られないようにするための壁のような物だそうです。いきなり琉球ですな。  

 『泡盛資料館』に入ると館内は泡盛の臭いが漂います。ここには沖縄で作られている泡盛が、すべて未開封(でしょう)で展示ケース内にズラリと展示されています。入りきらないのか後から追加したのか、ケースの天井にも泡盛が置かれています。(゚Д゚;)スゴ

 泡盛好きの方にはたまらない場所でしょう。”幻の泡盛”と呼ばれる波照間島の『泡波』もありました。ここでは地下で泡盛の試飲も出来ますが、酒に弱い私は臭いだけで酔いそうだったので、階段入口まで行って下りるのをやめました。

 続いて2階にある『民俗資料館』に上がります。ここには農機具やランプ、壺や日常品などいろ

んな琉球古民具などが展示されていま す。昔の首里城周辺の地図もありました。さらに外には井戸(クルマガー)、豚舎も兼ねた厠である「ウヮーフール」も展示されています。 琉球文化に触れる事の出来る博物館です。石畳散策とセットでどうぞ。(=゚ω゚)ノ

★あめふらし、迷う(^^;)

 『瑞盛館』を出る。さてこのまま石畳坂を上って戻るのもなんなので、そのまま街道を進むことにします。ここからの道は石畳ではなくコンクリートもしくはアスファルト舗装された町中の道となります。道はいきなり急勾配の狭路坂道。10月下旬とはいえまだ日差しはきつく、汗をかきながら急坂を上り続けます。坂を上りきると首里城のある丘が正面に見え、さらに周りに広がる市街を一望することが出来ます。

 ここから平坦な道になり住宅街に入ります。かつては松林だったそうですが、今はすっかり住宅街になってしまっています。何の変哲もないアスファルト舗装の道を淡々と歩きます。沖縄を感じさ

せるのは周囲の住宅が、沖縄っぽい造りをしているぐらいです。そんな町中ですが、ちゃんと村丼(ムラガー:共同井戸・泉)が残っており、綺麗な水が湧き出ていました。

 やがて2車線道に出ます。そろそろ戻らないといけないので、そのまま2車線道に入り歩道を歩いて西に向かいます。そのうちモノレールにぶち当たるだろうと思い、バスにも乗らず歩き続けます。しかしいくら歩いてもモノレールは見えてきません。現在位置も全くわかない状態に・・・。少し焦りだします。 (;゚Д゚)

 頼みにしていた2車線道は、別の2車線道と合流してなくなります。とりあえず西に進めばどうにかなるかと思い、そのまま裏路地に入り込み延々と歩き続けます。もはや”散策”ではなくなっていました。観光ではまず訪れることのない那覇の下町内を歩きます。沖縄の下町も大阪とかとあまり変わりません。

 ・・・などとのんびり構えていられません。時間が迫ってきました。やばい。これはやばい。全く現在位置が分からない。(((( ;゚Д゚))) 再び2車線道に出ると、遠くにローソンの看板を発見。暑い中ローソンまで歩き、ここで市販の地図を見ます。ところが現在位置が漠然としすぎていて分かりま

せん。たまたま店内にあった手製の地図を見て、近くの角を曲がって少し進むとR330が通っていることが分かりました。

  ローソンから2分ほど歩くとR330に出 ることができ、これで現在位置が分かりました。北東方向を見るとモノレールの高架が見えます。あとは道沿いに歩いてモノレールの安里駅に到着。駅の地図を見ると、あと少しで国際通りに出る所で す。ならば歩こうかとも思いましたが、すでに疲れ切っていたのでそのままモノレールに乗り込み県庁前駅に移動。

 昼からのOP社での報告会には、何事もなかったように参加。その後、夕方の便で帰阪となりました。>>詳しくはこちら

【写真上】:繁多川公園近くの丘付近から見た風景。

【写真下】:繁多川町の住宅街の中にあった共同井戸。ちゃんと残っていました。

【沖縄散策2003 終わり】

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