>>その2

>>東北&北海道TOURING2003 その3

☆2003年9月3日(水)

◆北海道函館市→亀田郡恵山町→山越郡八雲町→爾志郡熊石町→山越郡八雲町→虻田郡ニセコ町

◆天気:晴れ時々曇り/◆走行距離:345km

●函館の朝

 当初の予定では青森発函館行きの東日本フェリーの夜行便に乗船するつもりだった。ただこれだと雑魚寝ルームで4時間ぐらいしか寝ることができなかったはずである。昨晩は宿の温泉に入って布団でぐっすりと眠ることが出来た。疲れがかなり取れた。函館出発が2〜3時間ほど遅くなるが、やはり布団で寝たいという願望が強くなったのは歳を喰った証拠か?(^^;)

 午前6時に起床。フェリーで移動していれば、すでに走り出している時間だろう。昨晩23時頃より降っていた雨は、朝になるとやんでいた。今日は晴れるそうだ。ヽ(゚∀゚)ノ 朝食後にパッキング。その後、宿の主人と雑談して8時過ぎに出発する。

 世間は平日。函館市街は通勤・通学の人達で混雑していた。道路は自転車や車で、バスや路面電車も人で混雑している。そんな中、荷物を積んでツーリングしている私は浮いていた。本来ならそちらの世界にいるのだが、そこから離れて別世界の住人になっているのた。

 函館駅前に行き、そこからR279を走る。下北半島を南北に縦断するR279だが、起点は北

海道函館市。函館港までの約2kmだけ北海道を走っているのだ。北海道区間を走破してR279も完走。今ツーリング3本目の完走国道となった。

 その近くに『北海道第一歩』の碑があった。この付近は「東浜桟橋」と呼ばれ、本州から北海道開拓を目指して渡道してくる人達(開拓団)が最初に北海道の大地に降り立った場所なのだという。明治後期、1910年(明治43年)に青函連絡船が若松埠頭に移るまでは使われた。その後は北洋漁業の船の発着に使用され、戦前まで桟橋付近は大いに賑わっていたそうだ。そんな大事な場所だったのだが、なぜか写真を撮影していない・・・。_| ̄|○ すでに関心は対岸に見える摩周丸に移っていたのだろうか。

【写真】R279を南下。真ん中を路面電車が走っている。

正面の山が函館山。

●摩周丸

 市内の道路を通って函館駅南西付近、旧若松埠頭付近に移動する。ここには青函連絡船として活躍した『摩周丸』を利用した『函館市青函連絡船記念館』がある。函館駅の南西付近、ちょうど昔の連絡専用岸壁に『摩周丸』が係留・保存されている。

 バイクを近くに停めてから『摩周丸』に近づく。今年(2003年)1月に函館ドックに入り化粧直しと整備が行われたとかで、船体は大変きれいだった。しばらく岸壁から『摩周丸』を眺める。船首から船尾方向に移動。函館駅の裏手にあたる場所で、かつてはこの付近にはレールがあって貨車が頻繁に移動していた場所だ。

 『摩周丸』は朝8時半から入場出来る。昨晩のニュースで入場者数が5万人を突破したという話題が流れていたので、見学客は多いようだ。見学するかどうか迷ったが、今回は時間の都合で外観だけ見るだけとし、またいずれ機会があれば訪れることにして現地を去った。

【写真】『摩周丸』とZRX1100とのツーショット。

函館市青函連絡船記念館 〜摩周丸〜

●青函連絡船記念館『摩周丸』

 『摩周丸』は1988年(昭63年)3月の青函航路

廃航後、メモリアルシップ『摩周丸』として第2の人

生を歩み始めます。その後、いろいろな経緯を経

て、2003年(平15年)4月19日より、函館市が運

営する『函館市青函連絡船記念館・摩周丸』として

リニューアルオープンしました。

 リニューアルオープン後、5ヶ月弱で入館者5万人

を突破するなど、観光スポットとなりつつあります。

●展示内容

 青森の『八甲田丸』のように、全フロアを公開して

いません。現在公開されているのは、船楼甲板(2

階)、遊歩甲板(3階)航海甲板(4階)の3フロアだ

けで、車両甲板(1階)と第2甲板(機関室)は非公

開となっています。

 残念ながら、あめふらし@管理人は『摩周丸』に

入館していないので、詳しい展示内容は分かりま

せん。m(_ _)m

 『青函連絡船記念館・摩周丸』のサイトや雑誌、

資料などによると、青函連絡船に関する資料・写真

パネルなどが展示されています。ブリッジも開放さ

れており、操舵室への出入りも可能ですが、無線

室には入ることができないそうです。

 聞くところでは、記念館となるときに必要最小限

の改修を行っただけなので、車両甲板はほぼ現役

当時のまま保存されているとか。88年3月の日付

が入った作業黒板などがそのままあるそうです。

車両甲板も公開して欲しいですね。

 現存する連絡船の中では、一番現役時代に近い

い姿で展示されています。 

●ご案内

◆所在地

 函館市若松町

 JR函館駅の南西側(裏手)の旧連絡船乗り場。

 函館駅から歩いて5分ぐらいです。

◆開館時間

 4月〜10月 8:30〜18:00

 11月〜3月 9:00〜17:00

◆休館日

 年末年始(12月31日〜1月3日)

◆入館料

 大人  500円/子供 250円

◆問い合わせ先

 青函連絡船記念館 пF0138−27−2500

 函館市観光案内所 пF0138−23−5440

●御崎温泉『浜の湯』

 函館市街からR278に入り亀田半島を海沿いに進んで行く。昨晩泊まった湯の川温泉街を抜けて函館空港近くを過ぎると、R

278は町を繋ぐローカル国道となる。淡々と小さな漁港町や集落を繋ぎながら進んで行く。亀田郡戸井町(現:函館市)にある汐首峠付近からは、対岸に下北半島の姿を見ることが出来る。本州〜北海道間最短距離となる場所で、ここに『津軽海峡大橋』を架けようと言う壮大な計画がある。

 日浦崎近くにある日浦TNを過ぎると、亀田郡恵山町(現:函館市)に入る。トンネルを幾つか抜け、10時半頃に道の駅『なとわ・えさん』に到着した。ここではハーレーに乗って、「ツーちゃん」という名の犬と共に日本一周ツーリングをしているという50歳後半か60歳前半ぐらいのライダーさんと出会う。今回が4回目とのこと。自作ザックに犬を入れて、のんびりとツーリングしているという。こういう旅も良いかもね。

 ハーレーを見送ってから私も出発。国道からそれてr685(道道元村恵山線)に入り、御崎温泉を目指す。途中で危うくカモメを轢きそうになりかなり焦った。御崎温泉「浜の湯」に到着してからも、しばらくは動悸が静まらなかった。

 さて「浜の湯」温泉は海岸にある無料の混浴温泉。ヽ(゚∀゚)ノ 集落の公衆温泉浴場だ。トタン屋根で出来た素朴な建物内にある屋内温泉。ちゃんと脱衣室も仕切られており本格的な作りだ。

 脱衣所で服を脱いで全裸で浴槽に向かうと先客がいた。地元のおばあさんだった。おばあさんは、突然現れた私に少し驚いていた。「おじゃまします」と挨拶して離れた端の方に入った。お湯

は透明で適温。足を伸ばしてくつろぐ。正面には窓があるのだが、海はテトラポットの間からちらほらと見える程度だった。黙っているのも何だったので、おばあさんに話しかけてみる。おばあさんはこの地区に住んでいて、隣の村(集落)から嫁にきたそうだ。この付近からほとんど出たことがないとのことで、大阪から来たと言ってもピンと来ないようだった。地元の言葉で話されるので、時々話している言葉の意味が理解できないこともあったが意思疎通は出来たように思う。(^^;)

 あまり長居できないので、15分ほどで温泉から出る。「もう少しゆっくりとしていけば?」とおばあさん。田舎では旅人には親切な方が多い。都会では”人情”といったものを見かけることが少なくなったので、旅に出て”人情”に触れるとうれしくなる。これも旅の醍醐味の一つだ。

 私と入れ替わりで、奈良に住むライダーと地元の漁師らしきおっちゃんが入っていった。さぞかし賑やかになったことだろう。ちなみに奈良のライダーさんは、これからひたすら地道のみを走って奈良に帰るという。いやはや、元気な方だった。

【写真】ここが「浜の湯」。地元の人が管理されています。

「入らせてもらっている」という気持ちで入浴しましょう。

●消える村名

 r685は岬付近が未開通で通り抜け出来ないのでR278に戻る。峠(?)を越えると亀田郡椴法華(とどほっけ)村に入る。初めてだと、とてもじゃないが『椴法華』が何と読むのか分からない。ローマ字表記をみてやっと『とどほっけ』と読める。難読地名なのだ。元々はアイヌ語の「トトポケ」という”岬の蔭”を意味する言葉から転化したものらしい。北海道にはアイヌ語をそのまま漢字表記した地名が多いが、ここもその一つなのだ。

 ところが残念なことにこの椴法華村は、2004年(平16年)12月1日に他の周辺3町と共に函館市へ編入される。函館市への編入後は『椴法華』という地名(村名)は使用されないため、残念

ながら地図上から消えてしまうことになる。学校名などにわずかに残るぐらいだろう。アイヌ語らしい地名で気に入っていたのだが残念で仕方がない。今進めている市町村合併で、日本各地で歴史ある地名が消えてゆくのが残念だ。

 銚子TNを過ぎると亀田郡南茅部町(現:函館市)に入る。この町も函館市に編入される。町に入ってから、R278は断崖下を通る道となる。落石から道路を守るため覆道区間が続く。すぐ右側は海で、場所によっては大波が来ればもろにかぶりそうな感じがする。どことなくR336『黄金道路』のような感じの道だった。

 茅部郡鹿部町までやってくると海岸線の近くを走る平坦な2車線道となる。北西方向には駒ヶ岳が見えてくる。鹿部町〜砂原町間のR278は駒ヶ岳の北東側をぐるりと回るので、進むにつれて左側に見える駒ヶ岳の姿が変化して行く。時折停まっては変わって行く駒ヶ岳の姿を撮影して行った。

 火山である駒ヶ岳は記録に残る上では、1640年(寛永17年)7月に大噴火を起こして以来、大小と何度か噴火を繰り返している。寛永の大噴火では周辺地域に大きな被害を出し、現在の出来潤崎ができあがり、大沼と小沼がほぼ現在の形となった。近いところでは1929年(昭和4

年)6月に大噴火、1942年(昭17年)11月に中噴火を起こし、もっとも最近では2000年(平12年)11月に小噴火を起こしている。今でも噴煙を出している活火山なのだ。そのおかげか、周辺には温泉や熱湯の出る間欠泉などが多い。

 そういった温泉などには入らず淡々と進んで行き、13時頃に茅部郡森町にあるR5との交差点に到着した。

【写真上】椴法華村の村名標識。サーファーのメッカでもあるので、鮭がサーフィンしています。

【写真下】北東側から見た駒ヶ岳。雲がかかっており噴煙は見えずらいですが、この日も噴煙が出ていました。

●道南最狭部往復

 茅部郡森町からR5に入り北西に向かう。道南と道央を結ぶ幹線国道なので交通量は大変多く、トラックや観光バスが目立つ。信号が少なく町と町が離れているので、交通量が多い割には車の流れは良い。R5は内浦湾沿いの海岸に沿って進んで行く。しばらく同じような風景が続く。

 山越郡八雲町からR277を西に向かう。どこかの大学の自転車部だろう、R277でやたらとチャリダーの姿を見かけた。雲石峠に着くと何人かが休憩していた。かなり急な上り坂なのでさぞ大変だっただろう。雲石峠を越えて爾志(にし)郡熊石町に入り、一気にR229交差点まで走る。交差点直前では道の正面に日本海が見えていた。

 これから日本海沿いに北上してニセコに向かおうと思って来たのだが、距離的に遠くなるため、宿の夕食に間に合いそうにない。ならばR5経由でニセコに向かうのが早いだろうという結論

に達した。行き当たりばったりの旅なので、こういう変更も多々ある。(^^;)

 R229〜R230経由でR5に戻ろうとも思ったが、R277経由より50kmほど余計に長く走らなくてはならないため、いま走ってきたR277を引き返すことにした。北海道から日本海を見るために、道南の最狭部を往復しただけとなった。

【写真】R229とR277交差点付近から見た日本海。

●R5快走

 R5に戻り北上を続ける。相変わらず交通量は多いが流れは良く淡々と走って行く。海岸線に近いためか、今日は海からの横風が吹いている。そう強くはなく流されることなく走って行く。

 長万部を過ぎると交通量は激減した。多くの車・トラックがR36に向かうからだ。二股ラジウム温泉へ向かう道を過ぎると、R5は峠越え区間に入って整備された2車線道で山中を過ぎて行く。15時台の時間帯なのだが、交通量はめちゃくちゃ少ない。幹線国道とは思えない交通量の少なさで、どちらかと言えばローカルの3ケタ国道のような状態だった。淡々と山中を一人で進んで行く。

 何台かのチャリダーを追い抜いて、16時過ぎに道の駅『くろまつない』に到着。ここで少し休憩。ここから先の目名峠越え区間もローカル国道のような状態の道が続く。アップダウンの続くワインディングを快走。目名峠を越えると磯谷郡蘭越町に入る。目名地区の町付近から平坦な道となり、r267(道道磯谷蘭越線)との交差点を過ぎると、尻別川に沿って進むようになる。この付近から交通量が増え始める。やがてトラックの姿が多くなり(というより追いついた?)、走行ペースが落ちる。

 JR函館本線の昆布駅を過ぎてすぐの交差点からr207(道道昆布停車場ニセコ線)に入る。尻

別川を渡ると、整備された走りやすい2車線道となる。坂を上りきるとr66(道道岩内洞爺線)との交差点に到着。ここを右折して少し進むと虻田郡ニセコ町に入り、さらに少し進んでニセコのスキー場前を通り過ぎる。そして17時過ぎに本日の宿であるとほ宿『旅物語』に到着した。

【写真】幹線国道とは思えないほどローカル国道だったR5を行く。

●とほ宿『旅物語』

 宿に着くと、送電線のトラブルが起こったとかで宿は停電中だった。そのためボイラーが使えず湯が出ないという。風呂の準備が出来ないため、今から宿泊者全員で近くの温泉に出かけるので準備してくれと言われた。バイクと停めて荷物を下ろして急いで準備をする。温泉セットを持って宿のバンに乗り込んだ。今日は私の他に3人の宿泊客がいた。常連らしい連泊客の他は初めてのようだった。かくいう私も『旅物語』には初めて宿泊する。

 向かったのは『黄金温泉』という温泉。ここは温泉の主人とその親父さんの2人が手作りで作っ

ている温泉だそうだ。至る所に手作りの感じがする温泉で、露天風呂は浴槽だけ完成していて

庭園が建設中だった。

 その露天風呂は冷泉状態だった。30℃ぐらいしかない。実は温泉の主人が今日は客が来ないと思いボイラーの熱を落としたからだった。我々が来たのでもう一度ボイラーを動かしたそうなのだが、暖かいお湯が出るまで時間がかかった。しばらく浸かっていると少しずつ体が温まってきた。いわゆる”半身浴”の様な状態だった。その状態のまま宿主達と世間話を兼ねて自己紹介などをする。こういう場所だとうち解けるのも早い。自己紹介などは宿でやるよりも温泉でやる方がいいのかも。

 内湯で体を温めてから宿に戻る。復旧工事は終了しており、宿には明かりが点いていた。ほどなくして夕食。とほ宿らしいボリュームのある食事だった。焼き肉などを男4人で黙々と食べる・・・。こういう日もあるさ。(´・ω・`) 

 で、食後すぐに宿主に「岩内の夜景を見に行こう」と誘われる。再びバンに乗って神仙沼の駐車場に移動。ここから真っ暗な遊歩道を歩いて行くと岩内の夜景を一望出来る展望台に着いた。街の明かりの向こうには泊原発の照明が見え、市街から北に向かうR229の照明の明かりが続いていた。これが結構きれいな光景だった。駐車場に戻り、今度は銀マットを広げて寝ころんで夜空を鑑賞。天の川まではっきりと見える。大阪では見ることが出来ない夜空だ。ところがこの日は風があって非常に寒く、長い間見ていることが出来なかった。そうそうに宿に撤退する。

 冷やしていおいた食後のデザートを食べた後、談話タイム。いろいろと世間話をする。ところが

宿主は明日朝から胃カメラをんまなくてはならないとかで、今晩から禁酒&絶食だとか。たまたま宿泊者の一人がお医者さんだったので、その手の話題になり盛り上がった。

 民宿・ビジネスホテル利用だったので、旅人との交流は久々で楽しかった。夜中の1時にお開き。部屋に戻り寝ることにした。

【上写真】とほ宿『旅物語』。宿主も現役ライダーの宿です。(9月4日撮影)

【下写真】宿泊者全員とヘルパーさんで記念撮影。久々の楽しい夜でした。

☆2003年9月4日(木)

◆北海道虻田郡ニセコ町→岩内郡岩内町→虻田郡倶知安町→虻田郡喜茂別町→苫小牧市→勇払郡厚真町

◆天気:晴れ時々曇り/◆走行距離:219km

●国民宿舎『雪秩父』

 朝6時半に起きる。今日で北海道を離れるのだが、離れるのが惜しくなるような快晴だ。朝食後、荷物をまとめてバイクに搭載する。昨晩一緒に泊まったお医者さんが出発して行く。バイクを砂利駐車場に出した頃に、朝食中に胃カメラを飲みに病院に出かけていった宿主が早くも帰ってきた。この後、宿主と家族に見送られて『旅物語』を出発する。

 昨晩同室だった群馬のTRライダーと一緒に走る。彼は初の北海道ツーリングだとか。「ニセコパノラマライン」を走って国民宿舎『雪秩父』に10時前に到着する。TRライダーと一緒に温泉に入ることになる。世間では平日で仕事が始まる頃だというのに、朝から温泉とは豪勢な身分である。(^^;)

 『雪秩父』には1997年9月のツーリングの時にも訪れている。6年ぶりの訪問だ。97年の時もフェリーで知り合ったライダーさんと一緒に入った。さて、温泉は内湯・露天風呂とも6年前と何ら変わっていない。ここの露天風呂が数種類あって、露天風呂だけで十二分に楽しむことが出来る。やや肌寒いが快晴の青空の下で入る露天風呂は実に気持ちがよい。ヽ(゚∀゚)ノ  他の入浴客は少なく、貸し切りに近い状態だった。

 『雪秩父』の泉質は単純硫黄泉(硫化水素泉)。正面にある大湯沼が源泉でそこから引いた温泉と、地下から引き上げている温泉がある。露天風呂は前者のようだが、かなり濃い泉質となっ

ており、浴槽の底には泥が溜まっていたりする。内湯は「かけ流し」で循環しようのない気持ちの良い温泉だった。これで入浴料500円(2003年当時)は安いものだ。大満足のあめふらしでした。

【写真】向かいにある『大湯沼』。硫黄泉が沸々と湧いています。ここが源泉だそうです。

●ニセコパノラマライン

 TRライダーは、これから日本海沿いにR229を走って北上。今日中に羽幌付近まで移動するとのこと。先に出発するTRライダーを見送った。「北海道に来た」というだけで、全く知らないライダーとこうして行動を一緒にするというのも北海道ツーリングの醍醐味だ。

 少し後の11時頃に私も出発する。r66(道道岩内洞爺線)こと「ニセコパノラマライン」は、整備された2車線ワインディングロ

ード。適度なアップダウンとカーブが続く快走道路だ。快晴の青空の下、山の緑の中を気分爽快に走ることが出来た。神仙沼を越えると日本海と岩内の市街が見えるようになると、あとは下り坂を一気に下って岩内市街へと向かった。

 市街にある道の駅『いわない』で休憩した後、R276に入って東へ向かう。R5と岩内市街を結ぶ幹線道路なので交通量は多い。流れは良いので淡々と走って行く。岩内郡共和町国富付近でR5に入るとトラックの姿が目立つ。淡々とR5を走って倶知安峠を越えると、虻田郡倶知安町に入りやがて町中に入った。

【写真】青空の下、「ニセコパノラマライン」を快走!ヽ(゚∀゚)ノ

●晴れ。局所的に大雨・・・

 倶知安の町中から再びR276に入り一路喜茂別町方面に向かう。2kmほど進むとR393分岐点に到着した。道ネタのネタ集めでR393に入り、通行できる端点まで走ってみる。農村地帯を結ぶローカル国道で、地元車を除けば走っているのは工事関係車だけの道だった。11kmほど進むと工事区間入口に到着したので引き返すことにした。 

 R393の途中からは標高1898mの羊蹄山を北側から一望することが出来るポイントがあった。そこで停まってZRXと撮影する。ところがR393に入るまで晴れていた空に、いつの間にか雨雲が広がってきていた。しかも撮影しようとした頃になると、パラパラと小雨が降り出す始末。今日は全道的に晴れでなかったのかい?気象庁。(゚Д゚)ゴルァ

 こりゃいかんと屋根のある場所に移動しようとR276に戻る。すると路面は乾いており晴れているではないか。雨が降った形跡は全く無い。遠くに見えるニセコ付近は晴れているので、局所的な雨のようだった。

 ならばと京極方面に向かって走り出すが、そこから500mほど進むと空は曇りだし路面は濡れていた。ついさっきまで雨が降っていたような路面状態だ。さらに少し進むと雨が降り出した。信じられないが雨なのだ。(゚д゚)ポカーン わずか1kmほど移動しただけなのに。

 雨はそう強く降っていないので、すぐやむだろうと思ってそのまま走り続ける。虻田郡京極町の町中に入ったところで、沿道にあったコンビニで停まって様子を見ることにした。

 私がコンビニに入ったすぐ後に、島根ナンバーのオフ車に乗ったライダーがやって来た。このライダーも雨の様子を見ようということで入って来たとのこと。このライダーは倶知安のキャンプ場にテントを張って拠点にしており、今日はぶらりとこの付近をツーリングしていたら雨に遭ったそうだ。軒下でそんな話をしながら空の様子をうかがっていた。

  雲は北西→南東方向に動いており、その雲が標高1898mの羊蹄山にぶつかって雨雲となって雨が降っているようだ。雨雲は羊蹄山の北〜北東側に広がっている。山の南西側は晴れているように見える。全く予期せぬ局地的な雨なのだ。それなら喜茂別町まで移動すれば雨はや

むだろうと思い、出発しようとしたら大雨が降り出した。ヽ(`Д´)ノ

 急いで雨具を持って駐車場の端にあった、何かの催し物開催のために設置されたテントの中に避難する。雨は強くなったり弱くなりながらも降り続く。コンビニに入ってから40分ほど経過。雨はやむ気配がない。島根ライダーと「こりゃ、やみそうにないですね。雨具着て出発しますか」と話し、雨具を出して着始めた。そして島根ライダーに挨拶して出発する。

 大雨状態の京極市街に出る。今回のツーリングで初めて雨具を着て雨の中を走ることになった。こうなると気分的に億劫になる。雨宿りで1時間近く時間を無駄に使ったのと雨の中を走っていることもあって、予定していた洞爺湖に寄るのをあきらめ、このまま苫小牧に向かうことにした。

 ところが町中から2kmほど走ると雨はやんだ。しかも路面は乾いてきており、すぐ先の空は晴れている。(゚Д゚)ハァ? 一体、どういう天気なのだ?

 『あめふらし』の異名通り、長距離ツーリングで一度は雨に遭わなければならないのだろうか?

【写真上】R393で羊蹄山をバックにZRXを撮影。

【写真中】羊蹄山の北側から撮影。雨雲が当たっているのがよく分かります。

【写真下】この付近で雨はやみました。路面は乾き始めています。

●苫小牧へ

 虻田郡喜茂別町まで来ると雨雲は無くなり青空が広がっていた。大雨が降ったとは思えないような良い天気だ。暑くなかったので、グローブを替えただけで雨具を着たままの格好で走り続ける。広島峠を越えてR453が合流。ほどなくして道の駅『フォーレスト276大滝』に入り休憩する。ここには観光バスを初め、観光客の車やツーリング中のバイクがたくさん停まっている。その中で雨具を着ていたのは私一人だけであった。(^^;) 雨具を脱いで楽になる。腹が減ったので食堂でラーメンを食べ、珍しく土産物を買って出発する。

 美笛峠を越えて下り坂に入り、やがて支笏湖湖畔を通る。交通量は多いが流れは良いので良いペースで走ることが出来た。途中の工事片側通行箇所で待っていると、4人組のおっちゃんが乗った車が隣に止まって、いきなり「和歌山からか?」と言われた。「大阪やで」と答えると「そうか。てっきり和歌山だと思った」と言われた。私のバイクは【和泉】ナンバー。『和』しか合ってしませんが? 少し話そうかと思ったが、列が動き出したのでそれっきりとなった。【和泉】ナンバーはあまり知られていないのかね?

 支笏湖沿いはアップダウンの続く快走2車線道。湖畔は20km以上に渡って民家はなく、ひた

すら樹海の中を突き進む。車列が詰まってきたので、途中で旧道に入り支笏湖湖岸に向かう。ライダーハウス『樽前荘』前付近の湖岸から、夕方の支笏湖を撮影する。『樽前荘』には10台近いバイクが停まっている。ここには1997年9月に宿泊したが、当時はまだ建て替え前の古い建物だった。今では立派な建物になっていて昔の面影はない。

 その奥には、とほ宿『ラップランド』のログハウスが建っている。ここには2001年9月に宿泊している。そしてこの宿に宿泊した晩(日本時間による)にアメリカの同時多発テロが発生したのだ。一生忘れられない出来事だ。ことある度に『2001年9月11日は支笏湖湖畔に居た』と思い出すのだろう。

 この後、R276に戻り苫小牧市市街へ向かう。R453が分岐するとR276は林の中をひた走る。北海道らしい直線道路が延々と続く。しかも約20kmもの間民家はないので、夜間走るときは大変寂しい道である。01年9月は大雨の中、この道を支笏湖に向かって走って行ったのを思

い出す。このときもかなり心細かった。

 交通量は少なく、15km程の間淡々と一人で走っていた。やがて道央道の高架橋が見えてきた。ここを過ぎると突然民家が現れ、なんの前触れもなく苫小牧市街に入った。高速道路が市街地と林の境であったような感じだ。市街地に入ると交通量はいきなり増え、幹線道路となったR276を3kmほど進むとR36との交差点に到着した。

【写真上】美笛峠にて。ご覧の通り快晴です。大雨に遭ったのが嘘のようです。

この時はTN内の工事のため片側通行となっていました。

【写真下】夕方の支笏湖。『樽前荘』前の湖岸から撮影。

●さらば北海道 (ノД`)

 苫小牧からは新日本海フェリーに乗って敦賀に向かう。北海道から帰阪するときは、いつも小樽港からの便を利用していたのだが、今回は初めて苫小牧からの便を利用する。新日本海フェリー乗り場は、東日本フェリーや太平洋フェリーなどの乗り場のある苫小牧港(西港)ではなく苫小牧東港にある。この苫小牧東港というのがかなり不便な場所にある。苫小牧市街のすぐ近くにあるのではなく、市街から約30kmも遠く離れた、苫小牧市の東隣にある勇払郡厚真町にあるのだ。

 何もないかも知れないと思い、苫小牧市街にあるコンビニでフェリーで食べるカップラーメンなど食料を購入。その後、道道を少し走ってから無料開放されている日高自動車道に入る。対向2車線道の高速道路で北海道の原野を突っ切る。これが北海道の見納めかと思うと少し悲しくなる。

 厚真ICで下りる。R235を鵡川方面に少し走るが沿道には何もない。小さな休憩所で引き返して苫小牧東港へ向かう。R235から港へ向かう道に入って驚いた。なんと沿道には何もない。民家はおろか自販機すらないのだ。フェリーターミナルに着くが、その周囲にもコンビニはもちろん

のことGSもない。ふつうならフェリーターミナルの周囲には何らかの店があってもよさそうなのだが、何もないという摩訶不思議な港だ。市街で食料を買っておいて正解だった。

 18時前、無事に苫小牧東港の新日本海フェリー乗り場に到着。わずか2日だけの北海道滞在であった。

【写真】R235沿いの休憩所にて撮影。

影の長さが夕方であることを示しています。

●人力車と会う

 乗り場には20台近いバイクが停まっていた。関東系ナンバーのバイクは途中の新潟までのようだが、7割ぐらいを占める関西系ナンバーはほとんどが敦賀行きのようだ。中には本州ツーリングに向かうという北海道ナンバーのバイクもあった。今回乗船するのは敦賀行きの寄港便。途中で秋田と新潟に寄る便だ。6日早朝に敦賀に着くので、北陸ツーリングをしてから帰阪するつもりで予約したのだ。

 出航まで時間があったのでターミナルに向かう。すると駐車場に人力車が止まっていた。(゚д゚)? 同志社大学人力車友之会の3名だった。聞くと、稚内から函館まで人力車を引いて移動し、函館→苫小牧はトラックに積んで移動。晩の便で敦賀に渡ると

いう。サポート隊の荷車と自転車と共にフェリーに乗り込むため準備しているそうだ。たった3人で移動したのかと聞くと、交代要員を含めて10名ほどいたとのこと。彼らは移送係だったのだ。 よく見ると車輪はゴムが厳重に巻かれている。それについて聞いてみると、車輪(木製)は一輪30万円もするので壊すわけにはいかないため巻いているそうだ。車輪を作る店(職人さん)がないので特注で作ったのだという。かなり高価な人力車を、北海道ツーリング(?)に惜しげもなく使うところが良い。こういう旅をする大学生がいることがうれしかった。

 ちなみにフェリーの料金設定に「人力車」というのはないため、「自転車扱い」となったそうだ。

 19時過ぎに車両甲板へ乗船。バイクを固定して必要な荷物だけ持って二等寝台室へ移動。フェリー乗り場で知り合ったカブに乗った五條市のおっちゃんとゴールドウィングに乗る奈良市在の初老のおっちゃんと同じエリアの寝台だった。

 19時50分、フェリー『しらかば』は苫小牧東港を出港。福井県敦賀に向かって動き出した。

【写真】フェリー『しらかば』。遠くから撮影できず、中途半端な写真になりました。

☆2003年9月5日(金)

◆新日本海フェリーで移動

◆天気:晴れ/◆走行距離:0km

●新日本海フェリー(復路)

 昨晩は23時頃に寝た。起きたのは5日の7時頃。起きてもやることがないのでダラダラしている。午前8時に秋田港に入港する。隣に見慣れない白い客船が停泊していた。よく見ると船体に『飛鳥 ASUKA』と書かれている。豪華客船『飛鳥』が停泊していたのだ。珍しいので客室係がカメラを持って来て撮影していた。秋田港を出港するとき、『飛鳥』の乗客達が手を振ってきた。こちらにいる何人かが手を振り返す。一度は乗って見たい船である。

 秋田港を出て新潟港を目指す。昨晩会った五條市のカブライダーさんと会い、いろいろと話をする。一男一女のお父さんだとか。高校生の息子が来年バイクの免許を取るので、一緒に北海

道ツーリングをするのだとうれしそうに語ってくれた。自立心を育てるためにも、初日と最終日だけ一緒に行動してあとは別行動にするという。こういう親父になれたらいいなと思う。そのためには子供を洗脳しなければならない。カブライダーさんも、子供が小さい頃からバイクに乗せるなどして洗脳していたそうな。ふむふむ、ためになるお話だった。

 15時半に新潟港到着。16時半に出港。寄港便はのんびりと敦賀に向かう。やることがないので敦賀到着後のコースを考える。越前海岸を走って加賀へ出てR364で南下するというコースを考えた。ところが天気予報では前線を伴った低気圧の接近により、明日の福井県北部の天気は崩れるという。どうなるか分からないので、計画だけ立てて明日到着後に判断することにした。

 腹が減った。しかし3食ともカップラーメンというのも面白くないので、18時過ぎにフェリーのレストランで夕食を食べる。その後風呂に入りやることがないので21時頃には寝てしまった。

【写真】豪華客船『飛鳥』。豪華ですねぇ〜。ヽ(゚∀゚)ノ

いつか乗ってみたいっす。

☆2003年9月6日(金)

◆敦賀FT→京都府京都市→滋賀県甲賀郡信楽町→京都府宇治市→大阪府吹田市→自宅

◆天気:曇りのち晴れ/◆走行距離:258km

●敦賀FT

 午前3時頃に起床して下船準備にとりかかる。早朝4時半にフェリー『しらかば』は敦賀港に接岸した。車両甲板に下りて荷物を積んでいると扉が開いた。すると”むわぁ〜”とした本州の空気がどっと入ってきた。いつものことなのだが、この瞬間に『関西(本州)に帰って来た』という実感が湧く。

 4時45分頃に下船し駐車場へ移動。ここでカブライダーさんと少し話す。カブライダーさんは地道をひたすら走って今日の晩

頃に五條市の自宅に帰るという。五條市なら良く行くところなので会うことがあるかも知れない。無事を祈って挨拶して別れた。

 周囲はまだ暗いので明るくなるまで少し待つことにする。午前5時を過ぎるとようやく明るくなってきた。予定ではR305〜R364〜R476というルートで福井県を周遊して北陸道に入るつもりだったが、空を見ると北部には雨雲がかかり始めていた。どうやら今日は雨のようなので福井周遊はやめて、おとなしく自宅に帰ることにした。人力車友之会の大学生と少し話をしてから、5時過ぎに敦賀港を出発した。 

【写真】敦賀FTにて。日の出前の早朝に到着した。

●彷徨う管理人・・・

 このまま帰るのも何だったので、少し道ネタを集めてから帰ることにする。R476に入り当時の分断区間端点まで往復する。途中のルートは旧北陸本線と重複しているので、トンネルが鉄道用トンネルだったりするなど面白い区間だった。機会があれば鉄道後を探しに来てみたいものだ。 

 午前6時過ぎに敦賀市街を出てR8〜R161で湖西へ向かう。この時間帯はトラックの姿は少ない。この日は滋賀県高島郡マキノ町(現:高島市マキノ町)のR303交差点までトラックに追いつくことは無く快適に走ることが出来た。滋賀郡志賀町付近まで来ると陽は高く上がっていた。琵琶湖から南は晴れのようで雨が降る気配は一切なさそうだった。これならR303八草峠にでも行けば良かったかと思ったが、引き返すのが面倒なのでそのまま南下を続けた。気温はぐんぐんと上がり続けている。東北と北海道の気温に慣れてしまっていたので、こちらの暑さには参ってしまう。9月上旬まで関西では残暑が続くことをすっかり忘れていた。

 湖西道路に入り一気に琵琶湖西岸を南下。もうすぐ京都東ICだ。ところがR161長等TNを出たところで、アホドライバーが運転する車が無茶な割り込みを仕掛けてきて事故になりかけた。こちらがバイクだからナメていたのか、それとも後ろを見ていなかったのか。ドライバーは悪びれる様子もなく素知らぬ顔をしていた。(゚Д゚)ゴルァ

 これが原因で頭に血が上ったためか、京都東ICで間違って名古屋方面に入ってしまった。_| ̄|○ 何をしていたんだろ?

しかも気付いたのは高速に入って走り始めてから。『大津SA ○km』という表示を見たときだった。_| ̄|...○ その大津SAに入って休憩がてら頭を冷やす。

 瀬田ICで下りる。京滋BPに乗って大阪に向かうことにしたが、なぜかR422を甲賀郡信楽町(現:甲賀市信楽町)のR307交差点まで往復してから京滋BPに入るという奇妙な行動をしてしまう。┐(´-`)┌

 笠取ICから京滋BPに入る。シャブコン混入騒ぎで開通が遅れていた京滋BPだったが、2003年8月10日に名神の山崎JCTまでが全通した。これで京都東IC付近の渋滞はかなり解消されるのだろう。開通区間は舗装状態も良く走りやすい路面だった。山崎JCTから名神に入る。吹田(料)に到着したのは10時前。大阪は快晴で気温はすでに30℃を越えている。暑い・・・。

 近畿道〜阪和道とよく走る高速を南下。ガス欠になりかけたので堺ICで下りて給油し、あとはいつも走る道で自宅へと向かった。午前10時40分、無事に自宅に到着。これにてツーリングは無事終了。来週は沖縄県・渡嘉敷島に居るのだ。

【写真上】敦賀市内で朝日を拝む。

【写真下】無事に自宅に到着。走行距離1930kmのツーリングは無事終了。

<<東北&北海道TOURING2003ツーレポ終わり>>

<<資料>>

★存亡の危機にあった記念館『摩周丸』

 『摩周丸』について調べていたら、意外なことにかつて存亡の危機にあったことが分かりました。少し別のお話なので、まとめて独立させています。

●記念館となった『摩周丸』

 1988年(昭63年)3月の青函TN開通により青函連絡航路は約80年の歴史に終止符を打ちました。活躍していた連絡船のうち、『摩周丸』は函館市の第

3セクター会社「函館シーポートプラザ」(以下函館SPと略します)に引き取られます。最小限の改修などを行い、1991年(平3年)4月に記念館(メモリアル

シップ)としてオープン。第2の人生を歩むことになりました。

●運営の危機

 函館SPは、旧函館駅の連絡船桟橋跡地にショッピングセンター「ピアマーケット」他を建設。観光客を誘致して相乗効

果を狙います。函館SPは同施設と『摩周丸』を経営することになりました。計画では「ピアマーケット」の黒字で『摩周

丸』の赤字を補填し、7年後に単年度黒字を達成して、15年後に累積赤字を解消する予定でした。

 ところが日本各地にある多くの第三セクター同様、函館SPも営業不振による債務超過に陥ります。営業の要である

「ピアマーケット」はさっぱりはやらず、テナントは次々に撤退。営業開始わずか2年後には8億円の赤字を計上します。

このままでは会社自体の存続が危ぶまれる状況に陥りました。

 1995年(平7年)には『摩周丸』の休業も検討されます。しかし1996年(H8年)に「ピアマーケット」をJR北海道に

売却。函館SPは函館市より融資を受け、『摩周丸』の運営のみを行うことになりました。

 数々の営業努力の結果、翌97年から単年度黒字を計上して経営は安定しました。しかし99年度は黒字を計上しながらも大幅減収。このままでは償還が

不可能になってしまう可能性が出てきました。

 こんな中、船体を整備する余裕は会社にはなく、『摩周丸』の船体は風雨や風雪に晒されたまま痛む一方・・・。このままでは維持出来ずに廃船か売却される可能性も出てきました。『摩周丸』の存亡の危機が訪れのです。

●復活した『摩周丸』

 そこでようやく行政が動き出します。2002年9月、青函連絡船なしでは発展しなかった函館市が、『摩周丸』を買収

することになりました。函館市の歴史的・文化的遺産として、どうしても残さなければならないからでしょう。函館市は総

額約5億円という金額で、函館SPより『摩周丸』を購入。第3セクター函館SPは精算の上会社解散となります。

 2003年1月、『摩周丸』は向かいにある函館ドックに移動。船体の改修・塗装、整備などが行われ、現役時代の美し

い姿に復活。そして2003年4月19日に『函館市青函連絡船記念館・摩周丸』としてリニューアルオープンしました。運

営は「(財)函館市文化・スポーツ振興財団」が行うことになります。

 今度何かあれば『摩周丸』はお終いです。函館市は、買収話が出た時点から懇親会を作り、運営方法や対策を協議

します。そして『摩周丸』を観光スポットに育てる計画が動き出しました。その結果、リニューアルオープン後から入場者

数は増加し、2003年9月2日には早くも入場者数5万人を突破。『摩周丸』は存続の危機を乗り越えて、一躍函館の

観光名所となりました。

●青函連絡船記念館、ガンガレ!ヽ(゚∀゚)ノ

 一方、青森にある同じメモリアルシップ『八甲田丸』を運営していた第3セクター「青森ウォーターフロント開発」は自己破産に陥っています。こちらは「(財)

みちのく北方漁業博物館」が運営を引き継ぎましたが、運営は難しいそうです。

 青森と函館の連絡船記念館に対する取り組みは似通っています。同じように第3セクター会社で運営して共に経営破綻しています。その後の対応は対照

的です。青森も対策を講じているようですが、効果が出るかどうかは不透明です。青森・函館の両地の発展には欠かせなかった青函連絡船。何が何でも保

存して欲しいものです。

【資料】

函館電子新聞

旧青函連絡船「摩周丸」保存活用に関する提言 〜「摩周丸」保存活用懇親会〜

他いろいろ。

>>つーりんぐれぽーと