東北&北海道TOURING 2003

 

 今年は病状が悪化。『東北&北海道症候群(U型)』と自己診断しました。『U型』とは「東北を重点的に走りたい」という衝動が強いタイプの症状で、東北を数回訪れたことのあるライダー、特に東北とは距離的に遠くアクセスの便が悪い関西地区のライダーに比較的多く見られます。

 この年の9月から長期出張を控え、帰阪後の東北&北海道ツーリングは困難となれば、より一層思いは強くなるばかり。これは、やはり治療しないと・・・

 はい、行ってしまいました。長期出張の準備もそこそこに、約1年ぶりの東北&北海道ツーリングへ。さぁ、思い残すことなく走り回ろう!やれやれ・・・┐(´-`)┌

ツーリング期間:2003.08.29〜09.06

2004.11.22 UP

☆彷徨う管理人

 2002年9月のツーリングは、規制で通行不可能となる乗鞍スカイラインを走るために信州ツーリングとなった。2年ほど北海道を走っていなかったので、今年はどうしても走りたくなっていた。

 ところが管理人@あめふらしは、9月中旬よりの約1月半に及ぶ沖縄県への長期出張が決まっていた。沖縄から帰って来るのが10月下旬頃。それから北海道にバイクで行くのはちとしんどい。東北限定にするには少しもったいない。来年(2004年)はバイクで渡道出来る可能性は低いのは分かっているので、どうにかして今年(2003年)に東北と北海道を回れないものか・・・。

仕事そっちのけで考える。

 ・

 ・・

 ・・・(思考中)

 ・・・・

 ・・・・・

 ああ、なんだ。簡単やん。

 

 沖縄に行く前に東北&北海道に行けばいい。ヽ(゚∀゚)ノ

 

 なんと簡単な結論なのでしょう。沖縄長期出張前に帰ってくるように、東北&北海道ツーリングを企画することに。もう何でもあり。(^^;) 仕事の調整をさっさと済ませ、8月末からのツーリングを企画し準備に取りかかる。それと平行して沖縄長期出張の準備も行う。8月盆休みも返上して準備を済ませ、8月末を迎えた。

 

 仕事?何それ?

( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \

☆2003年8月29日(金)

◆自宅→敦賀FT/◆天気:曇り一時雨(大阪南部)→晴れ(敦賀)

◆走行距離:220km

●天候不順

 この年の8月、盆を過ぎてからの大阪の天候は不順だった。出発前日の28日はそう悪い天気ではなかったのだが、日付が変わった29日午前2時頃から雷雨となった。大雨の中の出発かとあきらめたが、朝5時半に起きるとパラパラと降っている程度で、やがて雨も上がり晴れ間も見えてきた。どうやら晴れそうだと安心して朝食を食べる。

 朝食後、ガレージでパッキングを始める。自宅に住み着く野良猫の子猫2号が好奇心一杯に寄って来てじゃれついて来た。こいつは全く警戒心のない野良猫らしくない野良猫だ。荷物固定のバンドにじゃれつく。危ないぞ〜。

 ふと気が付くと、空に雨雲が広がってきていた。ほんの10分前は雲の切れ間から太陽が見えていたのに・・・。しばらくすると大雨に。何なんだ、この天気は?またもや『あめふらし』の異名通りか? しばらく待ってみるとやむ気配がない。主発時刻が迫ってきたので、雨具を着始める。朝とは言っても気温はすでに28度はあるし蒸し暑い。プロテクターをつけてジャケットを着ると瞬く間に汗だくになった。

 7時過ぎに自宅を出発する。雨は小降りになっていたが、いつまだどこで降り出すか分からないので、雨具を着たままの出発となった。目指すは福井県敦賀の敦賀FTである。

●雨→曇り→晴れヽ(`Д´)ノ

 堺ICより阪和道に入り北上する。雨はやんだが路面は濡れており、横を通り抜けるトラックなどによって巻き上げられた雨が水滴となってシールドにもろにかかる。雨上がり直後の高速走行は厄介だ。しかし東大阪辺りまで来ると路面は乾いていた。雨の降った形跡は全くない。大阪南部だけの雨だったのだろうか?

 名神に入る。8時過ぎには京都南IC付近を通過。京都は晴れ。青空の下を雨具を着て走っているのはいかにもおかしいのだが、朝通勤時の渋滞により予定よりペースが遅れているので、止まらずに時間を稼ぐことにする。9時過ぎに米原JCT通過。止まると蒸し暑いのだが走っている間は風があるのでどうにか我慢できる。

 ところが木之元IC手前でエンジン音に異常が発生。ガス欠の余寒。賤ヶ岳SAまで保つかと思って、多賀SAは通過したのがまずかったようだ。リザーブに入れて、少し冷や冷やしながら走り続ける。9時20分頃に賤ヶ岳SAに到着。まずやることは雨具を脱ぐことだ。自宅から約190km。2時間もの間、蒸し風呂状態だったのだ。

 賤ヶ岳SAのGSで給油して出発。雨具を脱いだのでかなり涼しいが、それを差し引いても空気自体がヒンヤリとしていて涼しい。琵琶湖を越えて日本海側まで来ると、気温自体が数度違うのだろう。

 敦賀ICで下りる。あとは一般道路を走って敦賀FTに向かう。するとFT直前になって小さな雨雲があった。その下に入ると局所的な小雨が・・・。雲を抜けると雨はやんだのでほとんどぬれなかったが、この日は局所的に雨というおかしな天気だった。

●敦賀FT

 10時頃に到着後、ターミナルで乗船手続き。受付カウンターのね〜ちゃんが色白で美人だった。ヽ(゚∀゚)ノ ここまでの疲れも吹き飛ぶってもんです。

 バイク待機場に移動すると、すでにCRM80に乗る大学生ライダーが待っていた。私の後に秋田に向かうアメリカンバイクに乗った学生さんがやって来た。乗船開始時間までにやって来たライダーは、この3人だけだった。小樽直行便と比べると利用するライダーの数は少ないのだ。

 10時45分、乗船開始。車両甲板はガランとしている。北海道に向かうフェリーとしては少し寂

しい気がする。この後、2台のバイクが来てバイクの積み込みは終わる。ライダーは合計5人だけだ。

 11時15分、フェリーは定刻通りに敦賀FTを出航。一路新潟FTを目指す。

【写真】:敦賀FTにて。バイク待機場のバイクは2台だけ。この後もう1台やって来た。

●新日本海フェリー(往路)

 ここ数年長距離フェリーでは2等寝台を予約している。雑魚寝ルームでは眠れないのだ。船内でCRMライダーに会ったが、彼曰く『北海道行きの部屋』(行き先によって部屋が別れている)は、彼一人だけでガラガラだそうだ。時期を外した平日はこんなものだろうか?

 フェリー内ではやることはほとんどない。地図を見てルートを考えるぐらいだが、それとて長時間すると飽きてくる。風景を眺めても海ばかりなので、これもすぐに飽きてしまう。ならば船内をウロウロ歩いてみるが、何度か利用しているフェリーなので構造は分かっており、一通り歩くとこれまた飽きてしまう。結局、寝るしかやることがないので、ベットに戻って寝ることにした。

 2時間ほどで目が覚める。体が冷え切っていたので風呂に入る。風呂の窓からは赤い近海郵船フェリーと敦賀行きの急行便の姿が見えた。風呂に入りながらフェリー同士のすれ違いを見るのもなかなか良い。

 やがて日没を迎える。18時頃からフェリーのレストランで夕食。食後、テレビの天気予報を見るが明後日辺りの天気がやばそうな感じだった。

 23時頃にフェリーは新潟FTに到着。つい先日まで北朝鮮の『万峰望号』という客貨船が隣の埠頭に接岸していた。いろいろと話題になっていたが、すでに出港しており姿は見えなかった。例え接岸していたとしても夜なので見えなかったのだが。

 FTへの接岸後、甲板に出て荷物の積み込みや、バイク・車の乗船風景を見物する。30分ほどぼけ〜と見ていたが、寒くなってきたので自室のベットに戻り、積み込みの音を聞きながら眠りに

ついた。明日はいよいよ東北上陸である。

【写真中】:日本海を北に進んで行く。快晴だ。窓越しに撮影しています。

【写真下】:新潟FT。停泊中に撮影。まだ下りたことはない。

☆2003年8月30日(土)

◆秋田FT→青森県蟹田町/◆天気:晴れ

◆走行距離:385km

●秋田到着

 朝4時半頃に目が覚めた。海は荒れているようで、船が揺れているのがよく分かる。5時に起床して顔を洗う。窓から外を見るが真っ暗で何も見えない。晴れているのかどうかも分からない状態だ。ベットに戻って荷造りを行っている間に日の出を迎えた湯だ。午前6時、フェリーは定刻通りに秋田FTに接岸する頃には少しずつ明るくなってきていた。

 車両甲板に下りてみると、バイクは10台ぐらいに増えていた。昨晩の新潟港から結構乗って来たのだ。そのほとんどは秋田ではなく苫小牧東行き。関東周辺から北海道に向かう人達のバイクだった。車両甲板でパッキングを行っていると、昨日朝に会った学生さんと再会する。彼は秋田の親戚の家に向かうそうだ。無事を祈って挨拶して別れる。

 タラップを下ってFTに下りる。2001年秋以来、約2年ぶりの東北上陸である。第一印象は『寒い』である。空気がさわやかで、大阪のように湿気がなくジメジメしていないのは良いのだが、気温が約15度しかない。大阪が30度以上の気温だったので、半分の気温となる。いかに大阪が

蒸し暑かったかが分かる。日が上がればもう少し気温は上がるだろうと思い、そのまま着込まずに秋田FTを出発した。

 秋田市街に移動。最初はR7に入って北上しようかと考えたが、トラックが多いのが嫌になり秋田道で北上することにした。秋田市街を突っ切ってr56〜r71経由で秋田北ICへ。ここまで走って来て体がすっかり冷えてしまった。高速走行に入るので、長袖のTシャツを一枚着込んでから高速に入った。

 2002年(平14年)9月28日に秋田道昭和男鹿半島IC〜琴丘森岳IC間(20.7km)が開通。これにより、02年3月30日に暫定開通していた琴丘森岳IC〜能代南IC間(17.1km)が本道と直結。秋田北ICから一般道に下りずに能代の近くまで移動出来るようになっていた。

 秋田道に入る。早朝だったので交通量は皆無に近い。ほとんど貸し切りという状態の高速道路を北上して行く。ところが下船前に船内で飲んだジュースが効いたのか、腹が緩くなってきた。こりゃいかんと、八郎潟PAに入り便所休憩。事なきを得る。PAから少しだけ見える八郎潟を眺め、再び秋田道を北に向かった。

【写真中】:秋田FTにて撮影。

【写真下】:PAでちらりと見えた八郎潟。

●R101

 秋田道を下りてR7で能代市街に入る。市街にある芝童交差点には7時過ぎに到着。ここからR101に入り、R101〜R339の日本海沿いを通る国道を北上して竜飛崎を目指す。R101は市街を抜けて北に進むに連れて徐々に海岸沿いの小さな町を繋ぐローカル国道となって行く。道と平行してJR五能線が走っているが、列車の運転時間帯とは合わなかったようで、海岸線をのんびりと走るディーゼル列車を見ることはなかった。 

 R101を30kmほど北上すると青森県岩崎村に入る。青森県にはいるとR101は海岸線に近いところを進んで行く。アップダウンのある整備された2車線道なのでマイペースで走って行く。岩崎村の町を抜けると、ちょこんと突き出た小さな半島を海岸沿い走る。途中で青森県深浦町に入るとすぐに不老不死温泉がある。海岸にある露天風呂が有名な温泉なのだが、営業時間前だったので今回はパスする。

 深浦町深浦地区を過ぎると交通量が増え始めペースが落ちる。海岸線をひたすら走るため、同じような風景の中を延々と走っているように思えてくる。こうなると集中力が落ちてくるので、気

を引き締めなくてはならない。やがて左側に千畳敷と呼ばれる観光地が見えてきた。平らな岩が海岸一面にあって、岩の畳を敷いた様に見えることからこういう名前がついた。

 千畳敷を過ぎるとR101は進路を東に変える。鰺ヶ沢町を過ぎると内陸の水田地帯を通るようになり、海沿いから内陸の水田地帯へと、R101の沿道風景は大きく変わった。五所川原市街を抜けると南に岩木山を眺めながら淡々と進んで行き、やがて青森県浪岡町で再びR7と出会った。

【写真】:ここから青森県に入る。気持ちの良い快晴の日で、シーサイドランを満喫した。

●R339

 浪岡町から南に下って弘前市街へ向かう。しかしR7はトラックなどの交通量が多くて走る気になれない。浪岡ICから東北自動車道に逃れて高速道路で南下する。黒石ICで下りてR102で弘前市街へと入った。市街からR7を今度は北上。青森県藤崎町からR339に入って北上を開始する。五所川原からR339を北上しても良かったのだが、道ネタサイトのネタ集め旅でもあるため、わざわざ弘前市街まで下っての北上となった。

 R339は五所川原市市街まではリンゴ園や水田を通り、五所川原市街を抜けると青森県市浦村までローカル国道区間が続く。十三湖北岸付近は道東を思わせるような丘陵地帯を通り過ぎ、やがて日本海沿いに北上するようになる。R101と同じく日本海沿いに進んで行くのだが、R101とは違って少し寂しい雰囲気が漂う。

 青森県小泊村市街を過ぎると、R339は『龍泊ライン』と呼ばれる秘境地帯を進んで行く区間に入る。沿道には民家はなくなり、途中にある竜泊温泉という温泉旅館を過ぎると電柱すらなくなり人工物は道路だけとなる。道路左側には日本海が広がり、遠くに北海道の島影が見える。この日は快晴で実に気持ちよく走ることが出来る。淡々とマイペースで進んで行く。

 やがて道は急勾配・急カーブが連続するワインディング区間に入る。一気に標高を上げて行く。途中にある展望台『眺瞰台』で休憩。土曜日ということもあって結構混雑していた。展望台だけあって北海道の姿が良く見える。見えている陸地は松前半島だ。青空の下、こうもはっきりと見ることが出来るとは思わなかったので得した気分になった。

何もないR339を北上する。遠くに見える島影は

北海道。気持ちよく走ることが出来た。ヽ(゚∀゚)ノ

『眺瞰台』の石碑。道は陸上自衛隊第9師団の施

設大隊によって建設された。

展望台からの風景。右下に風力発電所が見える。

対岸は北海道松前半島。ほんとに近く感じる。

●R339階段国道

 『眺瞰台』を過ぎてR339のハイライトである階段国道へ向かう。日本の国道では唯一の『階段が国道』というユニークな場所なのだ。巨大な風力発電所横を通り、竜飛崎の石碑前を過ぎて14時過ぎに階段国道(上)入口に到着した。ここには1998年9月のツーリングで一度訪れている。約5年ぶりの再訪だ。その時は早朝と言うことで私以外に誰もおらず、果ての地の雰囲気を十分に堪能できた。

 ところが今では多くの観光客で混雑している。一瞬唖然とする。(゚д゚)ポカーン  この5年の間で観光地と化してしまったのだ。青森県三厩村の公式サイトにも『日本唯一の階段国道』として観光名所に一つに数えられているが、それにしても来訪者の数は異常だ。農作業に来ていた地元の方がおられたので話しかけてみると、数日前に某TV局(当時、青森県では放送されていなかた)の『トリビ●の泉』で紹介されたためらしい。放送後、観光ツアーで竜飛崎の碑を見た後ここに来るようになりに、訪れる人が激増したとか。テレビの影響力は凄まじいものがある。階段(上)入口では、『階段国道』と書かれたR339国道標識をバックに記念撮影する人が絶えなかった。

 そのうち出発するので静かになるだろうと、こちらは時間の制約がない身分なのでしばらく待つことにする。ところがまた1台別の観光バスがやってきた。見ていると階段を少しだけ下りて戻ってくる人が大半で、下まで下りる人はほとんどいないようなので中腹の元小学校跡でのんびりすることにする。

 元小学校の広場には公民館が建てられていた。その周囲には観光客の姿はない。のんびりと対岸に広がる北海道を眺めてしばし休憩。それから下半部の階段で階段(下)入口に下りて行く。階段の終点は集落内にある場所なので団体観光客の姿はない。旅行に来たカップルがいるだけだ。写真を撮ってくれと頼まれたので、ならばらと私も写真を撮ってもらう。(右写真) 三脚を立てる手間がはぶけた。

 階段国道の(下)入口付近では、集落の中を通る路地裏の路がR339となっていた。『コ』の字型に集落内を通り抜けると車道に出る。一説では、国道制定時のルート選定で担当者が現地を訪れず地図だけでルートを設定したために階段が国道となったそうだ。一時は取り消すという話も出たそうだが、三厩村が「観光資源となる」とかでそのままになったという。確かに今では観光名所となっており、その判断は正しかったといえる。

 バイクは階段(上)入口付近に止めてあるので、下まで下りてきたので、階段を上って戻らなくてはならない。下半分の階段は急で上ると結構つらいものがある。公民館で一休みして残りを登り切り、全長338.2m、階段数362段の階段を1往復して(上)入口についたときには汗だくとなっていた。

●竜飛崎も・・・ 。・゚・(ノД`)・゚・。

 観光バスの姿はなく、(上)入り口付近は静かだった。少し休憩し撮影してからすぐ近くにある展望台に向かう。山の稜線上にあり対岸の北海道を一望できる展望スポットだ。ここには、石川さゆりの『津軽海峡冬景色』の歌謡碑があって、ボタンを押すと大音量で歌の2番が流れる仕組みとなっている。調べると1995年夏頃に設置されたものらしい。98年の時は全く気がつかなかったようで、となりの『竜飛崎』の石碑だけ撮影しています。たまたま観光客がボタンを押して大音量で歌が流れたので、初めて存在を知ったのだ。

 この類のモノはあちこちにあり、有名な歌(演歌)で歌われる岬や峠でよく遭遇する。”音の流れる石碑”は設置に金がかかるため一部の場所にしかないので、土産物屋が大音量で流していることが多い。私はそんな場所が大嫌いで、静かに風景を眺めるのが好きなタイプなのだ。せっかく静かに風景を楽しみにきたのに雰囲気がぶち壊されるのが大嫌いなのだ。大音量で流すのではなく、各自が心の中で歌いながら見るのが良いのではないかい?

 こういう場所に来ると、いつも感じてしまう疑問だ。

【写真左】:右奥のが歌謡碑。6年前は気がつかなかった。

●青函トンネル記念館

 階段国道の後、すぐ近くにある『青函トンネル記念館』に立ち寄る。ここも98年9月に訪れているのだが、再度体験坑道に下りてみたくなり訪問してみた。しかし体験坑道駅に下りるケーブルカーの運転はすでに終了。残念ながら、体験坑道に下りることは出来なかった。(´・ω・`) ショボーン

 前回はゆっくりと見ることが出来なかった展示室を見ることにする。展示室を周り掘り出した岩石のサンプルや道具、青函TNの構造などの立体模型などを見学。映画室では青函TN建設の記録映画が上映されていた。上映時間が10分ほどなので見ることにする。室内は私一人だけ。貸し切り状態で映画を見た。

 某NHKの『プ□ジェクトX』でも放送されたのでご存じの方も多いかと思うが、24年の難工事の末に完成した青函トンネルは、英仏を結ぶドーバー海峡トンネルより長い全長53.85kmの世界最長のトンネルだ。いろいろな技術や新材料が開発され使用されている。ここでのノウハウは日本のみならず世界各地のトンネル建設技術に活用されている。改めて日本の技術力の凄さに驚く。

【写真右】:広大な駐車場は基地跡。工場や宿舎などが建っていた。山腹には『青函トンネル本州方基地龍飛』というパ

       ネルが残っている。

青函トンネル

●青函トンネル

 本州と北海道の間にある津軽海峡の海底下、お

よそ100mの地中を貫く海底トンネルです。

 青森県東津軽郡今別町浜名〜北海道上磯郡知

内町湯の里間の53.85kmの鉄道専用トンネル

は、世界一の長さです。(2004年現在)

 現在、トンネル内には吉岡海底駅と竜飛海底駅

の2駅が設けられています。この2駅は、もともと

は『定点』と呼ばれる、災害・列車火災時の消火施

設と脱出路として建設されたものを利用していま

す。

 大変珍しい海底トンネルの駅ですが、この2駅に

は全ての列車が止まるのではなく、指定された見

学を行う一部の列車しか止まりません。

●青函トンネルの歴史

 津軽海峡を海底トンネルで貫いて本州と北海道

を結ぼうという発想は大正時代末期頃よりあったよ

うです。当時は夢物語だったお話です。

 昭和時代に入って1939年(昭14年)に調査が

開始されますが、大東亜戦争(太平洋戦争)のた

め一時中断。終戦後の1946年(昭21年)より地

質調査が開始されます。

 1954年(昭29年)9月26日、『洞爺丸事故』が

発生。台風接近中、誤った気象情報で出航した青

函連絡船『洞爺丸』が、函館港沖で沈没。1155

名の遭難者を出しました。これはタイタニック号に

次ぐ、世界第二の海難事故でした。

 この事故をきっかけに海底トンネルの建設に拍

車がかかります。地質調査・いろいろな技術試験

などを行い、1964年(昭39年)より工事が開始さ

れます。

・1964年(昭39年)5月

 北海道側より調査斜抗掘削が開始。

・1966年(昭41年)3月

 本州側より調査斜抗掘削が開始。

・1967年(昭42年)3月

 北海道側より先進導抗の掘削開始。

・1970年(昭45年)1月

 本州側から先進導抗の掘削開始。

・1971年(昭46年)9月

 本格的な工事が開始。

 (同年11月に北海道・本州側で起工式を行う)

・1983年(昭58年)1月

 先進導抗が貫通。

・1985年(昭60年)3月10日

 本抗が貫通。(本抗の掘削は4月で終了)

・1986年(昭61年)9月:軌道(レール)締結

・1988年(昭63年)3月13日:営業開始

 

 この間、異常出水などの幾多の困難が起こりまし

たが見事に克服。犠牲者も多くでましたが、24年

かかって開通しています。

 開通後はJR北海道が管理。貨物輸送に大きな威

力を発揮していますが、残念ながら旅客数は減少

の一途をたどっています。

 新幹線規格で建設されており、将来的には新幹

線を通すようですが、北海道新幹線建設の目途が

経っていない状態で、当分は在来線のトンネルとし

て活用されるようです。

●青函トンネルのデータ(パンフレットより)

・トンネルの長さ:53.85km

(ドーバー海峡トンネルは49.2km)

・レールの長さ:52.57km(つなぎ目なし)

・掘削した土砂:663万立方メートル

(10tトラック98万台)

・コンクリート:147万立方メートル

(霞ヶ関ビル約3杯分)

・セメント量:847000t

(セメント袋を積み重ねると富士山の850倍分)

・鋼材:168000t(東京タワー42基分)

・使用火薬量:2860t

・最深部の圧力:10円玉に100kg

・働いた人:延べで1370万人

↑工事で使用されたトンネル掘進機。屋外にも工事

 で使用された機械が展示されています。

●青函トンネル記念館

 日本が世界に誇る海底トンネル『青函トンネル』の

構想から完成までの歴史を、わかりやすい展示パ

ネルや立体モデル、音や映像などで紹介していま

す。

 1階が展示ホールでいろんな資料を展示。2階に

も写真パネルなどが展示されているほか、シアター

で上映される短いドキュメント映画を大画面で見るこ

とができます。

>>体験坑道

 ここでは是非行って頂きたいのが『体験坑道』で

す。工事に使用されたケーブルカーを観光用に転

用。それを利用して地下140mにある、トンネル工

事の作業抗だった坑道まで下りることが出来ます。

 ちなみにケーブルカーは全長778mで『日本一短

い鉄道』とのことです。

 体験坑道では、掘削に使用された機械や器具が

展示さて、工事の様子を再現しています。係員の誘

導でそれらを見学することができます。

 ケーブルカーの運転時間は9〜16時までとなって

います。1時間に1〜2本運転されていますが、シー

ズン中は増発されます。詳しくは問い合わせて下さ

い。

 竜飛海底駅から記念館に上ってくるツアーもある

そうです。

◆開館期間:4月25日〜11月10日

◆休館日:開館期間中は無休

◆開館時間:9時〜17時

◆入館料:大人300円(小人150円)

◆体験坑道乗車券:大人900円(小人450円)

◆問い合わせ先

 (財)青函トンネル記念館

 пF0174−38−2301

●蟹田へ

 青函トンネル記念を出た後、R339に出て三厩村の町に向かう。竜飛からのR339は小さな漁村を繋ぐローカル国道。断崖下を進んで行く。海岸と崖の間のわずかな土地を道が通る。広い場所には小さな漁村があり、いかにも果ての地を通る道という雰囲気がする。

 16時半頃に三厩村の町中に到着。三厩港前付近がR339の終点となる。三厩港には対岸の北海道福島町を結ぶ東日本フェリー(三福航路)が発着していた。夏期のみの季節航路で乗る機会がないまま休航となってしまった。フェリーの来ない港は人気がなくガランとしている。『東日本フェリー』の錆びついた案内標が4年間の歳月を物語っているように思える。再びフェリーが発着する日が来ることがあるのだろうか・・・

 三厩からR280に入り、隣の青森県今別町からr14(県道今別蟹田線)で小国峠を越えて蟹田に向かってショートカットする。JR津軽線の単線線路と併走しながら進む。峠を越えると青森県蟹田町に入る。山を下るとr12(県道鰺ヶ沢蟹田線)に入り東へ向かう。やがて立派な鉄道の高架橋が見えてきた。JRの津軽海峡線だ。長大のコンテナ貨物列車が通過して行った。

 やがて蟹田町蟹田の町中に入り、17時過ぎに本日の宿泊先である中村旅館に到着した。気がつけばもう夕方。日の出直後から延々11時間ほど走りづめだった。今晩はゆっくりと休むことにしよう。

【写真】:蟹田市街のR280にて。

◆三福航路

 この航路は本州・北海道間の最短航路(約38km)で、本州と北海道を2時間弱で結んでいました。

 1965年(昭40年)に開設。青函トンネル工事関係の資材・人員などの輸送で活躍しますが、トンネル開通前後に休

航したようです。(資料がないので推測です・・) その後、東日本フェリーが1989年(平元年)に再開し、フェリー「つが

る」が就航。しかし1992年(平4年)に休止しています。

 その後、1998年(平10年)7月に7月・8月のみ運航の季節航路として再開。かつての淡路フェリーボートの「英鶴

丸」が改造されて就航しました。ところが早くも翌年99年(平11年)に休航。そのまま現在に至っています。(「英鶴丸」

は長崎に回航されて係船となりました。)

 その東日本フェリーは2003年(平15年)6月末に会社更生法の適用を申請。航路を再開できる状況ではなく、北海

道福島町は『三福航路』に参入する船舶会社を募集しています。航路再開への道のりはかなり厳しいようです。

☆2003年8月31日(日)

◆青森県蟹田町→青森県十和田湖町→青森県蟹田町/◆天気:雨のち曇り時々晴れ

◆走行距離:0km(バイクで移動せず)

●バイクはお休み

 昨晩は風呂に入り疲れを癒した後、23時過ぎには寝てしまった。朝5時頃に目が覚める。ところが外は雨が降っている。天気予報では、津軽地方は昼前まで雨だという。(´・ω・`) ショボーン 朝食前の午前7時半時点でも雨がパラパラと降り続いている。出かける気力が失せ、女将に連泊することを告げる。連泊決定・・・。

 晴れていれば下北半島に渡り走るという予定をやめて、明後日に予定していた八甲田周辺の温泉巡りを行うことにする。蟹田にはレンタカーがないようなので、青森まで出てレンタカーを借りることにした。

 本日はバイクでの移動はやめにする。早くも3日目でバイクから降りる。昔であれば小雨程度なら走っていたのだが、最近は億劫になって乗るのをやめてしまいがちになっていることに気づく。もう三十路半ば。歳喰ったなぁ・・・_| ̄|○

【右写真】:30日晩の夕食。1日ぶりのまともな食事。

●ローカル列車の旅 

 時刻表を見ると、蟹田駅8時26分発の『スーパー白鳥』がある。しかし準備をしている間に乗ることができなくなってしまい、9時9分発の普通青森行きに乗車することにした。

 宿を出て駅に歩いて行く。雨はまだパラパラと降っているので、コンビニで傘を買って駅に向かう。5分ほど歩くと蟹田駅に着く。まだ改札は開いていないので、待合所で20名ほどの乗客が待っていた。出発時間間近になって改札が開いて入場するようになっているのだ。大都市の鉄道に乗り慣れていると、地方に行ったときに時々戸惑うことがある。窓口で切符を買って開くのを待つ。

 8時40分頃に改札が開く。8時45分頃に三厩からのキハ40系2両編成の蟹田止まりの列車が到着する。ほどなくして青森方面より折り返し蟹田発青森行きの普通列車が入ってきた。車両は701系電車の5両編成。通勤輸送重視のロングシートの電車だ。

 ホームで写真を撮って乗り込もうとする。しかし扉は閉じたまま。実は乗客自らが扉横にある開閉ボタンを押して扉を開け閉めしなければならないのだ。乗客自らが電車の扉を開け閉めするということも、大都市では考えられない行為。初めての人は戸惑うことだろう。(出発時は車掌が扉を閉めます。) 見ていると乗り込む人はみんな扉を閉めている。『開けたら閉める』という当たり

前の習慣が見られる。冬場は閉めないとならないので当たり前の行為なのだろう。

 今日は日曜日ということもあって乗客は多い。青森に遊びに行くのにはちょうど良い時間の列車なので乗客は多く、車内には中高生の姿が目立っていた。車端部の向かい合ったロングシートを女子高生らしき4人組が占拠している。やっていることはおしゃべりか携帯でメールを打つこと。服装も都市部と同じく今風の女子高生の私服。肌は色白で細くて美人系の子が多く、同じような服装でもこちらの方がかわいく見える。ヽ(゚∀゚)ノ

 しかし津軽弁で話しているので何を話しているのかさっぱり分からず。他の人達も津軽弁で話しており、「ここは青森なんだな」と実感できる。地元の雰囲気を知るにはローカル列車に乗るのが手っ取り早いのだ。

 蟹田を出発した列車は一つ一つ駅に止まって乗客を拾って行く。青森に近づくにつれて雨はやんで晴れてきた。予報は外れてしまったようだ。やれやれ。まぁ、こういのもたまにはいいか。

 JR津軽線は単線なので、いくつかの駅で対向列車の通過待ちなどをしながらのんびりと進んで行く。ガランとした青森運転所の脇を通過すると終点は近い。9時53分、青森駅に到着した。

【写真】:蟹田駅での701系電車とキハ40系気動車。東北のローカル線も立派になりました。

●雪中行軍遭難の地

 青森駅の『駅レンタカー』で車(デミオ)を借りて10時15分頃に出発する。混雑する青森市街を抜けてr40(県道青森田代十和田湖線)に入り、最初の目的地である『雪中行軍資料館』に向かった。しかしあるのは工事用防護壁のみ。看板によると同資料館は旧陸軍墓地「幸畑墓苑」共々、公園として再整備するとかで来年の2004年7月まで工事中だとか。残念。(資料館は200

4年7月22日にオープンしています。)

 資料館をあきらめてr40をそのまま進んで行く。道はすぐに急勾配の上り坂となり2車線ワインディング道路となって山中を進んで行く。小峠・大峠と、雪中行軍遭難の舞台となった峠も、今で

は車道が整備されて車で簡単に越えて行くことが出来る。11時少し前に、R103とr40を結ぶ火箱沢林道(舗装路)との交差点付近にある「銅像茶屋」に到着する。

 ここには「鹿鳴庵」という小さな資料館が併設されているのだが、そこには後で訪れることにして、まずは『雪中行軍遭難の地』に向かうことにする。丘の頂きに向かう遊歩道の左側、茶屋本屋の裏側にある少し急な斜面に『雪中行軍遭難の地』という碑が建っている。夏場は単なる草地なのだが、真冬は数mもの雪が積もる極寒の地となるこの場所で、今から100年少し前の190

2年(明治35年)1月末に訓練のために雪中行軍を行った帝国陸軍部隊が遭難したのだ。参加人員210名中生存者は11名(救出された者は17名で、救出後6名死亡)で、死亡者199名という山岳遭難史上例を見ない大惨事であった。この事件をモデルとして『八甲田山』という映画が制作されている。

 遊歩道を歩いて行くと丘(?)の頂きに着く。ここには雪中に直立したまま仮死状態で発見された後藤房之助伍長の銅像が、八甲田の山々を背景に建っている。後藤伍長は、遭難してから4日後の1月26日に神成大尉(発見されたが死亡)の命令で状況を知らせるべく、田茂木野村に単独で向かうものの遭難。翌27日午前10時頃に胸まで雪に埋もれて直立状態のままで捜索隊に発見された・・・。

 この銅像は発見当時の姿だそうだ。銅像は八甲田山での雪中行軍の事実を後生に伝えるべく、1904年(明37年)10月に造られたもの。両手で銃を持ち進もうとしている姿は、命令を果た

すために果敢に雪中を進んで行こうとした様子がうかがえる。約100年前の出来事を知ってか知らずか、家族連れやカップル達がやって来ては、この銅像前で記念撮影して去って行く。一観光地となった記念像であった。

 遠足らしき中学生の集団がやってきたので茶屋に向かう。茶屋には「鹿鳴館」という雪中行軍の資料館が併設されている。ここは小笠原孤酒氏という方が集められた、行軍に関する資料の内400点が展示されている。入口近くには最後まで生き残った小原忠三郎伍長が使用されていた義手と義足が展示。その先には関係者の写真や経歴など、さらには当時の陸軍の装備や制服、雪中行軍に参加した方々の遺品があり、さらには捜索時の記録写真などなど貴重な資料があった。写真は悲惨そのもの。その奥にあったテレビでは、映画『八甲田山』が映し出されていた。

 大惨事であったことが100年経った今でも伝わってくる。そういう小さな資料館だった。

【写真上】:最初に訪れたのがここ。駄菓子菓子、ご覧の通りでした・・・_| ̄|○

【写真下】:後藤伍長の銅像。ここで発見されたのではなく、大滝平という所で発見された。

☆雪中行軍隊の遭難 〜八甲田山の悲劇〜

●後藤房之助伍長の銅像

 帝国陸軍歩兵第5連隊雪中行軍記念像。1904

年(明治37年)10月、当時の寺内陸軍大臣などが

発起人となって東京砲兵工廠にて鋳造された銅像

です。彫刻は大熊氏広氏。

 竣工はおりしも日露戦争中だったので除幕式は行

われず時期をみて延期されました。日露戦後の19

06年(明治39年)7月に、軍・民・官と遺族ら多数

参列のうちに盛大な除幕式が行われました。

 モデルは遭難の事実を伝えるべく、神成大尉の命

を受けて田茂木野に向かった後藤房之助伍長。発

見時の直立状態の姿です。

 銅像は遭難地一帯と青森市街の街の明かりが見

える馬立場の山頂に建てられました。

 なお後藤伍長は、銅像が立つ位置で発見された

のではなく、ここから2kmほど青森市街方向の大

滝平という場所で発見されています。

●小笠原孤酒

 この方がいなければ、この遭難事件の真相は世

に出なかっただろうと言われています。

 きっかけは、1965年(昭40年)に陸上自衛隊第

5普通科連隊が、冬期訓練で旧軍の雪中行軍の行

程をたどるということを知ったこと。ここから旧軍の雪

中行軍についての調査が始まります。

 借金をしながらも取材を続け、行軍のルートを辿っ

たり、遺族に会って話を聞き出します。最後の生存

者である小原氏を捜し出しのは小笠原氏で、3度に

渡る取材を行っています。また小原氏が逝去された

時、遺骨を抱いて青森に帰り、幸畑の陸軍墓地に

分骨埋葬したのも小笠原氏でした。 

1970年(昭45年)7月、調べ上げた資料をまと

めた『吹雪の惨劇(第一部)』を自費出版にて刊

行。新田氏の小説が発表された後、74年(昭49

年)に『吹雪の惨劇(第二部)』を自費出版にて刊行します。

 しかし新田氏の小説や映画の一件から自分の

やって来たことに疑問を感じたことで作業は中断。

病気を患ったこともあり、制作意欲は薄れていきま

す。

 それでも第三部の原稿をほぼ完成するまで書き

上げますが、費用がないため出版できないままと

なりしました。

 そして1989年(昭63年)8月逝去。享年63歳

でした。

 五部構成で刊行する予定であった『吹雪の惨

劇』は、第二部まで刊行しただけで終わりました。

しかしこの本は、アメリカ国立図書館など海外3つ

の図書館で蔵書として採用されています。現在で

も『銅像茶屋』で購入することが出来ます。

●雪中行軍の遭難

 遭難事件のまとめは、長くなったので別項でまと

めました。>>こちら

●小説と映画

 遭難事件は、新田次郎著の『八甲田山死の彷

徨』(1971年発表)で初めて世の中に知れ渡るよ

うになりました。小説は小笠原孤酒著の『八甲田

連峰 吹雪の悲劇』を基にして史実にしたがって書

かれた小説です。

 遭難事件をさらに有名にしたのが映画『八甲田

山』(1977年公開)。この小説を映画化したもの

で、世間に衝撃と反響を引き起こしました。

 福島大尉→徳島大尉、山口少佐→山田少佐、

神成大尉→神田大尉というように、映画中での登

場人物の名前は変えてあります。

 徳島大尉を高倉健さん、神田大尉を北大路欣也

さん、山田少佐を三國連太郎さんなど、日本映画

界のビックスターが演じています。

 撮影は実際の吹雪の中で行われ、過酷な撮影

ロケだったそうです。

 他に丹波哲朗さん、藤岡琢也さん、大滝秀治さ

ん、加山雄三さん、菅井きんさんなどが出演されて

います。

 なお、小説はあくまでも物語で事実とは違ってい

ますこの小説と映画が事実ではありません。

●鹿鳴庵

 馬立場にある『銅像茶屋』に併設している雪中行

軍資料館。小笠原氏が取材の過程で収集した膨大

な数の資料・遭難兵士の遺品などのうち、およそ

400点を展示しています。

 こちらの資料はご遺族から提供された、遭難兵士

の方々の遺品ということで、100年ほど経った今日

でも生々しく事件の惨劇を伝えているような気にな

ります。

 なおパンフレットの紹介文は「小笠原孤酒 謹書」

と書かれています。

 

◆開館時間 8〜17:30(11月は17:00まで)

◆開館期間 5月〜11月上旬

 冬期は積雪のため休業。期間中は無休。

◆入場料 200円

◆問い合わせ

пF017−728−1411『銅像茶屋』

>>注:開館時間と期間は銅像茶屋のもの。記録す

    るのを忘れました・・・m(_ _)m

★八甲田山

 八甲田山という山は実在しません。八甲田大岳を

主峰として、前岳、赤倉岳などを含めた8〜10峰を

合わせた八甲田連峰のことを総称して『八甲田山』

と言っています。

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>>つーりんぐれぽーと