東北&北海道ツーリング2001

 

2001年(平13年)9月6日(木)〜9月18日(火)

美瑛の某所にある1本の木

昨年(2000年)の東北&北海道ツーリングは、往路の太平洋フェリーの船内で、よりにもよって腎結石が爆発。

そんなことがあってか、昨年のツーリングは不完全燃焼のまま終わってしまった。

しかしこのまま終わらす”作り人@あめふらし”ではない。

『何があっても絶対に東北ツーリングに行くぞ!』と、9月を迎えた。

ここ数年のパターン同様、今年も東北と北海道を回ることにしてルートを考える。

今回の主な目的は『道』と『温泉』。

少しでも多くの道(国道)を走り、一つでも多くの温泉に浸かることにしていた。

 

毎年何かが起こる9月の長距離ツーリング。(^^;)

果たして今年はどんなことが起こるのだろうか?

東北&北海道ツーリング2001 その2

2001年9月11日(火):苫小牧FT→支笏湖【29km】

雨の北海道初日

 眠ったかどうか分からないまま時間は過ぎて行く。午前5時半頃に起きる。窓から外を見るとどんよりと曇っている。雨のようだ。午前6時半、フェリーは苫小牧FTに到着。車両甲板に下り、車が出ていくまでの間に雨具を着込み、くくりつけているバック、一眼レフカメラやデジカメの入ったバックも厳重にビニール袋で2重に包んでおく。

 午前6時40分頃に下船。北海道の大地に下りるが大雨。強風も吹いている。北海道初日は大雨であった。予定ではR274に入り帯広へ抜け道東へ向かう予定だったが、こんな天気で走る気は起こらなかった。かといってFTで泊まるわけにはいかない。とりあえずターミナルに入って道路情報と気象情報を得ることにした。同じ便で渡道して来たライダーの多くは出発して行った。

 本州の太平洋岸に接近して来た台風15号の影響で、停滞している秋雨前線の活動は活発化しており、すでに昨夜から大雨が降っているそうだ。天気予報では、今日の北海道は全道において大雨だという。道央と道東を結ぶ国道の峠では軒並み通行止め規制が行われており、R237日高峠、R274日勝峠、R39石北峠は全面通行止め。R235は鵡川町内で道路冠水により通行止めとなっていた。苫小牧から道東への移動は困難な状況になっている。唯一通ることの出来るR38狩勝峠も通行止めとなるのは時間の問題だろう。岩見沢・滝川経由で迂回している間に通行止めになるのがオチだ。

道道も至る所で通行止めになっており、道央と道東の交通はほぼ遮断されたことになる。

 海も大荒れ。青森〜函館館の青函連絡フェリーは全便欠航。苫小牧発のフェリーは、乗ってきたフェリーによる折り返し便以降の便は全面欠航が決まった。北海道と本州結ぶ太平洋航路のフェリーはすでに全便欠航が決まっている。大変やばい状況になりつつあった。

 時間が経つにつれて雨はますます強くなって行く。普通の雨で有れば移動するのだが、こんな大雨の中をバイクで移動するのは危険だ。予定を全て白紙に戻し、今日は苫小牧の北側にある支笏湖畔にある『ラップランド』という宿に朝から転がり込むことに決める。

 宿が一段落する8時頃まで待って電話する。宿泊OK。9時過ぎに到着しても構わないとの了承を得る。雨はいよいよ強く降り始め、土砂降りになってきた。そんな天気の下、8時半過ぎに苫小牧FTを出発した。苫小牧市街へ向かう片側4車線もある広い道道は、大型車の通行のために出来た轍に水が溜まり池になっていた。大型車が通るたびに大きな水

飛沫が立つ。真横を走られると全身ずぶ濡れになる。出来る限り水溜まりのない所を進んで行く。

 苫小牧市街から支笏湖へ向かうにはR276を北上すればすぐである。苫小牧市街でR276に入る。交差点角のGSで給油。道は通行止めにはなっていないことを確認する。市街地内の路面にはあちこちに池が出来ていた。排水が追いついつかず、片側2車線の道路の半分が冠水している所もあった。

 市街地を抜けると周囲は原生林となる。建物はなくひたすら原生林の中を突き進む2車線道となる。道路が冠水している箇所があったが、対向車線に飛び出して迂回することが出来ないので、低速で池の中に突っ込んだ。エンストするかとヒヤヒヤものだったが、どうにかクリア。すると対向車線を走る大型トラックが立てた水飛沫をもろにかぶり、ヘルメットからブーツまで全身ずぶ濡れになってしまった。ブーツカバーは役に立たなくなっており、ブーツ内には水がしみこみ始めていた。

 「転けてはいけない」とそれだけを考えてバイクを走らせる。カーブではスリップ転倒しないように慎重に速度を落として進む。後続車がいないことが幸いだった。大雨の中、林の中を進む18kmの道程はかなり長く感じた。ゲートを抜けるとR453との交差点に到着。昔、この付近には集落があったそうなのだが、今は跡形もなくなり鬱蒼とした林になっていた。

 ここから支笏湖畔まではすぐの距離。気を引き締めて雨の中を走り、ずぶ濡れ状態で支笏湖畔のとほ宿『ラップランド』に到着したのは午前9時10分頃。朝の9時過ぎにチェックインとなった。こんな朝早くから宿にはいるのは、今までの長距離ツーリングではなかったことだ。我がツーリングで初めてのことであった。

 北海道初日のツーリングは、走行距離29km、走行時間約40分で終わったが、『命がけ』のツーリングであった。

とほ宿『ラップランド』

 とほ宿『ラップランド』は、ライダーハウス『樽前荘』の隣にある。『樽前荘』には1997年9月の北海道ツーリングの時に泊まっているが、全面的に立て替えられており4年前の面影はなかった。『樽前荘』には大雨から避難するライダーのバイクであふれかえっていた。

 出発組と入れ替わりで宿に入る。濡れたモノを干した後、車で移動する人を見送る。一段落してから疲れが出てきたので寝ることにする。昼過ぎに起きるが、外は相変わらず大雨が降っていた。

 道路事情は悪化していた。大雨の中走った苫小牧市街と支笏湖を結ぶR276は午前10時より通行止めになった。R276美笛峠、R230中山峠も通行止め。支笏湖と札幌を結ぶR453も支笏湖北側の峠で通行止めになったので、支笏湖と千歳市街を結ぶr16(道道支笏湖公園線)以外の道は通行止めになってしまった。支笏湖周辺は陸の孤島となりつつあった。

 R38樹海峠・狩勝峠、さらにはR333北見峠も通行止めとなり、道央から道東へ抜ける主要国道は全て通行止めになってしまった。道央から道東へは、遠く道北を経由しないと移動出来ない状況になってしまった。早くに決断して移動してきたのは正解だった。

 千歳空港からバスでやって来るという常連客を迎えがてら温泉に行くというので、15時過ぎに宿の車で移動する。バスターミナルで常連客を乗せ、休暇村支笏湖にあるホテルに向かう。ここの温泉が支笏湖温泉。ホテルの温泉だけあって設備の整った温泉であった。北海道1湯目の温泉である。

 さて、大雨の原因となった台風15号は、11日午前9時頃に神奈川県に上陸。関東を縦断して海に出た後、15時過ぎに水戸市付近に再上陸したという。この後、再び海に出た後北東に向かい、明日12日に道東へ上陸するという。今年も雨(台風)を連れてきてしまった。『あめふらし行くところ嵐あり』である。(T T)

 夕食は鍋。具たっぷりの鍋をオーナー夫妻と宿泊客2人の4人だけで食べる。実にアットホームな雰囲気での食事となった。「とほ宿」にはこういう事があるから良いのだ。夕食後、21時頃からは語らいの時間。「とほ宿」の話か出たころから、「とほ宿の歴史」の話題で盛り上がる。どこの宿のオーナーはどこそこYHのヘルパー出身だったとか、あそこの宿のオーナーは2代目だとか、知らなかった事実が明らかになっていった。

 奥さんが、ガリ版刷りの初代『とほ』を初めとする、12年分くらいの『とほ』を出して来てくれた。それを見ながら、今でもある宿、なくなった宿、場所は変わらないがオーナーや宿名が変わった宿など、10年ほどの歳月の『とほ宿』の歴史を知ることが出来た。

アメリカで・・・

 語らいの時間の間は、BGM代わりということで小さなボリュームでFM放送を流していた。22時半過ぎのことである。盛り上がって話していると、『ニューヨークで小型機が・・・・・・ビルに突っ込み・・・』というニュース速報を話すアナウンサーの声が聞こえてきた。「誰かが操縦を誤ってビルに突っ込んだのだろう」ということで終わり、すぐに元の話題に戻った。

 しかし、しばらくして『ジャンボジェット機が・・・・・・・ビルに突っ込みました』と聞こえた。確かに『ジャンボ旅客機』と聞こえたのだ。さすがに尋常な事態ではないと、話を中断してラジオをボリュームを上げて詳しく聞いてみる。

 『B767型旅客機がニューヨークのワールドトレードセンタービル(以下WTC)に突っ込み、爆発・炎上している模様です・・・』

 『え〜〜〜〜!?』と一同が驚き、宿の主人は数年ぶりにテレビを点けた。電波状態が悪いのでテレビを点けていなかったそうだ。テレビの画面には、WTCに突っ込んで行くB767型機の映像が映し出されていた。見たのは2機目の旅客機。まるで映画のワンシーンのようにWTCに突っ込み爆発する。パニックとなり逃げまどう人達。映画を見ている錯覚になるが、これは紛れもない事実。現実なのだ。繰り返し流される映像を、皆信じられない表情で見る。我々だけではない。一部の地域を除いた全世界の人々が同じ事を感じたに違いない。

 驚くことにすでに1機がWTCに突っ込んでおり、さらに1機がアメリカ軍の中枢であるペンタゴンに突っ込んでいたという。さらに1機がホワイトハウスかキャンプデービットに向かっているというではないか!全米では10機近くの旅客機が行方不明となっており、アメリカ空軍は飛んでいる怪しい機は撃墜する構えだ。前代未聞の出来事だ。

 どうみても事故ではない。人為的に操縦してWTCやペンタゴンに突っ込んで行ったのだ。これは明らかにテロだ。後日分かったことだが、イスラム原理主義過激派が実行犯であった。飛んでいる旅客機をミサイル代わりにして、乗客もろとも目標に突っ込む・・・誰もか考えなかった手法で、アメリカ経済の中枢であるニューヨークでテロを実行したのだ。間違いなく後世の歴史に刻まれる『ニューヨーク同時多発テロ』の発生であった。

 とやかくしている間に、不明機の1機が墜落した。WTCに突っ込んだ1機目の映像も流される。黒煙を噴き出して炎上し続けるWTCの生中継が写し出される。最上階付近の窓から身を乗り出して助けを求める人達。室内はかなり熱いのだろう。ビルから何かが落ちて行く。破片が落ちて行くのかと思ったら、熱さに耐えかねて飛び降りた人だった・・・ 信じられない光景を目の当たりにする。

 そして・・・

2棟あるWTCが一気に崩れ落ちた。

 

 アメリカ経済の象徴とも言うべきWTCが、1分も経たない間に崩れ落ちてしまったのだ。遙か彼方のニューヨークで起きた大事件を、テレビでリアルタイムで見ることが出来るとは、世界も狭くなったものだ。一瞬で3000〜4000人の人命が失われた。

 ツーリング先で衝撃的な事件を目の当たりにしてしまった。9月の長距離ツーリングでは、毎年「何か」が起きていたが、今年はとんでもないことが起きてしまったのだ。一生忘れることのない出来事だ。

 翌日以降に判明したことだが、イスラム過激派は計4機の旅客機をハイジャックし、ミサイル代わりにして乗客ごとそれぞれの目標に突っ込んで行った。うち1機は目標に辿り着く前に墜落したので、目標に突っ込んだのは3機であった。それでも4機に乗っていた乗客と乗員は全員死亡している。

 このテロには原因があるわけで、その原因を解決しないことにはテロはなくならない。当事者双方に原因がある。しかし熱くなっているアメリカには、「犯人特定→報復攻撃」という考えしかない。これからどうなることやら・・・ 21世紀前半は厄介な時代になってしまうようだ。

 

 亡くなられた方々の冥福を祈ります。 

2001年9月12日(水):バイクで移動せず。【0km】

『ラップランド』連泊

 昨夜は夜中の2時頃までテレビにかじりついていた。翌朝8時頃に目が覚める。1階に下りるが、宿主夫妻が起きている気配はない。のんびりした宿だ。

 雨は強さを緩めることなく延々と降り続いている。台風15号は北東方向に北海道に向かって進んでおり、秋雨前線(蝦夷梅雨)の活動はほとんど衰えていない。フェリーはすべて欠航。道内の道路は至る所で寸断されており、交通はマヒ状態となっている。どこにも移動出来ないので、『ラップランド』で連泊することを決定する。 

 昼までだらだらとTVを見て過ごす。カレーライスの昼飯を食べる。昼過ぎには雨は小降りになったので、隣の『樽前荘』からは次々と移動組が出発して行く。支笏湖周辺の通行止めは解除されたそうだ。

 15時過ぎ、宿主の車に乗って支笏湖の対岸にある温泉旅館『丸駒』(丸駒温泉)に向かう。かつては支笏湖を横切る連絡船に乗船しないと訪れることが出来なかった丸駒温泉だったが、今では道路が完成して車で訪れることが出来る。支笏湖畔を進むR453から狭い2車線の道に入る。鬱蒼とした森の中を抜けると旅館に到着する。

 外来入浴受付終了直前に到着。ギリギリセーフだった。豪華な館内を歩いて浴室へ向かう。浴室は広い内湯と支笏湖畔にある岩風呂の露天風呂がある。屋根付きの板の廊下を歩いた先にある大露天風呂からは支笏湖を一望することが出来る。なんとも北海道らしい豪快な温泉だ。残念ながら空は曇っていたが、晴れていたら大変素晴らしい光景を見ることが出来ただろう。冬期は雪が降り積もる中、露天風呂に入浴することも出来る。なんとも贅沢な温泉だ。旅館の温泉ということで、入浴料が1000円と高かったが、十分に楽しみ、元を取った気分で温泉を後にした。

 R453を戻り宿に帰る頃には雨は上がっていた。まだ雨雲があったが、切れ間からは久々の太陽が見えている。半円形の虹が出ていた。明日は晴れるのだろうか?

 この日は、大雨の中を走って釧路から1人のライダーが来るとのことだった。日勝峠の通行止め規制は解除されたようで、このライダーは帯広からR274経由で千歳方面に抜けたようだ。ところが日高で道を間違えてR237を南下して富川に出てしまったという。R235は道路の冠水で今だ通行止めで、苫小牧に抜けられないので宿泊をキャンセルするという電話が入った。そんなわけで今晩も昨晩同様2人だけの宿泊となった。

 夕食は、樺太鱒のちゃんちゃん焼き。昨夜と同じく宿主夫婦と宿泊客の4人だけでのアットホームな夕食となった。この晩もあれこれと話しながら時間が過ぎていった。

2001年9月13日(木):支笏湖→弟子屈【391km】

道東へ

 台風15号は北海道から離れたが影響は残っていた。天気は朝から曇り。通行止めになっていた道は、昨日から順次規制解除となったが、国道や道道の一部はまだ通行止めとなっていた。道東に抜ける主要道路はほとんどが通行止め

規制が解除されていたので、道東に移動することにした。

 朝食後、出発準備を始める。昨日までバイクの見本市状態だった『樽前荘』のバイク置き場からは、ほとんどのバイクが消えていた。皆、出発していったのだろう。宿主夫婦ともう1人の宿泊客の人達と一緒に記念撮影をする。その最中に雨が降り出した。残念ながら雨の中の出発となってしまった。見送りを受けて、忘れられない思い出と共に9時半前に出発した。

 支笏湖からr16に入る。雨の中、深い森の中を進む2車線道を千歳市街へ抜ける。R3

37に入りJR千歳駅前を通り過ぎ、久々の市街地を通り抜ける。市街地から3kmほど走ると周囲は田畑が広がり北海道らしい風景が広がる。道東自動車道千歳東IC手前で市道(?)に入りr226(道道舞鶴追分線)で追分に出、追分からr462に入りR274まで一気にショートカットする。このルートは、1995年(平7年)9月の初めての北海道ツーリングで走ったルート。当時、道東自動車はまだ建設中だった。

 R274に入ると雨はやんだが、空はどんよりと曇っている。いつ雨が降り出しても良い状態だ。R274は深い山中を橋脚と長いTNでぶち抜いて造った国道。夕張を抜けると何もない深い山中を進んで行く。山を越えると日高町へ入る。道の駅『樹海ロード日高』で休憩。日勝峠の通行止めは解除されていることを確認する。道の駅では何人かのツーリングライダーと出会う。帯広方面から来たライダーは、皆雨具を着ていたので雨具を着たまま出発する。

 日高町の街中を抜けると深い山中を進む。R274は札幌と道東を結ぶ幹線国道なので大型車の通行が多いが、この日は大型車の通行量は少なく快適に走ることが出来た。日勝峠手前からは小雨が降り始め、標高1000mを越えると雲中に入ったようで周囲は濃い霧に包まれ見通しが悪くなる。日勝TNを越えると、霧はさらに濃くなって視界は前方10mぐらいになる。おまけにシールドに細かな水滴も付くので見通しはさらに悪くなる。途中にあるコンビニを過ぎると霧は晴れて雨も上がる。麓まで下ってくると曇っているだけで雨は降っていない。峠を見ると分厚い雨雲がかかっていた。あの雨雲の中を突っ切って来たのだ。北海道の峠では、時々雲の中を突っ切る事がある。自然の凄さを体感できるのだ。

R241走行

 十勝清水からR38で帯広市街へ向かう。途中で一時的な雨に遭うが、帯広市街では雨は降っていなかった。ややこしい天気だ。帯広市街のR38は片側2車線の4車線道路。市街地内をほとんど直線的に進む道があるのも北海道らしい光景である。

 帯広市街からはR241で弟子屈に向かうことにする。R241は北海道弟子屈町と帯広市を結ぶ国道。今ツーリングでは1本目の北海道国道走行となる。市街を抜けて十勝川を越えると、2車線道となり十勝平野を進んで行く。道の駅『おとふけ』で休憩。踏切の警報機がモニュメントとして設置されている。 

 曇り空の下を淡々と進み上士幌町越えて足寄町に入る。足寄町からは本格的な北海道国道となる。螺湾(らわん)・上足寄という山間の町を繋ぎながら進む2車線道。交通量はほとんどなく、快適に走ることが出来る。茂足寄パーキングを越えると深い山中に入る。16時頃に足寄峠を越える。雨雲は少なくなり、雲の切れ間からは薄日が差している。明日は晴れそうだ。

 R240に入ると交通量が多くなる。阿寒湖温泉に入ろうかと思ったが、時間が遅いのでパス。95年9月に泊まった阿寒湖YHは潰れて観光バス駐車場(乗務員宿舎?)となって

いた。再びR241に入り弟子屈へ向かう。雄阿寒岳の麓を進む阿寒町と弟子屈町の間のR241は、深い山中を進む急カーブが連続する2車線ワインディング。ウネウネと小刻みなカーブが連続する。観光バスが走っていたが見通しの良い区間で抜くと、ほとんど車は走っていなかった。95年9月のツーリングの時も、R241を弟子屈から阿寒湖に向けて走ったが、この時は大雨の中を走っていた。しかも前を観光バスが走っていたので、抜くに抜けずイライラしながら走ったのを覚えている。

 山岳ワインディングを抜けると平坦な道となる。深い森中を抜けると、広野の中を突き進む。弟子屈飛行場脇を通り抜けるとR241BPに入り、JR釧網線を越えるとR243と合流。R241を全区間走り切った。 

とほ宿『ましゅまろ』

 弟子屈市街に到着したのは17時頃で、もう夕暮れだった。市街から15分ほど北に向かうと、弟子屈町美留和に到着。本日の宿であるとほ宿『ましゅまろ』に到着した。

 『ましゅまろ』には1998年9月以来、4年連続4回目の宿泊である。私の道東での定宿となっているのだ。バイクを停めて「ただいま」と言って玄関から入ると、宿主の奥さんが出迎えてくれた。娘のMちゃんは今年からなんと小学生になったという。初めて来た時はやっと話し始めた頃だったのに・・・ 4年も経てばそうなるか。(^^;)

 2階にある客室に上がと、隣部屋の人とばったり会った。なんと3年前のツーリングで出会ったAさんではないか! 98年9月以来会ったことは一度もなく、もちろん「北海道で再会しましょう」と約束したわけでもない。本当の偶然で再会したのだ。思わぬ再会に驚く二人。このような出会いがあるから『旅』は面白いし、辞められないのだ。

 Aさんとは98年9月のツーリングの時に美瑛の宿『星の庵』で出会った。翌日は、大雨だったので宿泊客で美瑛ツアーを企画。Aさんにはレンタカーを運転してもらったのだ。Aさんは3年ぶりの北海道ツーリングだそうだ。昨日は『星の庵』に宿泊し、今日ここまで移動して来たという。3年前も台風の影響で大雨。「今年も台風を呼んでしまった」とAさんは笑っていたが、果たしてどちらが『雨男』なのだろうか?

 この日の宿泊客は、兵庫県加西市から来たという濃い関西人のおっちゃん。関東から来たという男性と兵庫県芦屋市から来た女性、そしてAさんと私の計5人。昨夜までは大雨の影響で20人近くの人が連泊していたという。今夜は久々に落ち着いたそうだ。

 夕食を宿主一家と一緒に頂く。昨年までは夕食後、しばらくの間は談話室でMちゃんと遊んでいたが、Mちゃんが大きくなったということで近くに家を購入されたとかで、夕食後しばらくしてからは奥さんと一緒に帰ってしまった。夕食後、自家製果実酒を飲みながらの宴会となる。私を含めた関西人3人が集まったので、関東から来られた方は少し引いていたかも・・・(^^;)

 楽しい晩の宴であった。

2001年9月14日(金):弟子屈→美瑛【286km】

今年も1泊だけ(T T)

 最初の予定では『ましゅまろ』に連泊するつもりでいたが、大雨によって大幅に予定が狂ってしまった。今日中に美瑛に移動しなくてはならないので1泊で終わってしまった。今年も1泊しか出来なかったのが大変残念だ。

 朝7時半頃に目が覚める。曇っているが雨は降っていない。朝食の後、芦屋から来た女性が列車に乗るために宿を出る。この後、5連泊することになる加西市のおっちゃんは林道巡りへ出発。Aさんも温泉巡りのために9時過ぎに出発して

行く。なぜか1泊だけで出発する私が連泊組で見送ることになってしまった。

 『ましゅまろ』には女性のヘルパーさんがおられたが、今日で終わり出発するという。オーナー夫妻とヘルパーさんと記念撮影。出発するヘルパーさんも見送った後、パッキングを始める。そして10時過ぎに、宿主さんらに見送られながら『ましゅまろ』を出発した。今年こそは連泊したかったのだが・・・なんとも名残惜しい出発となってしまった。

 そうそう、今年開催された『人間ばんば』ですが、出場者不足のために宿からチームが組めず今年は不参加だったそうです。

和琴温泉

 『ましゅまろ』を出発。R391からR243に入ると空は晴れてきた。3日ぶりの晴れである。美幌峠に向かう前に和琴温泉に寄る。今回ツーリング9湯目の温泉だ。和琴温泉は屈斜路湖に突き出た和琴半島の付け根付近にある無料の混浴露天風呂。一見すると池のように見えるのが温泉。周囲には柵はなく丸見えとなっている。入るのには勇気が要る。

 観光客がいるがお構いなしに裸になり、私よりも少し先に到着していた東京から来たというライダーさんと一緒に2人で温泉に入る。快晴の青空の下で入る露天風呂は実に気持ちが良い。三重県から来たという観光客の夫婦が目を丸くして見ていたが、『一緒に入ります?』と話すと笑って去っていった。(^^;) 

 やがて地元のおっちゃんがやって来た。最初は座って私らと話していたが、私らの様子を見ていたら入りたくなったのだろうか、『わしも入ろう』と言って服を脱いで入って来られた。3人で広い露天風呂を独占である。

 和琴温泉は、この露天風呂から少し離れた所に内湯がある。森の中の小さな小屋が内湯。ただこちらは湯が熱すぎて入ることが出来ないことがあるという。おっちゃんの話では、その小さな小屋の内湯は、昔あった露天風呂の源泉が枯れてしまったために、1938年(昭13年)頃に地元の人達が協力して源泉を掘り当てて造った温泉だとか。現在の露天風呂は、1968年(昭43年)の十勝地震の後に再び温泉が湧き出たために入ることが出来るようになったそうだ。

 地元の方と温泉に入ると、こんな話を聞くことが出来る。しかし、湯が少し熱めだったので

2人して初めて知る話に耳を傾けて聞いていたら逆上せてしまった。もう少し聞いてみたかったのだが、逆上せてしまってはどうしようもない。話が途切れたあたりを見計らって、おっちゃんに礼を言って温泉から上がる。服を着て屈斜路湖を眺めてしばらく風に当たって体を冷ます。この日は風が強くて屈斜路湖の湖面は波が立っており、まるで海岸にいるような気分になった。

 私らの後に温泉から出たおっちゃんは、服を着て車で帰って行った。しばらくしてから東京のライダーさんが出発。それに続いて私も和琴温泉を後にしてR243へ向かった。

外輪山峠道

 R243に入り美幌峠に向かう。2車線の豪快なワインディング道路。R243美幌峠の弟子屈側は急な勾配の坂道と急カーブが連続する区間。道は整備されているので、バイクだと走りごたえがある。わずかな距離で一気に標高を上げ、あっという間に屈斜路湖を見下ろすことができるようになった。幸い、先を走る車や大型車はおらず快適に走ることが出来た。

 最後の右カーブを曲がると美幌峠に到着。峠にあるパーキングにバイクを停め、少しだけ標高の高いところにある展望台まで登ってみる。美幌峠は晴れていたのだが、屈斜路湖の向こう北東方向は雲がかかっていたので眺めは今ひとつ。

しかし峠から北西方向の美幌市街方向は快晴で、素晴らしい風景が広がっていた。北海道に渡ってようやく見ることが出来た『北海道らしい風景』であった。

 R243美幌峠の美幌側の区間も急勾配の2車線道が続く。弟子屈側の様な急カーブはなく、長い急勾配の坂道が続いている。峠を境に道の状態は全く異なる。これは美幌峠が外輪山の頂上によるためだ。屈斜路湖はカルデラ湖で、元々は火山の噴火口だった。その噴火口周辺の山を外輪山というが、ご存じの通り火山の噴火口は突然陥没しているので、噴火口側は凄く急な斜面になっている。美幌峠を境に弟子屈側(元噴火口側)が急峻な外輪山の内斜面となるのに対し、美幌側(元噴火口の外側)がなだらかな外輪山の外斜面となるのだ。

 外輪山の内側に道を建設しようとすると、急斜面のためにどうしても急カーブ・急勾配が連続する『葛折り(つづらおり)』の道となってしまう。反対に外側はそうきつい斜面でないので、内斜面ほどは急カーブを造る必要はなくなり、場合によっては急勾配の長い坂道が続くだけの場合もある。このような外輪山を越える道のことを、私は勝手に『外輪山峠道』と呼んでいる。同じ屈斜路湖の外輪山の峠である野上峠を越えるR391や津別峠を越えるr588(道道屈斜路津別線)も同じような道となっている。他にも東北の十和田湖周辺(今回走ったR103発荷峠やR454滝ノ沢峠など)や、九州阿蘇山周辺にも見られる。

 日本の中でも九州・熊本県にある高森峠を越えるR265旧道ほど典型的な『外輪山峠道』はないだろうと思っている。別名『九十九曲』と言われる通り、内斜面側は急なカーブが連続する急勾配の坂道だった。こんなところからでも日本が『火山国』であることを感じることができる。

R333走行

 美幌市街でR39に入り旭川方面へ向かう。北海道端野町に入ると道は片側2車線の4車線道路となる。ここからR39はかなりの距離に渡って4車線道となる。さすが北海道の大幹線道路だ。土地も広大なので拡幅もたやすく出来るようだ。

 ところで地図を見ると、R39とR333は北海道端野町と上川町を端点として『◇』の対辺する2辺を形成している。実際にはR333がR39の北側を進むのだが、距離にするとR333の方が8kmほど短い。昨年、R39を走り大型車の通行量にうんざりしたので、大型車の通行が少なそうなR333を走ってみることにする。

 R39から2kmほど走ると急勾配の坂道となる。その途中にパーキングがあるのだが、ここから端野市街を一望することが出来た。端野峠をTNで越え北西へと進んで行く。道は整備された2車線道。サロマTNを抜けてルクシ峠を越えて佐呂間町へ入る。

 佐呂間町の酪農地帯を抜けると山中へ入り、旭隧道という北海道では珍しい、本州のTNの様な1.5車線幅のTNを抜けると遠軽市に入る。市と言っても、周囲には何もない広野が広がる。いったんR242と合流したあとすぐに別れる。その後は湧別川に沿って淡々と進んで行く。

 丸瀬布町にある道の駅『まるせっぷ』に14時半頃に到着する。ここで一度休憩する。近くに丸瀬布温泉という温泉があるらしいのだが、国道から往復14kmほどの距離を走らねばならないとか。時間の都合でパスすることとし、先を急ぐ。白滝村に入り、谷間の地をJR石北本線に併走して進んで行く。交通量は少なく、大型車の姿はほとんど見かけなかった。自分のペースで快適に走ることが出来る。

 白滝村奥白滝地区を過ぎると、道は2車線道のまま急勾配の坂道となり、急カーブが連続するワインディング区間に入る。かなり急なヘアピンカーブと急勾配の坂道を登ると、足下に広大な森が広がっている。白樺林の中を通り抜けると、北見峠を越えて上川地方へ入る。峠の少し西側にあるドライブインで休憩。ドライブインを過ぎると急勾配の下り坂となり、急カーブを幾つか曲がって一気に標高を落とす。

 峠から5kmほど走るとR273と合流。国道の遙か上を、供用間近(2002年3月末開通)な旭川紋別自動車道の高架橋が跨いでいた。この後、R273と重複するR333は深い

山間を進んで行き、上川町でR39と合流。その後、旭川市まで続く。

 昨年はR39を走ったが、石北峠と層雲峡付近で車の流れが悪くなり、追い越しも出来ないのでストレスが溜まってしまった。R333は交通量が少ないので自分のペースで走ることが出来た。ツーリングではR333を走ることお薦めする。

 2本目の北海道国道走行となったR333を走り終えたのは16時過ぎ。すでに日は暮れ始めており西日が強い。R39に入ると交通量が一気に増えて流れは悪くなる。当麻町愛別で石狩川を渡ってr140(道道愛別当麻旭川線)〜r37(道道鷹巣東神楽線)〜r68(道道旭川空港線)を走る。このルートは、R39やR40から美瑛に向かう時によく走る道。混雑する旭川市街地を迂回することが出来るのだ。ただこのルートだと、旭川郊外の町中を走るために、会社や買い物から帰宅する人の車が多い。そんな中を長距離ツーリング仕様のバイクで走ると、1人浮いているようでどこか違和感を感じてしまった。

星の庵

 R237との交差点に到着した後、R452から美瑛に向かう。R237は交通量が多いのであまり走る気になれないのだ。

美瑛北西部を走るR452は芦別に抜けて夕張へ向かう国道なのだが、芦別に向かうまでが建設中で未開通となっている。『分断国道』となっており、鉄道で言えば盲腸線という路線だ。そんなわけで走っているのは地元車ぐらい。たまに観光客の車が走るぐらいなのだ。信号もないのでR237経由よりも早く『星の庵』に到着することが出来るのだ。

 北海道・美瑛の『星の庵』に到着したのは17:30頃。バイク庫にZRX1100を入れ、荷物を持って宿に入る。宿主の奥さんの出迎えを受けると、まるで我が家に帰ってきたような気分になる。この『星の庵』は、1997年9月以来毎年訪れているので、今年で5年連続の宿泊となる。ところが今年は少し事情が違う。実は2001年6月にも北海道を訪れ、6月末に2泊している。今年だけで2回目の訪問となるのだ。(この時は飛行機とレンタカーで移動) つまりは5年連続6回目の宿泊となるのだ。

 3連休の初日だというのに宿泊客は少ない。私を含めて6人だけである。考えてみれば、今日は9月11日の同時多発テロ直後の最初の週末だ。ジェット旅客機がWTCに突っ込み爆発する映像が頭に残り、『旅客機=危ない』という意識が芽生えて旅行を中止する人が増えたのだろうか?空港では、警備体制が最高度に引き上げられ手荷物チェックがかなり厳しくなった。それを嫌って旅行を控える人がしばらく増えるのかも知れない。

 夕食の時に飲んだ酒が回ってしまい、疲れと一緒になって食後寝てしまった。私は酒に弱いといのも一因だが・・・(^^;)

そのため、21時頃から始まる談話時間にはほとんど参加出来なかった。終わる前30分ほど参加しただけで終わったのは残念だった。

 この日の晩は、いつもは女性専用部屋となっているベット部屋で1人で寝ることになった。6回目の『星の庵』だが、この部屋で泊まったのは初めてであった。 

2001年9月15日(土):バイクで移動せず【0km】

天人峡

 美瑛滞在2日目。いつもより遅く8時頃に目が覚める。天気は曇り時々晴れという感じで今ひとつ。朝食後、出発組を見送ったり、宿主の娘のMちゃんと遊んだりして時間を過ごす。今回、『星の庵』には3連泊することになっているのでゆっくり出来る。今日は連泊するMさんのレンタカーに便乗させてもらうので、ZRX1100はお休みである。

 10時過ぎに『星の庵』を出発し天人峡へ向かう。美瑛の北西にありながら今まで来たことはなかったのだ。近くにあるだけあって11時前には到着。車を降りて温泉街の一番奥にある旅館『天人閣』から先に延びる遊歩道を歩いてゆく。まずは『羽衣の滝』と呼ばれる滝を見る。3〜4段の滝が1つの大きな滝となっている。最上の滝から滝壺までの標高差がかなりあって迫力がある。見事な滝だ。紅葉のシーズンに来れば素晴らしい眺めとなることだろう。

 『羽衣の滝』から遊歩道をさらに600mほど奥に進んで行く。熊笹生い茂る森の中を人1人分ぐらいの遊歩道を歩く。熊が出てきても不思議ではない。急な崖を下ると川原に下りる。川原の岩場を歩い

て行くと、正面に大きな滝が現れた。『天人峡のナイアガラ』と呼ばれる『敷島の滝』である。豪快な水飛沫を上げて流れ落ちている。『羽衣の滝』は水墨画に出てきそうな風景で「静」という感じがしたが、『敷島の滝』は「動」というイメージがぴったりだ。まさに正反対の2つの滝なのだ。

 観光客は多いが、この2つの滝は見る価値はあると思う。ただし入口からかなりの距離を歩かないといけないので、ライダーブーツ(特にオフロード用ブーツ)で訪れるのはかなり疲れてしまうだろう。

 歩いて来た道を引き返す。入口にあった旅館『天人峡』の天人峡温泉に入る。今ツーリング10湯目の温泉だ。めちゃくちゃ広い内湯には2つの岩風呂がある。泉質は塩化物泉で褐色を呈している。源泉口よりの湧出時は透明だが、含まれる鉱物質のために時間が経過すると酸化して褐色を呈するようになるそうなのだ。広い露天風呂もあり、かなりくつろぐことができた。

旭岳

 天人峡温泉を出た後、天人峡の北側近くにある旭岳温泉へ向かう。旭岳温泉に向かう道は急勾配・急カーブが連続する2車線ワインディングだ。3連休2日目ということで観光客の車が多い。坂の途中で急勾配の坂道をローラーブレードで登っている集団に出会う。旭川にある高校のスキー部のようで、『○○高校』と書かれたマイクロバスが最後尾をハザードを点滅させながら走っていた。男女合わせて合計40人ぐらいいただろうか? 筋力トレーニングということだろうが、なんとまぁ過酷なトレーニングだ。ところが彼ら彼女らは、登ることに必死でセンターラインに寄っていることに気が付いていない。中には2人並んで登っている人達もいた。非常に危ないので早々に抜いて先を進んだ。

 14時前に旭岳麓のロープウェイ乗り場に到着。しかし駐車場はどこも満車。やっとのことで車を停めたが800mほど坂道を登ることになる。頂上まで登ろうかということになりロープウェイ乗り場に向かう。乗り場と言うより「駅」である。土産物屋や食堂などがあり、たくさんの観光客で賑わっている。土産物を見ていると下りのロープウェイが到着。土産物屋はあっという間に人だらけになった。帰りの観光客目当てに、下りてきた客を土産物屋に誘導するような構造にしているのだが、

通路を広くするとかどうにかできないものか。買う気が失せてしまい乗り場に向かった。

 改札のある2階へ上るが、運賃が往復2800円もするで頂上へ行くのをあっさり止める。代わりと言っては何だが、『クマゲラの道』という500mほどの遊歩道を歩いて駐車場に戻った。

美瑛観光で思ったこと

 美瑛に戻る。R237沿いにある旭川の有名ラーメン店『山頭火』のチェーン店でラーメンを食べる。この後はおきまりの

美瑛観光コースを走る。『新栄の丘』に向かう。駐車場には車や観光バスが駐車し多くの観光客がいた。その少し南側の名もない丘では、驚いたことに道路の拡張工事の為に丘を切り崩していた。観光バスを通すために広い2車線道を建設しているのだろうか。丘を売り物にしている一方で丘を破壊している。全く理解しがいたい事をしでかしてくれているのだ。

 美瑛ではここ数年風景が大きく変わってきている。「なんたらの丘」とか「このきなんの木」とか名前を付けられた観光ポイントが増え、周囲の畑や丘を破壊して駐車場を建設。絵になっていた木の周りに土産物屋の建物が建ち、ダートの農道が次々と舗装されて行く。年々俗化されて行くのだ。確かに観光関連事業で収入を得て生活するためには、観光客に来てもらうしかない。そのために色々と設備が必要になるのは分かる。駐車場を整備しないと路駐車が増え渋滞が起きたり、農道を舗装すれば農作業する人達が楽になると言うのも理解できる。

 しかしそうなると逆にいろんな問題が生じる。農道を舗装すれば、今まで車で入り込まなかった所に入り込む人達が出てくる。風景写真を撮影するために、畑にずかずか入り込み農作物を踏みにじったり森の木々を勝手に伐採する常識の欠片すらない「自称アマチュアカメラマン」などの輩が増えてくる。駐車場を整備すれば景観が崩れたり、周囲の畑に影響を及ぼしたりする。観光客が増えればそれだけゴミも増えるので、その対策も講じねばならない・・・ 数え上げればきりがない。都会の人達にとっては、都会にはない(北海道でも)独特の風景を見るのを楽しみに来ている人がほとんどだ。無粋な人工物を増やさずに『美瑛のありのままの姿』を残して欲しいものだ。

 毎年美瑛に来ると毎年同じ事を考えてしまう。これはあくまでも都会に住む一観光客の意見。地元の観光関係の仕事に就く方達にはいろんな意見がある。恐らくかなり悩んでおられることだろう。どこの観光地でも抱える問題なのだ。美瑛の丘が『テーマパーク』みたいな所にだけはなって欲しくはない。

 『新栄の丘』の後は、『拓真館』に寄り『千代田ファーム』へ向かう。『拓真館』は美瑛観光コースに必ず含められる観光スポット。故前田真三氏が撮影された、四季折々の美瑛の風景写真が展示されている。

 『千代田ファーム』ではミルク+ハスカップのソフトクリームを食べる。ミルクの甘さとハスカップの酸っぱさとがうまい具合に混ざり合っており、大変おいしかった。これはお薦めだ。 ファーム内の家畜たちを眺めた後、北西の丘に移動。少しウロウロした後、『星の庵』に戻った。

星の庵 2晩目

 この日の宿泊客が多かった。昨晩がうそのようだ。この日の晩は、いつも常連客が使用している男性用の2段ベット部屋に移動。6月の時は屋根裏部屋にも泊まったので、これで『星の庵』本館の部屋全てに泊まったことになる。

 晩の談話時間「語らいの時間」は最初から参加。いつも通りに自己紹介から始まるが、人数が多いので途中で自己紹介は終わってしまう。隣に座った方が、私の仕事先の上司に顔や声・仕草や雰囲気が瓜二つの方だったのは驚いた。この日の晩は大いに盛り上がり、昨晩の分まで取り返した。

2001年9月16日(日):美瑛→美瑛【173km】

森林ツーリング

 今日も連泊である。今日は朝から快晴だ。早めに起き朝食前に散歩することにし、ぶらりと『星の庵』の周りを歩いてみる。先日までの雨のため地面はぬかるんでおり、時々足を取られたりしながら畑脇の畦道を通り『星の庵』裏手に回る。

ヤギに無視され、宿の飼い犬「金太郎」に吠えたてられながらも周囲の景色をぼけ〜と眺めていた。 

 『星の庵』では現在新館を増築している。なんとこの新館は、建物の基礎を大工さんにしてもらった以外は全て宿主夫婦らの手で作っておられるというので驚きだ。常連さんの中には建築関係の仕事に就いている方々もおられ、建築のアドバイスやボランティアで作業を手伝う方もおられる。作業出来る時期や時間が限られるので時間がかかっているが、毎年来る度に確実に少しづつ進んでいる。新館に泊まることを楽しみにしているのだ。

 朝食の後、のんびりと過ごして出発組を見送る。準備をして10時過ぎに出発する。昨日は昼から曇ってきたので丘巡りは今ひとつだったので、昨日回って写真を撮影したポイント

に再び向かう。曇りと晴れでは同じ場所でも全く風景が違っていた。午前中を撮影で潰し美瑛市街にある喫茶店で茶を飲む。美瑛の駅前に行くと、レンタカーを返して列車で旭川・札幌経由で新千歳空港まで帰るというMさんと出会う。Mさんを見送った後、GSでもらったホクレンの旗を置きに一度宿に戻る。

 13時過ぎに宿を出発し、R237を富良野まで下りR38へ入る。途中でr135(道道美唄富良野線)に入る。r135は19

98年頃に部分開通した道道。将来的には美唄まで開通する予定なのだが、今のところは中間のR452までの供用となっている。もともと深い山中を切り開いて建設された道なので、周囲には何もない。深い森の中を快適な2車線道がぶち抜いている。『森林ツーリング』を体験出来るのだ。

 緩やかな勾配の坂道を登りきると富芦TNに入る。長いTNで中央部付近では寒いぐらいだ。TNを抜けると芦別市に入り、今度は緩やかな勾配の下り坂を下りR452に達する。札幌や千歳から富良野などの道央そして道東に抜ける近道となっており、大型トレーラの通行が目立つ。去年に比べると路面が少し荒れているように思えたが、その影響だろうか。

 R452に入り芦別市街へ向かう。R452も深い山中を切り開いて建設された道で、沿道には何もない。ただひたすら深い森の中を進んで行く。交通量は非常に少なく自分のペースで走ることが出来た。途中には廃止された三菱夕張炭坑鉄道の鉄橋が保存されている。鉄橋の上にはDLが展示されており、今にも動き出そうな様子だった。この付近は炭坑の町として栄えたが、今は閉山されてしまい寂しい町になっていた。

 15時半頃に芦別市街に到着。そのままR452を北上。南側の分断区間入口まで走った後、芦別温泉へ立ち寄る。広々とした内湯に浸かり疲れを癒す。

 芦別市街まで戻りR38を富良野へ向かう。9月中旬とは言え、北海道では日暮れが近づくと気温はぐっと下がる。17時頃に芦別市街を通過して富良野に向かったが、途中で日没を迎えてしまった。R38は滝里ダムによって出来た滝里ダム湖湖畔を走る。深い山中を走る整備された2車線道だ。交通量が少なく快走出来たが、気温が下がったためかなり寒い。

ジャケットの下がTシャツ一枚だけなので体がさらに冷えてしまった。

 18時前に『星の庵』に到着。宿の風呂に入り体を温めたのは言うまでもない。

星の庵 3晩目

 今晩は家族連れのファミリーが2組も宿泊することになっていたので満員御礼だった。男性部屋は予備ベットを使用するまで混雑していた。この予備ベットを使用する宿泊客の方と話していると、同じ高校の先輩であることが判明。おそらく4年ほど上の先輩だったのだ。実家が大阪市天王寺区上本町の近くだとか。同窓生ということで一気に親密になるが、名前を聞くのを忘れてしまったのが残念だった。旅先ではこういう偶然に出会えるので楽しい。

 この日の宴会も盛り上がった。遅くに到着する家族の方々が場所が分からないと電話されてきて一時騒然となった。一時は捜索隊を結成しようかという話にもなったが、何とか無事に到着されて一安心。小さい子供さんを連れて来られていたが、疲れてぐっすりと眠っていた。

 実はこの晩が北海道最後の晩となる。明日の晩はフェリーの寝台で過ごしているはずだ。もうすぐ現実の生活に戻らねばならない。宴会は24時頃まで盛り上がり、楽しい最後の晩となった。 

2001年9月17日(月):美瑛→小樽フェリーターミナル【272km】

R452走行

 いよいよ北海道滞在最終日である。天気は曇っているが雨が降る様子はない。今日は小樽まで移動するだけなので時間に余裕がある。朝食後だらだらと過ごし出発組を見送り、自分もパッキングを行う。10時過ぎ、宿主やヘルパーさん、連泊する方々に見送られて『星の庵』を後にした。

 美瑛市街で給油した後R237を富良野まで下る。R38〜r135と昨日と同じルートを走る。R452にぶつかったところで左折して南に向かう。ここから夕張市までひたすらR452を走るのだ。今ツーリング3本目の北海道国道走行となる。このルートは2001年6月の時、逆方向(夕張→富良野→美瑛)をレンタカーで走っている。今回はバイクで走ることになるので、車とはまた違った視点で走ることになる。

 三段滝を過ぎると深い山中へ入って行く。このR452は旭川と夕張を結ぶ北海道縦断国道であるが、ほとんど深い山中を貫くため沿道に民家はおろか自販機などは町中を除けば全くと言っていいほどない。三段滝パーキングを過ぎると何もなくなるのだ。そんな道ではあるが、r135〜R452〜r116というルートは岩見沢〜富良野間の最短ルートとなる。R452を夕張まで下りR274に入れば新千歳空港にも短い時間で移動できる。そんな訳で大型トラックや観光バスの通行が大変多い道となっているのだ。

 しかしr116が分岐する木崎湖を過ぎると交通量は少なくなる。ほとんどの車やトラックはr116に入るためだ。木崎湖から南は交通量の少ない森の中を抜ける快適な2車線道が続くのだ。三夕TNを抜けて夕張市へ入る。TNから10kmほど南下すると何やらいろいろな家屋の廃墟があった。車では気が付かなかったが、どうやらかつては町だった所のようだ。

 地図で確認すると夕張市鹿島地区らしい。地図には小中学校のマークがあったのでかなり大きな炭坑の町のようだ。閉山と共に人々が去り廃集落となったのだろう。

 かつては日本の工業を支えた日本産の石炭も、エネルギーの主体が石油に移り、海外から安い石炭がどんどん輸入されたため、今ではほとんど採掘されなくなってしまった。炭坑は消え、炭坑で栄えた町は衰退し消えて行く。R452はそうした時代の流れを映しだす『遺跡』を繋ぎながら進んでいるのだ。 夕張市南部地区に到着する。久々の人気(ひとけ)のある町に到着。しかし町中には活気はなく、シャッターを閉めている店が多い。この町も炭坑の閉山の影響をもろに受けてしまった町だ。町中には閉山で廃線となった三菱夕張炭坑の専用線で使用されていたラッセル車や客車が大切に保存されていた。

 ここから夕張市市街に近づくに連れて徐々に交通量は増えてくる。清水沢地区まで来るとやっと町らしくなった。8kmほど南に走りR274と合流。これでR452も走り終えた。

札幌へ

 R274とR452の交差点角にあるセイコーマートで奈良ナンバーのバイクに乗る大学生と出会う。今晩、同じフェリーに乗るという。FTで再会することを約束して別れた。この後、5kmほど東にある『夕張物産センター』に向かう。同時多発テロ後のテロを警戒してか自衛隊の車両が目立つ。食堂で自衛隊員の横でラーメンを食べて昼食とするが、これからどうなるのだろうかと不安になる。

 センターを出る。R274に入り札幌方面に向かうことにしたが、9月13日にR274を帯広まで入っていることから、このままR274を札幌まで走ることにした。予定していなかった4本目の北海道国道走行である。R274は札幌と帯広を結ぶ北海道横断国道。大型トラックやトレーラの通行量が大変多いのだ。そのため路面には轍が出来て荒れている。バイクでは注意しないと轍にはまってしまいかねない。

 北海道長沼町でR337に入り長沼温泉に向かう。この温泉が北海道そして今回のツーリング最後の温泉となった。R2

74に戻り札幌へ向かう。北広島市からは4車線の都市近郊道路に変貌。交通量は一気に増大する。札幌市に入ると沿

道の風景は大阪近郊と同じような光景になった。それでもどこかしかに「北海道らしさ」は残っている。

 R274の札幌市街地付近は道央道の側道になる。札幌市街中心を迂回する道になるので車やトラックが集中して渋滞が発生していた。渋滞だけは大阪と共通。ただ大阪市街のような違法駐車がないのが幸いである。

 やがてR274の起点であるR5との交差点に到着。やはり長距離ツーリングでは大都市の市街地中心街は極力避けるべきだったと反省する。

小樽フェリーターミナル

 これ以上、札幌市街地の道路を走りたくなかったので、札幌北ICから札樽道に入り高速で一気に小樽に向かった。30分ほどで小樽に到着。『小樽屋』という土産物屋で土産を買うが、荷物が増えるのが嫌なので宅急便で自宅に送った。バイクに戻ると、夕張のセイコーマートで出会った大学生と再会。近くに美味しい回転寿司屋があるというので彼と一緒に向かうことにする。大阪の回転寿司はどことなく鮮度が落ちているが、さすがに小樽だけあって寿司のネタは新鮮そのもの。最後の食事と言うことで奮発して2000円分の寿司を食べた。

 ところで大学生は、京都にあるR大学3回生。2週間ほど北海道をツーリングしていたという。旭川では地元の人の家に5連泊もさせてもらい、かなり費用が浮いたとか。その他にも色々な体験をしたようだ。実に良い『旅』をされてきたようだ。

きっと役に立つだろう。

 寿司屋を出ると雨が降り出した。最後の最後で雨である。大学生は土産物を買ってからFTに向かうというので一度別れる。小樽近郊の温泉にでも行こうかと考えたが雨なのでFTに行くことにした。コンビニで買い物をした後、小樽の新日本海フェリーのFT(フェリーターミナル)へ移動。18時半に到着した。乗船までまだ4時間半近くある。

 やることがないので大型のテレビスクリーンの前に並べられた椅子に座りテレビを見る。『水戸黄門』(石坂浩二編の第1シリーズ)を最終回(2時間スペシャル)を見る。水戸藩の存亡に関わる謀反の企みを解決したら、首謀者が昔からの腹心の家臣であることが判

明。黄門様はその死に悩み苦しみ、最後には白い顎髭が生えたという内容だった。(石坂黄門様には当初は顎髭はなかったのです。) 続いて『森村誠一サスペンスドラマ』を見るが、こちらは内容は覚えていない。

 この間にR大学生がFTに戻ってきた。さらには『ましゅまろ』で再会したAさんとも再会。Aさんは、昨晩『星の庵』に泊まるつもりでいたのだが、満杯で泊まることは出来ずに他の宿に泊まったそうだ。さらにAさんと知り合いになった敦賀在住の年輩ライダーさんも加わり、合計4人のパーティーが結成された。

 22時半頃から外に出てバイクで待機。係員の指示によりタラップ下のバイク駐機場へ移動する。この頃になると雨は本降りとなり、雨具を着て乗船を待たなくてはならなかった。車両甲板では貨物車両の積み込みが行われていたので、太平洋フェリーのようにバイクが先に乗り込むことは出来なかった。23時前、ようやくバイクの乗船が開始。気が付くと乗り込むバイクは20台近くになっていた。

 先頭に並んだバイクから順に車両甲板に乗り込んで行く。係員にチケットを渡して私の番になる。北海道の大地とお別れしてタラップを一気に走って車両甲板に乗り込んだ。7日間に及ぶ北海道ツーリングは終わる。北海道に来る時も去るときも、共に雨の中であった。

 最小限の荷物を持って客室へ移動する。今回も2等寝台を予約した。今回は4人とも2等寝台を予約していたので、気を利かせて係員が2等寝台の一角に4人をまとめてくれた。

 23:30、フェリーは静かに小樽FTを出航。北海道ともおさらばだ。甲板で小樽の街の明かりを見送った後、風呂に入って冷えた体を温める。風呂から出てベットに戻ると、疲れが出たのか24時半頃には寝てしまった。

2001年9月18日(火):敦賀フェリーターミナル→自宅【196km】

新日本海フェリー

 朝8時頃に目が覚める。フェリーは日本海を敦賀目指して進んでいる。乗っているフェリーは高速タイプのフェリーで風が強いために航行中は甲板には出ることが出来ない。空を見ると雨は降っていないが、どんよりと曇っていた。船内をウロウロしてベットに戻る。周りの人は寝ているのか、起きている気配がない。やることもないので再び寝る。

 帰り(復路)のフェリーはいつもこうである。行き(往路)のフェリーでは、ルートを考えたり同じく北海道に向かう人達と色々と話して情報を得たりと、やることはいくらでもあった。ところが帰り(復路)では、同じく北海道を走ってきた人達と色々と体験談などを話すぐらいだ。せいぜいFTから自宅へのルートを考えるぐらいだろう。『現実に戻らねばならない』とうことが分かっているので、気分も暗くなってしまう。まるで祭りの終わった後の無気力・脱力感と似ている。

 他の人達との会話の中から興味のわく情報を得、『また来年も北海道に行くぞ!』と来年の旅の計画を練り始めることもある。そうなった場合は間違いなく『北海道症候群』という病気に罹っていると思った方が良い。治療法はただ1つ、『来年も北海道に行く』ことだ。(^^;)

 昼頃に目が覚める。腹が減ったのでラーメンを食べる。何もすることなしにダラダラと過ごし、時間だけが過ぎてゆく。1つだけ言えることは、確実に『日常』へ近づいて行っているのだ。

 ふと外を見ると日没が迫っていた。雲があったので海に沈む夕陽を見ることは出来なかった。この後、他の人達とも顔を合わせいろいろと話をしたりしている間に時間は過ぎて行く。気が付けばフェリーは福井県沖を航行していた。19:00過ぎに寝台に戻り下船の準備を始めた。

 20:00、フェリーは定刻通りに敦賀FTに到着する。接岸後、車両甲板に荷物を持って下りてパッキングを始める。その最中に車両甲板の扉が開き、蒸しっとした本州の空気が入ってきた。本州に戻ってきたことを実感する。車が下船した後にバイクの下船が始まる。Aさんは兵庫県三木市在住。大阪までは一緒のコースを走るので、それならばとAさんと一緒に走ることにする。敦賀の年輩ライダーはこのまま家へ帰るだけ。R大学生はR8〜湖岸道路経由で自走して京都方面に帰るというので、2人とは車両甲板でお別れとなる。

 20:07、フェリーから下船。本州の地に降り立った。今回のツーリングのゴールまで、あともう一走りだ。

無事帰宅

 敦賀FTの駐車場で荷物の固定を再確認し、20:15頃に出発する。いつもは北陸道を走って帰るのだが、今回はR8〜R161経由で湖西を走って行くことにする。敦賀から京都までだと、琵琶湖の東側を通るよりも西側を通る方が距離が短いのだ。夜のなので寄る所もなく、ただひたすら走るだけである。

 夜のR161はトラック街道。福井県と滋賀県の県境にある国境を越えるまでは、勾配のある上り坂で狭い2車線幅のワインディングが続くため、トラックは上り坂をトロトロと走ることになるので、こちらはかなりペースが落ちてしまう。マキノ町に入り、R303との合流地点を過ぎると道幅が広くなるのでトラックを抜いて先に進んで行く。

 マキノ町以南のR161は先行する大型トラックは少なく、また道事態も整備されているので快適に走ることが出来た。志賀ICからは湖西道路に入り一気に京都を目指す。夜の湖西道路は走っている車はおらず貸し切り状態となっていた。時々対向車とすれ違うぐらいだ。この日はたまたま空いていただけだろうか?

 やがて大津市街の街明かりが見えてきた。その向こうに夜の琵琶湖が見える。阪本を過ぎると湖西道路からR161西大津BPへ入る。その途端、車が通行量が増える。「京都」、「なにわ」、「大阪」、「和泉」といった関西では馴染みのナンバプレートを付けた車が増えたのを見て、関西に戻ってきたことを実感する。

 長等TNを越えると京都市に入る。R161からR1に合流すると京都東ICに到着。敦賀FTからここまで約1時間40分、距離は約100kmである。これが北陸道経由だと、敦賀IC〜京都東IC間だけでも距離は約150kmとなる。高速道路だと信号や渋滞に巻き込まれることなく快適に走ることが可能ではあるが、高速料金と走行距離を考えると湖西経由を選んでしまうのだ。

 Aさんは給油するためにR1を京都市街へ進むという。京都東IC入口でAさんと別れ、単独で名神高速に入る。ここからは良く走る道なので慣れている。しかし油断してはいけない。最後の最後で事故を起こしては元も子もない。22時過ぎに桂川PAで小休憩。あとは90k/h前後の速度で高速を走る。車は少なく、西行きの長距離トラックはまだ少ない時間帯なのでマイペースで走ることが出来る。

 名神高速〜近畿道〜阪和道と、いつも利用する高速を走って行く。南に向かうにつれ、旅が終わりに近づいていること、そして『非日常の生活』から『日常の生活』に戻りつつあることを感じ取る。23時過ぎに岸和田和泉ICを下りる。いつもと同じ町、いつもと同じ道を走り、23:25頃に自宅に到着。

 まずは自宅の玄関を開けて足を踏み入れる。

ツーリング終了。

 13日間に及ぶ、21世紀初の東北&北海道ツーリングは無事に終了した。

 総走行距離は2347km。入浴した温泉は12湯。完走した国道は6本。出会った人は数知れず。とにかくいろんな事があり、一生忘れられない出来事もあったツーリングであった。

 大まかな片付けだけを先に済まして、自宅のベットで寝たのは翌19日となった夜中の1時過ぎ。明日から(正確には今日から)元の生活が始まるのだ。しかし、すでに頭の中では次のツーリングのことを考えていたのであった・・・

【東北&北海道ツーリング2001 終わり】

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つーりんぐれぽーと