《九州ツーリング2002続き》

2002年4月12日(金) 【鹿児島県指宿市『圭屋YH』→鹿児島県肝属郡根占町『錦江湾YH』:271km】

 低気圧は去って今日は快晴。9時前にYHを出発する。R226に入り枕崎方面へ向かう。まずは鰻池沿いにある鰻温泉に向かう。鰻温泉はのんびりした集落内にある公衆温泉浴場。地元のおばあさん達が温泉に集まっていろいろと世間話をされている。

 浴室に入ると、地元のおっちゃんが1人入っておられた。聞くと、最近まで貨物船の乗組員だったとか。定年を迎えて郷里に戻って来られたそうだ。このおっちゃん、船で日本一周を何度もしたという。根室海峡でロシア警備艇に拿捕されそうになった話や、瀬戸内海で見た花火の話など、大変おもしろい話を聞かせて頂いた。こういう風に、全く見知らぬ人と話が出来るのが公衆温泉浴場のいいところだ。

 鰻温泉を後にしてR226に戻る。R226を西に向かうと正面に開聞岳が見えてきた。途中で国道から離れてJR指宿枕崎線西大山駅に立ち寄る。日本の鉄道最南端の駅だ。列車3両分ぐらいの長さの片面ホームしかないローカル線の駅。この駅のホームからは開聞岳の雄姿を見ることが出来る。特攻隊員の方々は、あの山に最後の別れを告げて沖縄方面に向かわれたのだ。

 さて西大山駅には1996年(平8年)の九州ツーリングの時にも立ち寄った。駅や周辺はその時と全く変わっていなかった。この周囲だけ時間が止まっているかのようだ。のんびりしたロー

カル線の雰囲気が大変良い。しかしながら、JR指宿枕崎線の末端区間である山川〜枕崎間は廃止されるという噂もある。そうなるとこの西大山駅もなくなってしまうことになる。駅にあったノートにも『ぜひ存続を!』という書き込みがあった。まもなく、沖縄・那覇市にモノレールが開通する。そうなると『日本最南端の駅』はそちらになってしまうのか?『鉄道駅』として最南端駅という栄誉を維持し続けるのか、気になるところだ。

 朝飯を食べていなかったので、ここなら食堂があるだろうと池田湖に立ち寄った。イッシーには会うことが出来なかった。展望所近くにあるドライブインで、朝飯兼昼飯と言うことでうどんを食べたが一杯500円もするのに驚いた。

 再びR226に戻り西へ向かう。枕崎市市街を抜けて坊津(ぼうのつ)へ。10世紀頃、ここは遣隋使・遣唐使の発着港だったのだ。今では静かで小さな港町となっているが、1000年ほど昔は今の神戸港や横浜港のような国際港だったのだ。

 坊津を抜けて海岸線に沿ってウネウネと進んで行く。透明度が高く、海はめちゃくちゃ綺麗だ。青い空と青い海、この絶妙な風景を見ているだけで気分が良くなる。この坊津は『007は二度死ぬ(邦題)』の撮影地でもあり、R226沿道に記念碑が建っていた。その碑を見つけて大喜びで記念撮影してしまった。

 半島をぐるっと回り加世田市に再度立ち寄った。『加世田平和祈念館』に立ち寄り青空の下の建物を撮影する。明後日に迫った『万世特攻慰霊祭』に向けて準備が行われていた。

 同じく知覧の『知覧特攻平和館』にも立ち寄り、青空の下の建物を撮影する。今日もたくさんの方々が訪れられている。どれだけの人々が隊員の方々の思いを感じ取ってくれるのだろうか。土産物屋で知覧茶と『知覧特別攻撃隊』という冊子を購入して知覧の地を後にした。

 手蓑峠を越えてR225に入る。このままR225を走っても渋滞に巻き込まれるだけだと思い、海岸沿いに走る片側3〜4車線のr217(県道郡元鹿児島港線)を走る。しかし鹿児島市街に近づくにつれて渋滞が発生して巻き込まれた。

 16時過ぎに鹿児島港に到着。桜島フェリーに乗って16時半頃に桜島に到着した。フェリーでは、屋久島に渡っていたというタンデムの夫婦ライダーと出会う。今日の18時発の志布志発大阪南港行きのフェリーに乗るとのことで、到着後急いで志布志へと向かって行った。

 桜島の北半分をr26で時計回りに走る。10日に立ち寄ったのだが休みだった桜島白浜温泉センターに寄る。今日は入ることが出来た。温泉を出たところで宿泊するYHに連絡する。

 大隅半島に渡り、錦江湾を右側に見ながらR220〜r68〜R269を南下して行く。海に沈む夕陽が素晴らしかった。

 根占町根占港近くにある『錦江湾サウスロードYH』に到着したのは日没後の19時前。夕食提供はないので、途中のコンビニで購入したサンドイッチを食べ夕食とする。その後、近くにある『ねじめ温泉ネッピー館』へ。いろんな設備があって楽しめる温泉だ。YHにあった割引券を使ったので入浴料は150円だった。

 YH宿泊者は私1人だけ。YHとは言え、雰囲気は『とほ宿』に近い。ペアレントの方は大変親

切な方で連泊したくなるYHだ。談話室で記録をつけた後、自室に戻って寝ることにした。

☆★☆ 彷徨猫的観光案内 ☆★☆ 

池田湖

 池田湖は薩摩半島南部にある九州最大のカルデ

ラ湖です。約5000年前に開聞岳の噴火と共に池

田火山の陥没によって出来ました。

 周囲約15km、面積約10.9㎢、最大水深233

m、平均推進135mの湖です。

●池田湖の「イッシー」

 池田湖に生息していると言われる未確認生物(U

MA)のことです。ネス湖の未確認生物が「ネッシ

ー」と呼ばれているのにあやかり、「イッシー」と名

付けられたようです。

 ことの始まりは1978年(昭53年)にさかのぼり

ます。この年の9月、法事のために集まっていた

20名の人達が、池田湖湖面を猛スピードで移動す

る2つの黒いコブを目撃したことでした。

 この事件は全国紙まで紹介されると、次々と目

撃証言が飛び出しました。指宿市観光協会には

「イッシー対策委員会」が設置されるほどに・・・

 1978年12月、鹿児島在住の方がイッシーの写

真撮影に初めて成功。それより13年後の1991

年(平3年)1月、福岡市在住の方がドライブ中に、

池田湖湖面に浮かぶ大きな黒い物体を見つけ、ビ

デオ撮影することに成功しました。

 これを含めて、池田湖に浮かぶ謎の黒い物体を

撮影した写真やビデオ、目撃談は数知れず・・・

○1978年以前の目撃談

 池田湖には昔から『池田湖には主がいる』という

言い伝えがあるそうです。一説には巨大なカニと

いう話もあります。

 池田湖に身投げした人の死体や水死者の死体

は決して浮かび上がらないと言われているそうで

す。これは湖底の巨大生物が食べてしまうからだ

と言われています。

 1954年(昭29年)、行方不明者の捜索のため

に池田湖に潜ったダイバー2人が、水深数十mの

湖底で、”牙をむき出しにして大口にを開けた怪物

に襲われた”と血相を変えて上がってきたという報

告があるそうです。

 また、1961年(昭36年)、池田湖に米軍機が

墜落し大規模な機体捜索が行われた際、音波探

知機に巨大な何かが動いているのがキャッチされ

たという話があります。

 「恐竜の生き残り」か、それとも「巨大ウナギ」

か。正体はともかく、池田湖に何か巨大な生物が

生息しているのは間違いないようです。

●巨大うなぎ<<巨大鰻>>

 世界には18種類の鰻が生息していますが、日

本には2種類(ニホンウナギとオオウナギ)が生息

しています。池田湖にはオオウナギが生息してお

り、全長1mを越える巨大ウナギが生息していま

す。

●池田湖

◇場所:鹿児島県指宿市

◇交通

>バイク・車

 鹿児島市内より指宿スカイラインを南下。終点よ

りr17(県道指宿鹿児島インター線)に入り、指宿

市からr28(県道岩本開聞線)へ。そのまま走ると

池田湖畔に到着します。

>列車・バス

 鹿児島空港より、空港バス「指宿・山川」行きバ

ス乗車。指宿駅前にて鹿児島交通バスに乗り換

え。鹿児島交通バス池田湖バス停下車。そこが池

田湖湖畔です。

 どこ行きのバスに乗ればいいとかは分かりませ

ん。詳しくは問い合わせて下さい。<(_ _)>

○問い合わせ先

指宿市観光協会 п@0993−22−3252

鹿児島交通バス

 本社 пF099−553−0121

 山形屋バスセンター пF099−222−0128

 指宿支社 рO993−22−2211

007は二度死ぬ

 原題は『YOU ONLY LIVE TWICE』。1967

年(昭42年)イギリス作品。007シリーズ第5弾で

ボンド役はショーンコネリーでした。

 日本を舞台にした007映画で、日本側からは丹

波哲朗、若林映子、浜美枝、島田照などが出演し

ています。このときのボンド・カーは、特別仕様のト

ヨタ2000GTでした。

 ちなみに話は、米ソの衛星が次々と消える事件

が発生。米ソが互いに不信感を募らせ、戦争勃発

の危機が・・・ そんな中、妨害ロケットの秘密発射

基地がある日本に潜入したボンドが大活躍すると

いう話。

 昭和40年代初頭に銀座を人力車が走っていると

か、日本の秘密諜報部員が忍者だったりと、欧米

人の日本感がよく分かる、今ビデオで見ると突っ込

み所満載の映画です。欧米人の日本感は、今でも

あまり変わってないですね。

●007撮影記念碑

 『007は二度死ぬ』の日本での撮影ロケ地は、

坊津町秋目浦や姫路城や東京のホテルニューオ

ータニなどで行われました。

 さて坊津町秋目浦は鑑真大和上が上陸された

地点として有名です。そのことを知ったか知らず

か、撮影スタッフはこの場所を撮影地に選んでく

れました。付近はリアス式海岸で、入り組んだ地

形。007がヘリコプターに乗って旋回する入り江

が秋目湾なのでしょう。

 そんな場所に、1990年(平2年)頃に撮影記念

碑が建てられました。石碑は国道226号線の沿

道に建てられています。だいたい高さ150cmぐら

いの四角形の石碑で、表面には『007 YOU O

NLY LIVE TWICE』という原題が彫られていま

す。その下には『秋目で007の映画を撮影したよ

ん』という内容の英語の文章が彫られ、さらにその

下にはショーンコネリー、丹波哲朗、映画のプロデ

ューサーのサインが彫られています。

 管理人@あめふらしは、この横に立って片手に

銃を持ったボンドの真似をして写真を撮りました。

アホやなぁ〜。(^^;)

●007撮影記念碑

◇場所

 鹿児島県坊津町秋目地区のR226沿道。R226

とr271(県道秋目上津貫線)との交差点から、枕

崎方面へ800mぐらい南下した付近にあります。

 見落としやすいので注意して下さい。

◇交通

 バス路線はありません。バイク・車でのみとなりま

す。近くに駐車場があります。

○問い合わせ先

 坊津町観光課 п@0993−67−1441

2002年4月13日(土) 【鹿児島県肝属郡根占町『錦江湾YH』→鹿児島県志布志FT:181km】

 朝食の後、9時頃にYHを出発。国道サイトのネタ集めで佐多町伊座敷まで一往復した後、R269を北上して鹿児島県鹿屋市の海上自衛隊鹿屋基地内にある『航空基地史料館』に向かう。ここも必ず訪れなくてはならない所なのだ。

 基地内にある資料館の建物の周囲には、戦後の海上自衛隊で活躍した航空機やヘリコプターが展示されている。資料館は1階が海上自衛隊の歴史や装備についての展示室。2階は旧帝国海軍航空隊の歴史や資料を展示している。

 ここには零式艦上戦闘機『零戦』が展示されている。吹上浜と錦江湾から同じ時期に引き上げられた2機の零戦をつなぎ合わせて1機とした物。機首の部分は52型だろう。さて、たまたま居合わせた零戦ファンというおっちゃんが係員に尋ねてくれたので分かったのだが、運がよいことに2002年4月1日より、この零戦のみ撮影可となった。(他の展示品は撮影不許可)

 まずは零戦を撮影する。知覧にあった零戦は機首部分だけだったので、つなぎ合わせとは言え実物の零戦を見たのは初めてだった。形は写真や模型で知っていても、いざ実物となると印象は全く違う。陸軍機の『飛燕』や『疾風』とはまた違い、丸みを帯びた機体はデザイン的にも美

しく見える。出来れば飛行可能な状態にして、再び栄エンジンをうならせて大空を飛んで欲しいものだ。知覧にあった四式戦『疾風』は飛行可能な状態でアメリカから返還されたのだが、数回飛んだだけで今は翼を休めている。

 こういった大戦中の飛行機は全てが飛行できない状態で展示されているだけだ。『戦争に使われた道具』という風に見るのではなく、戦後の復興につながり現在まで至る、戦前・戦中の日本の航空技術の集大成として見ることは出来ないものか・・・ 車や鉄道では戦前の物でも動く状態で保存されているのだから、それと同じように扱うことはできないものだろうか? 

 さて『航空基地史料館』には、日本帝国海軍航空隊の創立からその終わりまでの資料が展示されている。その流れを追って行くと、1944年10月に始まった『神風特別攻撃隊』にどうしても辿り着く。知覧や加世田同様、ここにも特攻隊員の遺影・遺書・遺品が展示されている。最後の『特別攻撃隊』の隊長、中津留大尉の遺影もある。

 あちらは陸軍、こちらは海軍という違いはあるが、どちらも思いは同じ。故郷に残してきた妻子や親、『日本国』の将来を考えておられたことを感じることが出来た。この方々のおかげで現在の日本があるのだ。

 出口で頭を垂れて2階展示室を後にする。1階に下りると、そこは戦後日本の世界。海上保安隊から出発した海上自衛隊航空隊の歴史や装備についての展示コーナーだった。切り取られたP2Jのコクピットに入ることが出来る。意外と狭かった。

 受付で預かってもらったタンクバックを返してもらう。受付係に尋ねると、なんと海上自衛隊員だった。基地内にあるから当たり前か。

 外に出ると屋外展示機の他に、八八式魚雷、九二式魚雷や艦上攻撃機『天山』などの航空機のエンジンが展示されていた。これも「戦前・戦中の日本の技術」の結晶なのだ。それらも見て回る。1942年

(昭17年)11月の第3次ソロモン海戦で沈没した戦艦『比叡』の主錨も展示されている。その後、展示されている退役した海上自衛隊機をぶらぶらと見て回り駐車場に戻った。駐車場で、観光バスで訪れた年配の方々とすれ違う。戦争末期に少年兵や予科練におられたような年代の方々だった。あの方々にとっては『現実』だったあの時代を、今どういう風に感じられるのだろうか。

 12時過ぎに鹿屋基地を後にしてR269を南下する。根占からR448に入り、大隅半島周遊コースを走る。整備が進んでいて走りやすい3ケタ国道だ。あちこちに廃道となった旧道が残っている。KSRUで来ていたなら喜んで走っているであろう、そんな感じの道だった。

 大隅半島の東岸に沿って走るR448から見える海は大変きれいだ。透き通った青色で、断崖上から見るのに海底がはっきりと見える。こんな所で潜ればさぞ気持ちいいことだろうと、ここ数年遠ざかっているダイバーの立場から考えてしまう。鹿児島県内之浦町岸良まで来ると、強風が吹き荒れていた。山颪(やまおろし)だろう。ZRX1100でも少しだけ流された。

 岸良を過ぎてしばらく行くと、白い建物が見えてきた。『宇宙空間観測所』のレーダーセンターだ。13時半頃に鹿児島県内之浦町にある『宇宙空間観測所』に到着する。1970年(昭45年)に日本最初の人工衛星『おおすみ』が打ち上げられた所だ。『おおすみ』の打ち上げによって、日本は米ソ仏に次いで、世界で4番目の人工衛星打ち上げ国になったのだ。

 今でも年1〜2回のロケット打ち上げが行われている。敷地内は広いので、バイク・車に乗ったまま見学することが出来る。(そうしないと見学できない。) 巨大なパラボラアンテナやロケットの組み立て棟があちこちにある。気分は早○女科学研究所かウルト○警備隊基地か。(^^;)

 敷地内には巨大なパラボラアンテナがいくつかある。ロケット発射台は2つあり、ともに海に突き出るような形で設置されている。高低差があり、また施設間は離れているのでバイクや車でないと見学は難しい。ここには実際に打ち上げられたロケットの実物大のレプリカも展示されている。3段式ロケットのMV1ロケットの巨大さには唖然。ZRX1100がめちゃくちゃ小さく見えた。

 宇宙科学資料館では、日本のロケット開発の歴史に関する資料が展示されていた。鹿屋基地で零戦を見てから巨大なロケットを見ていると、終戦後の焼け野原で0から出発して、戦後25年でここまで技術を発展させた日本の技術力は凄いと思う。中心となったのは、終戦前に航空機を開発していた技術者達。彼らの努力でここまではい上がってきたのだ。(詳しいことは分かりませんが、一部のロケット技術に関してはアメリカから提供を受けているそうです。)

 『日本』という国の屋台骨が残ったからこそ、ここまで来ることが出来たのだろう。

←左写真:駐車場の公衆便所。観測所のようなデザインになっているのが面白い。パラボラアンテナは机の屋根。

 内之浦を出たのは14時半。そのままR448を北上して宮崎へ向かうが、思った以上に時間がかかってしまった。16時前に大崎町にある道の駅『くにの松原おおさき』に到着。さてここから宮崎まで、寄り道をしないで走っても推定約2時間。宮崎港発のマリンエキスプレスにはギリギリの時間。渋滞に巻き込まれて乗れなくなっても困るので、志布志港発のブルーハイウェイラインに乗船することにする。昼頃に予約したマリンエキスプレスに、予約取り消しの電話を入れる。

 続いてもう一件、道ネタサイトの相互リンクサイト『ルート宮崎』の管理人さんの携帯に電話を掛ける。宮崎FTから乗船するというので、宮崎FTでお会いすることになっていたのだ。しかしながら留守電につながってしまう。伝言を残し、志布志FTに向かって出発。

 道の駅を出発すると向こうから見覚えのある自転車が・・・ そう九州初日に出会った古希爺さんだった。すれ違ったが、先でUターンして引き返し再会を果たす。海岸線を下っておられると聞いたので、この辺りで再会するのではと予測していたのが見事に的中した。氏はあれから5日書けて海岸沿いに南下されてきたのだという。今日は町役場近くでテントを張るそうだ。少し疲れたご様子だったが、始まってから約2週間目。疲れのピークを迎える頃で、このピークをこれば体は慣れて楽になるはず。本州での再会と旅のご無事を祈って別れる。

 志布志FTに到着したのは16時過ぎ。『ルート宮崎』の管理人さんから携帯に電話が入る。なんとすでに宮崎FTに到着し、私を待っていて下さったという。大変申し訳ないことをしてしまった。事の顛末を説明し、お会いすることが出来なくなってしまったことを伝え、謝罪する。せっかく楽しみにされていたのに・・・ この場を借りてお詫び致します。m(_ _)m

 志布志FT出港は18時。フェリーはゆっくりと志布志湾を進む。今回訪れるつもりで訪れることが出来なかった都井岬を眺めながら、現在の戦後「日本」はあまりにも1945年(昭20年)8月15日以前の「日本」のことを忘れすぎではないかと思ってしまった。幕末・明治維新後に出来た帝政「日本」が滅びようとも、その屋台骨は残ったからこそ今の戦後「日本」はあるのだ。

 その屋台骨は誰のおかげで残ったのか。戦後の我々が感謝しなくてはならないのは、『悪玉の帝政日本』からの解放者である(というように教育・洗脳された)GHQではなく、特別攻撃隊を始めとして大東亜(太平洋)戦争で亡くなられた300〜400万人の軍人・民間人の方々なのだ。1945年(昭20年)8月15日以前の「日本」と今の「日本」は密接に深く繋がっている。

 いろいろと考えさせられるツーリングでした。

2002年4月14日>>

☆★☆ 彷徨猫的観光案内 ☆★☆ 

鹿屋航空基地史料館

 鹿児島県鹿屋市にある海上自衛隊鹿屋航空基

地内にある史料館です。1972年(昭47年)に開

館し、1993年(平5年)に新史料館として開館し

ています。

 史料館では、旧帝国海軍航空隊の海鷲たちの軌

跡と戦後の海上自衛隊航空隊の歴史と現状をわ

かりやすく展示しています。

 入り口から入るとまず2階に誘導されます。2階

には旧日本帝国海軍航空隊の創設から終戦後の

解体まで至る歴史が、各種資料・展示物によって

わかりやすく解説されています。ここは航空隊がメ

インなので、海軍軍艦については主だった説明しか

なされていませんが、加賀か赤城の模型がありま

した。

 展示室にはおそらく日本唯一と思われる『桜花』

のロケットエンジンや、復元された零戦の実物・栄

エンジンなどが展示されています。また海軍航空

隊で使用された機体の模型も展示されています。

 誘導に従って進むと階段を下りて1階へ向かいま

す。階段から見える中庭には、九二式(八八式?)

魚雷が展示されています。1階に下りると、海上自

衛隊航空隊発足から現在に至る歴史が写真パネ

ルなどでてわかりやすく解説されています。

 P2Jの機種部分やS61A救難ヘリの実物、エン

ジンや対艦ミサイル、魚雷、機雷なども展示され

ています。

 史料館周囲にはP2JやUS1などの退役した海

上自衛隊機が屋外展示されている他、魚雷や戦

艦『比叡』の主碇も展示されています。

 館内は撮影禁止ですが、2002年4月1日より

2階にある零戦のみ撮影が許可されました。

●海軍航空隊鹿屋飛行場

 1936年(昭11年)に鹿屋海軍航空隊創設に

よって鹿屋飛行場の歴史が始まります。海軍航

空隊の艦上攻撃機や陸上攻撃機などが配備さ

れ、本土最南端の海軍航空隊飛行場として機能

します。

 大東亜(太平洋)戦争末期の1945年(昭20

年)2月、鹿屋飛行場に第5航空艦隊司令部が置

かれると、特別攻撃を主体とする菊水作戦の中心

基地として活動し始めます。

 鹿屋飛行場を始め、国分飛行場、串良飛行場

などから908名の特別攻撃隊隊員が出撃し散華

されました。

 鹿屋飛行場は、その後、アメリカ軍の猛爆撃を

受け終戦を迎えます。

 終戦後はアメリカ第5空軍が進駐しますが、19

48年(昭23年)にアメリカ軍は撤収。1950年(

昭25年)12月、警察予備隊の発足に伴い鹿屋

駐屯部隊が編成されました。その後、保安隊を経

て1953年(昭28年)12月1日、海上自衛隊固

定翼航空機発祥の地として海上自衛隊鹿屋航空

隊が発足し、現在に至ります。

 毎年4月8日に『鹿屋航空基地特別隊戦没者追

悼式』が挙行されます。

●菊水作戦

 1945年(昭20年)4月6日〜6月22日まで行

われた、連合軍の沖縄上陸作戦に対して日本軍

が行った特別攻撃作戦。

 菊水作戦は第一号から第十号まで行われ、第一

号作戦では戦艦『大和』を中心とする水上特攻が

行われました。

 陸軍は航空特別攻撃として参加しています。

●鹿屋航空基地史料館

◇場所:鹿児島県鹿屋市

п@0994−42−0233

◇開館日 12月29日〜翌年1月3日を除く毎日。

◇開館時間 9:00〜16:30(入館16:00まで)

◇入館料 無料(パンフレットは有料です。)

◆交通

○バイク・車

 鹿児島市内よりフェリーで垂水市へ。垂水市より

R220で鹿屋市へ。鹿屋BPには入らずに、旧道〜

R269経由で市街に入ると鹿屋基地に到着しま

す。

○列車・バス

>鹿児島空港より

 空港リムジンバス鹿屋方面行き乗車。航空隊前

バス停下車。基地内に入り徒歩約10分。

 または鹿屋市行きバス乗車し、同バス停下車。

>問い合わせ先

 鹿児島交通

  鹿屋営業所 рO994−42−3131

復元された零戦

 鹿屋航空基地史料館2階に展示されている零戦は、1992年(平4年)に相次いで発見され海中より引き上げら

れた2機の零戦を組み合わせて作られました。

 1992年(平4年)3月24日、鹿児島県垂水市まさかり海岸において零戦二一型の胴体部が打ち上げられまし

た。これを移管された鹿屋基地では、この機体を元に零戦を復元しようと計画しました。ところが約7ヶ月後の同年

10月15日、鹿児島県加世田市吹上浜において海中に没していた零戦五二型丙が引き上げられました。

 これは果たして偶然なのでしょうか?とにかくこの2機を使用して復元計画進められました。海上自衛隊の熱意と

各方面(特に三菱重工)の努力で、この2機は1機の零戦として修復作業が行われ、1993年(平5年)7月7日に、

「零式艦上戦闘機五二型」として見事復元されました。

 同時に栄二一型エンジンも復元され、現在は零戦の横に展示されています。現在展示されている機種に付いて

いるプロペラは引き上げられた零戦の物だそうです。

注>>92年8月3日、加世田市の吹上浜より零式水上偵察機と共に零戦五二型丙も引き揚げられたそうです。最初は、まさかり海岸の機体とこの機体を

  元に復元しようとしたのでしょうか?この辺りの情報がこんがらがっているので詳しいことは分かりません。調べておきます。<(_ _)>

◇◆◇ 特別攻撃隊 〜 其の弐 〜 ◇◆◇

■最後の特別攻撃隊

 1945年(昭20年)8月15日正午、『玉音放送』

が流れ太平洋戦争は終結。日本帝国陸海軍は、

その80年近い歴史に幕を下ろします。

 大東亜(太平洋)戦争の公式記録として残ってい

る最後の特別攻撃隊は、1945年(昭20年)8月

15日に出撃し、房総沖のアメリカ機動部隊に突入

した帝国海軍第三航空艦隊所属の第四御楯隊8

機と第七御盾隊第四次流星隊の艦上攻撃機『流

星』1機の合計9機18名でした。突入したのはア

メリカ側の記録によれば15日(日本時間)正午〜

13時20分にかけてだそうです。これが公式上に

おいては、帝国海軍最後の特別攻撃です。 

●宇垣特別攻撃隊

 8月15日(一説には16日)夕方に海軍大分飛

行場から11機の彗星艦上爆撃機が出撃しまし

た。隊員は太平洋戦争を戦い抜いてきた宇垣纏(

まとめ)中将と中津留大尉以下22名、合計23名

でした。

 中津留大尉が操縦する宇垣中将搭乗機を含む8

機17名は、15日(一説には16日)19時過ぎ、沖

縄・伊平屋島の前泊にある米軍キャンプ場に突入

し、戦死されました。残る3機は不時着(着水)し1

名が亡くなられ、5名の方が生存されました。この

攻撃が旧帝国海軍航空隊最後の出撃、そして最

後の特別攻撃隊となりました。

 ところが、この攻撃は戦争が終わってから出撃し

たということで、宇垣中将、中津留大尉以下17名

の隊員の方々は『特攻戦死者』ではなく『一般戦

死者』として扱われています。「英霊」として靖国神

社に祀られているかどうかも分からないそうです。

 作家・城山三郎氏によると、このときの特別攻撃

隊は、キャンプ地直前にして進路を逸れて大惨事

になることを防いだことを検証しています。

 もう戦争は終わっているのだと気づいたからでし

ょうか。終戦後にアメリカ軍を攻撃して多大な被害

を出していたら、日本の戦後処理に大きな影響を

及ぼしたかも知れないと考えていたからでしょう

か。その意図は今では分かりません。

 終戦の日、陸軍においても隊員達が特別攻撃隊

の出撃を許可するよう司令官に掛け合ったそうで

す。しかし『終戦後の戦闘は陛下のお立場を悪くす

るだけ』と説得され出撃しなかったという話があり

ます。

●なぜ出撃?

 第五航空艦隊では、本土防空戦を指揮する一方

で、特別攻撃も指揮。宇垣中将は、特別攻撃隊を

指揮して何人もの隊員を送り出した本人が生き残

って良いわけはないと感じており、特別攻撃に至っ

たのではないでしょうか。

 ならば他の隊員を連れて行かずに1人自害すれ

ば済む話ということになります。そういう批判的な

評価もあるのは事実です。

 これは難しい話になります。先の戦争を知らない

戦後世代、『軍隊』とは何かということを知らない我

々には決して理解できない話です。私にも理解で

きません。

 15日の玉音放送を聞いて中津留大尉以下、第

七〇一航空隊の隊員はには終戦の事実は知って

いたはずです。

 宇垣中将や中津留大尉以下、この特別攻撃に

志願された方々は、終戦と同時に日本帝国が終

わったことを実感したのでは?『軍人』として『日本

帝国』と共に命運を共にする覚悟があったのはな

いでしょうか?

 最後の特別攻撃隊は、最初は5機だけという話

だったのですが、次々と志願されたため11機22

名になったそうです。「生き残る」ことが出来たの

に、わざわざ「死」を選んだ22名の方々の決意は

尊敬するに値します。

 そして最後の特別攻撃隊に参加され亡くなられ

た18名の隊員の方々、生き残ったが固い決意で

参加された5名の方は、今の我々が失ってしまっ

た『武士道』を実践された、まさしく最後の『武士』

だったのではないかと思います。

宇垣纏(まとめ)中将

 宇垣中将は、大東亜(太平洋)戦争における帝国

海軍の参謀でした。連合艦隊司令長官であった山

本五十六大将が戦死した「海軍甲事件」(1943年

4月18日)の際に2番機に搭乗しており被弾、重

傷をおいながらも生還します。

 復帰後、第一艦隊司令官などの職務を経て194

5年(昭20年)2月、第五航空艦隊司令官に着

任。同8月15日(一説には16日)出撃し、戦死さ

れる。享年56歳。

●中津留大尉

 中津留達雄大尉。大分県津久見市出身。海軍兵

学校70期生。1944年(昭19年)1月から宇佐海

軍航空隊にて艦上爆撃の教官を務めた後、45年

(昭20年)4月から第七〇一航空隊へ。国分・美

保などで『彗星』による訓練を受けた後、同年7月

大分基地へ。同年8月15日(一説には16日)出

撃し、戦死される。享年23歳。

鹿児島宇宙空間観測所

 鹿児島宇宙空間観測所は、文部科学省宇宙科

学研究所の附属研究施設です。

 元々は、1962年(昭37年)に東京大学生産技

術研究所附属機関として設置されました。1964

年(昭39年)には東京大学宇宙航空研究所の付

属施設となり、1981年(昭56年)4月から宇宙科

学研究所附属施設となっています。

 ここでは、科学観測ロケットおよび科学衛星の打

ち上げ並びに、それらの追跡とデータ収集などの

業務を行っています。

 1970年(昭45年)2月11日、日本最初の人工

衛星『おおすみ』が打ち上げられたのが、この宇宙

観測所です。以来、合わせて25機ほどの衛星・

探査機が打ち上げられています。

 打ち上げの際の振動・音は、約4km離れた内之

浦町の町中でも凄いものだそうです。毎回の打ち

上げの時は、内之浦町には多くの見物客が訪れ

ます。

 観測所内は無料で自由に見学することができま

すが、さすがにロケット打ち上げ日当日は見学出

来ないのではないでしょうか?(未確認・・・)

●施設

 写真上(↑):こんな大きなパラボラアンテナがあ

 ります。これは直径20mのパラボラアンテナ。

 「マーカライトファープ」ではありません。(^^)

 とにかく敷地は広大です。バイクか車でないと回

るのは大変です。坂道だらけなので自転車でも1

日がかりになります。

 広い施設にある組立施設や巨大なパラボラアン

テナを見ているだけで、どこかの秘密基地かウル

トラ警備隊基地かと思ってしまいます。(^^)

◇パラボラアンテナ

 敷地内には直径10m、20m、34mのパラボラ

アンテナが建っています。頂上にある直径20mパ

ラボラアンテナまで行きましたが、直径20mとは

いえ、その巨大さには驚きます。

◇KSセンター

 標高276mの地点にあるKSセンターは、S52

0、S310、MT135型観測ロケットの発射台地で

す。組立室で組み立てられたロケットは、ランチャ

ーに載せられてドームへ移動し、ドーム内で発射

姿勢を取って発射されます。

 発射台は広大なコンクリートの広場。バイクの練

習にちょうどの広さです。中央にレールがあって、

組立室から発射台に延びています。

 下の写真(↓):M−3S型ロケット。

◇Mセンター

 大型ロケットの打ち上げ場所となるMセンターに

向かうには、受付(正門)を一度出なくてはなりま

せん。Mセンターは標高210mの地点にあり、ロ

ケット組立室、整備センター、Mロケット発射装置

およびL(ラムダ)ロケット発射装置が設置されてい

ます。こちらはロケット打ち上げ基地という雰囲気

がします。

◇レプリカ

 各所にはロケットの実寸大のレプリカが展示され

ています。MVロケットのレプリカは巨大で、うちの

ZRX1100がめちゃ小さく見えます。(写真参照)

 日本初の人工衛星『おおすみ』の打ち上げ記念

の記念碑もあります。 

●M−Vロケット

 全備重量約139トン、全長30.7m、直径2.5

mの全段固体推進剤使用の3段式ロケットで、低

高度軌道に約1.8トンの衛星を納入する能力を持

っています。

 1997年(平9年)2月のスペースVLBI衛星「は

るか」を始め、日本初の火星探査機「のぞみ」を打

ち上げました。これからも主力ロケットとして衛星・

探査機を打ち上げる予定だそうです。

●宇宙科学資料館

 宇宙科学資料館(入場無料)では、日本の宇宙

科学開発の歴史を、豊富な展示物で紹介していま

す。階上から階下へと、螺旋階段を下りながら見

学して行く作りになっています。

●鹿児島宇宙空間観測所

◇場所:鹿児島県肝属郡内之浦町

               п@0994−67−2211

◇見学可能期間

  年末年始を除く毎日。打ち上げ日は見学できる

  かどうかは不明。(要問い合わせ)

◇見学可能時間 8:30〜16:30

◇入場料:無料

◇交通

>バイク・車

 鹿屋、志布志よりR220で大崎町へ。同町からR

448を大根占町に向かって約30kmです。

>バス

 鹿児島空港、ならびに垂水港よりバスにて鹿屋

バスセンターへ。鹿屋バスセンターからタクシー利

用となります。

 鹿屋〜内之浦間のバスもありますが、1日4〜6

本と本数が少ないので注意して下さい。

○問い合わせ先

鹿児島交通

 鹿屋バスセンター п@0994−42−3131

2002年4月14日(日) 【大阪南港かもめ埠頭→自宅:24km】

 午前6時頃起床。ふらっと甲板に出ると大阪湾を北上している最中だった。東の空から朝日が昇ってきた。今日も晴れそうだ。

 午前7時40分、フェリーは大阪南港かもめ埠頭に到着した。いつものごとく、トラックが下りてからバイクが下船。8時前にFTをバイクで出発する。後は自宅に向かうだけだ。

港の広い道路を何の気無しに走る。飛ばす気もなくゆっくりと走る。とある交差点にさしかかると赤信号に変わったので停まる。 するとめちゃくちゃ油(ガソリン)臭い。頭がクラクラしそうになる。バイクからガソリンが漏れているのかと思ったがそうではなさそうだ。周囲にある工場か

らの臭いだろうと思った。信号が青に変わったので走り出す。すると後輪がいきなり滑った。それもかなりの横滑り。全くグリップが効かない。まるで油の上を走っているような感じだ。(実際そうだったのだが・・・)

 バイクに乗り始めた頃ならいざ知らず、かれこれ8年弱バイクに乗っているしあれこれ経験を積んでいたのが幸いした。ブレーキは一切使用せず、動揺を抑えつつクラッチ操作とチェンジだけでかなりゆっくりと慎重に減速して路肩に停車。トラブルにも焦らずに冷静に対処できた。成長したなぁ・・・

 で、振り返ると交差点内の路面に10mほどガソリンが撒き散らされて広がっていたのだ。どこかのアホがまいたのだろうか?事故なら事故処理に来た警察が見つけて処理しているはず。後ろを走っていた鹿児島ナンバーの軽自動車(同じ便に乗っていた)も停まり、ドライバーが下りてきた。私と同様、発進しようとしたらハンドルを取られてヒヤリとしたそうだ。

 それにしても信号が赤で助かった。青だったら何も知らないまま50k/hぐらいで交差点に進入していただろう。その時点で間違いなく転倒していた。後ろに車が走っていたら・・・ 私のバイクライフが終わりを告げ、このレポートが最後のバイクツーリングレポートになっていたかも知れない・・・(^^;) 何が幸いするか分からない。

 タイヤを確認するとガソリンが表面にしみこんでいた。阪神高速にのるまでに、低速で蛇行運転を続けてタイヤの表面を削る。端から見たら『なにしとんのじゃ?』と思われただろう。

 そんなことがあったのでかなり慎重になって走る。南港から阪神高速湾岸線を走って南下。走り慣れた道だ。助松出口で下りて自宅に向かう。現実に戻ってきたのだ。午前8時40分頃に自宅に到着。7日間の九州ツーリング2002は無事に終了した。

【九州ツーリング2002 終わり】

つうりんぐれぽぉと