瀬戸内ツーリング2002

 

2002年11月8日(金)〜11月10日(日)

瀬戸内に沈む夕陽。手前の島影は笠佐島。

◆11月8日(金)【自宅→大阪南港FT:24km】

○おかしいぞ!

 今年(2002年)の秋の天候はおかしい。秋という季節があったのだろうかと思うぐらいに短い「秋」であった。何しろ早くも10月末に大寒波が到来。以後冬型の気圧配置となり、海も山も大荒れの天候が続いた。

 来年(2003年)のシーズンから無料開放と同時にバイク・車の通行規制が行われる乗鞍スカイラインは、積雪のために10月27日をもって営業を終了。聞くところでは、せっかく計画していた『スカイライン最後の車認定式』(スカイライン閉鎖式?)も行われた無かったとか。

 こんな中、11月最初の連休に四国縦断(松山→R494→R440→松山)ツーリングを計画。しかし、折からの天候不順で行く気が消えてゆくところでフェリーのチケットが取れないために断念。第2週の週末にチケットを確保できたので、この時に行うことにした。

 この11月最初の連休、日本は強い冬型の気圧配置となり、上空には季節外れの大寒波が到来した。奈良県の大台ヶ原では大雪となった。四国も例外ではなく山間部を中心に大雪となり、r12こと石鎚スカイラインは積雪のため通行止めとなった。もともと冬期は閉鎖される道路だが、11月初旬に積雪のために閉鎖されたとは聞いたことがない。このままの天候が続けば、第2週の四国山間部は路面凍結や積雪があり得ると考え、四国縦断コースの他に第2案・第3案も考えておいた。

 11月第2週週末。8日(金)は低気圧が発達しながら通過。翌9日(土)、その低気圧はオホーツク海付近で激しく発達。日本付近は典型的な冬型の気圧配置となる。しかも上空には−30℃級の大寒波が襲来。鹿児島県の桜島まで冠雪してしまった。

当然のことながら四国山脈も大雪・・・ 

 11月第2週なのに・・・ 今年の秋はとにかくおかしい天候だ。

○深夜の攻防戦

 8日(金)、低気圧は足早に去って雨は朝でやんだ。昼からは曇り時々晴れとなった。今回はKSRUにバニアケースを取り付けて出かけることにした。荷物を詰め込み装着したが、重いために少し前輪が浮き気味となった。雨具と工具・パンク修理セットだけにして、着替えや洗面具などはバックに詰め込み背中に背負う形となった。

 18:30過ぎに自宅を出発。いつもより重心が高くなっているのでぎこちない。横風を受けると流されてしまう。最初は戸惑ったが南港に着く頃には運転に慣れていた。

 19:20大阪南港FTに到着。関西汽船のカウンターで手続きを済ませるが、FTは大変混雑していた。週末だからだろう。USJの袋を持った人達が目立った。週末の金曜日ということでフェリーは予約で満員御礼。乗船して分かったのだが、修学旅行の中学校(しかも2校)が乗り込んでいたため2等寝台を取ることが出来なかったようだ。今回は久々の2等和室(雑魚寝ルーム)で一夜を明かすことになる。チケットが取れただけでもマシかな?

 関西汽船の雑魚寝ルームは1人分の幅が狭く、まるで鮪市場の鮪のように寝転がって眠らなくてはならない。過去何度か利用したことがあったが、全く眠れないし疲れが取れないので、最近では関西汽船だけでなくどこの長距離フェリーでも寝台を利用していた。

 出港時間が近づくと、どやどやと一般客が客室に上がってきた。私の右隣には年配のおっちゃんが陣取る。左側には娘2人連れの親子が陣取った。『よ〜しパパ、フェリーに乗っちゃうぞぉ〜/一家4人で関西汽船か・・・(以下略)』である。

 それはそれで構わないのだが、案の定、子供(小学校低学年らしい)がはしゃぎ始める。21:0

0、大阪南港FT出港。子供達はうれしいのか、ドタバタと甲板を走ったりしてはしゃいでいる。『消灯』までには静かにしてくれよと願う。しばらくすると食事に行こうということになり、一家は2時間ほど戻ってこなかった。こうなったらこの間に寝てしまうのが勝ちだ。雑魚寝ルームでは「早く寝た物勝ち」なのだ。

 しかし、私の場合は往路はすこぶる寝付きが悪い。半分寝かけた辺りで隣の一家が帰ってきた。目がさめてしまった。やがて消灯。隣の一家は子供を真ん中にして両親が両端に陣取った。私の隣はパパが寝ている。このパパ、仕事疲れで寝付きが良いようで直ぐに寝てしまった。心配した鼾もないようなので、少しは安心して眠ることが出来る。

 ・・・と思ったが、1時間もしないうちにその期待は裏切られた。そろそろ眠れるかという時になって、私の胸に何かが落ちてきたのだ。『何事?』と目が覚める。よく見ると隣のパパの右腕だ。しかも寝返りを打って私の領土に攻め込んできた。見てみると一家4人とも寝相が悪い。これは洒落にならない。どうやら中央の娘二人が両親を押しのけるようにして寝ているために、パパは私の方に寄って来たようだ。しかもパパ自身も寝相が悪いので、どんどんこちらにやって来る。

 パパは戻る気配を見せず、むしろジリジリと私の領土を占領して行く。反撃開始。こっちも寝返りしたふりをしてパパを押し戻す。さらに私の左腕をパパの右腕の上に置く。しばらくしてしびれてきたのだろう。「う〜〜〜〜ん」と言って左に寝返りをうった。作戦成功。領土を奪還する。しかしその後、散発的に攻撃を仕掛けてくるので熟睡することが出来ない。

 何度か反撃を試みるが、一時的には効果があってもすぐに反撃してくる。真夜中の攻防戦はかなり長い間続いたが、だんだんアホらしくなってきたので、無視して眠ることに専念し始めた。結局、最終的に領土の1/3ほどを不法占拠されたまま松山港に向かった。

 教訓:『長距離フェリーでは、キャンセル待ちしてでも2等寝台を取る!』

◆11月9日(土)【松山FT→松山FT:135km】

○道後温泉

 眠ったかどうか分からないままフェリーは進む。5:00、雑魚寝ルームの明かりが点いて起床。隣のパパとその家族は何事もなかったように起きてきた。二度と雑魚寝ルームには寝ないことを心に決める。

 朝飯代わりにサンドイッチを食べる。6:00、松山観光港に到着。定刻よりも早く到着したのだ。早くも6:03に下船する。早朝なのだが、まだ朝日は昇っていないので、外はまだ暗い。北風がかなり強く、まるで冬のような天気だ。今日は冬型の気圧配置が強くなると、昨晩の天気予報

で言っていたので覚悟していたが、この寒さには参ってしまった。よくよく空を見てみると雨雲が次々と北→南に向かって流れている。平野部では雨(雪?)の心配はなさそうだが、山の方はどうなるか分からない。

 とりあえず日の出を迎えてからどうするか考えることして、レインパンツをはいて防寒対策をしてから松山観光港を出発した。まだ暗い早朝の松山市街を走り道後温泉へ向かう。R437に入り市街中心部へ向かう頃になると、徐々に空が明るくなってきた。山を見てみると分厚い雲で覆われている。雪が降っているかどうか分からないが、上空には寒気が流れ込んできているらしいので山は雪かも知れない。

 6:30頃に道後温泉に到着する。松山観光港に到着した時はいつもここに立ち寄る。今回は道後温泉本館ではなく、少し離れた道後温泉『椿湯』に入る。こちらは初めて訪れた公衆温泉浴場だ。1953年(昭28年)に出来た戦後生まれの温泉で、建物は西洋風となっている。浴室の壁には道後温泉発見のきっかけとなった白鷺が描かれている。

 道後温泉『本館』が観光客向けの温泉だとすれば、『椿湯』は地元の人達向けの公衆温泉浴場となる。朝早くから地元の人達で混雑している。みな顔見知りらしく、朝の挨拶をあちこちで聞き、世間話で盛り上がっている。

 『本館』とはまた違った道後温泉の姿を見ることが出来るのだ。公衆温泉の雰囲気を楽しみたければ『椿湯』を訪れることをお勧めする。

 『椿湯』の後、そのまま歩いて『本館』にも寄って入浴する。道後温泉『本館』は、夏目漱石の『坊ちゃん』にも登場する有名な温泉。朝早いにもかかわらず、浴衣姿の観光客が入りに来てい

た。

 東西二つの浴室両方に浸かる。少し熱いアルカリ性単純泉の湯に浸かりながら、今日のルートを考える。山は路面凍結・積雪の可能性が高いので『四国縦断』は中止。第2案となる『瀬戸内ツーリング』に変更することにした。(第3案はR378走破) まさか平野部や瀬戸内の島々まで雪は降らないだろう。

 『本館』から出るとすっかり夜は明けていた。空は薄曇りで、風が強いのか北→南に向かって雨雲が流れているのが良く分かった。今日はこんな天気だろうか?

○屋代島へ

 8:20頃に道後温泉を出た後、R437で三津浜港に向かう。このR437、松山市中心部と三津浜港を結んでいるが、三津浜港が終点ではなく、屋代島に渡ってそのまま山口県玖珂郡玖珂町まで続いている。『港国道』ではなく、『中国四国連絡国道』の一つなのだ。

 8:55三津浜港到着。三津浜港は瀬戸内の島々を結ぶフェリーや高速船の発着港となっている。柳井(山口県)〜三津浜の間にはフェリーが1日18便運航されている。そのうち屋代島の伊保田港経由のフェリーが1日2便だけある。(この他に三津浜〜伊保田の往復便が1便だけある。) 今回はこの伊保田港経由のフェリーに乗って屋代島に渡るのだ。

 この2便(と三津浜〜伊保田の1往復)は岩国松山高速運航という会社のフェリーで、残る16便は防予汽船のフェリーとなっている。以前は別々に運航していたようだが、共同運航することで利用者を増やそうということで2社で共同運航を行っているの 

だ。

 瀬戸内航路ということで、大きなフェリーではなく、車20台ぐらいが乗れば一杯となる小さいフェリーで細々と運航しているとかで、車で利用する場合は事前に予約しなければ乗船出来ないという。知らずにチケットを買いに来たドライバーがおり、かなり焦っていた。バイクの場合は関係なしで乗船出来る。

 9:30にフェリーが入港してきた。今日は観光バス2台と工事車両が乗り込むとかで結構多いらしい。柳井行きでもあるために利用者は多いようだ。フェリーに乗船すると隅に誘導されてロー

プで固定される。

 客室に上がり座席に座る。カーペットのごろ寝スペースもあったのだが、観光バスから降りてきた団体に占拠される。どこの団体か知らないが、朝から酒を飲んでおりすでに出来上がっていた。 9:50三津浜出港。北風が強いため瀬戸内でも波があり、フェリーに乗っていても揺れを結構感じた。

 10分ほど熟睡してしまったようで、10:45頃に目が覚めるともう屋代島が間近に迫っていた。車両甲板に降りると揺れがまだ続いていることが分かる。時々波飛沫が降ってきてバイクが海水で濡れてしまった。船員が車にホースで真水を掛けていたので、それを借りてKSRUを真水で洗っておいた。

 11:00頃にフェリーは屋代島伊保田港に入港、下船する。入れ替わり何人かの人が乗り込む。しばらくするとフェリーは柳井港目指して出港して行くと、港は閑散としてしまった。

【左写真】:屋代島の伊保田港。後ろに出港のため離岸するフェリーが写っている。

 KSRUで初めて山口県に入った。それを記念して、地名標識の前で記念撮影してから屋代島を走り始めた。

陸奥記念館

 R437に入り1kmほど進むと右手に海上自衛隊で活躍したUS1Jらしき保存展示機の姿が見えた。そのすぐ先に『陸奥記念館』があった。屋代島に行くのであれば是非とも寄ろうと思っていた所である。も2002年4月の南九州ツーリングで知覧などの特攻隊関係の資料館を訪れてから、太平洋戦争に関する資料館巡りをするようになってしまった。

 『陸奥記念館』は「謎の爆沈」で沈んだ旧日本帝国海軍の戦艦『陸奥』に関する資料館。1970

【右写真】;陸奥記念館の前に飾られている戦艦「陸奥」の主錨と錨鎖。

年(昭45年)から本格的に開始された引き上げ作業で、海底より引き揚げられた『陸奥』乗組員の遺品や艦の一部を展示してある。展示室の一角には、実物大の船室が再現されており、実際に出入りすることも出来る。士官用だろうか?机と二段ベットが置かれ、小さい直径50cmほどの船窓があった。結構小さい船室であった。 展示室には所狭しと戦艦『陸奥』に関する資料・写真パネル・模型などが展示されており、まずは『陸奥』の生い立ちから知ることが出来る。順に進んで行くと引き揚げられた『陸奥』の乗組員の遺品・遺影、艦の一部分を展示しているコーナーへ入る。引き上げの経緯・様子は写真パネルなどで詳しく説明されており、『陸奥』引き揚げに対する御遺族の熱意が伝わってくる。展示室中央には、沈没した陸奥の状態が模型で説明されている。それによると陸奥は第三砲塔の部分でポッキリと船体が2つに割れて沈んでいたという。

 また乗組員の名前が刻まれたネームプレートが1121名分置かれていた。1121名というのは、爆沈によって亡くなられた将兵の人数である。『陸奥』の乗組員1474名中、生き残ったのは僅か353人だったとか。戦地ではなく、瀬戸内・柱島近くに停泊していたのに犠牲者数が多すぎる。爆発から沈没まで「あっという間」だったことを裏付けている。

 資料室を後にして外に出る。記念館近くの丘には引き上げられた副砲・スクリュー・船首などの船体の一部が展示してあるのでそちらへ向かう。丘からは『陸奥』が沈没した柱島沖が一望でき、犠牲者の慰霊碑や若鷲の碑(予科練甲飛11期生戦没者慰霊)もあった。一通り見て回った後、2つの慰霊碑と柱島沖に手を合わせて記念館を後にした。

1.近くの丘には船体の一部が展示されている。

  「陸奥」の50径三年式14cm副砲。説明板が

  なかったので何番砲塔かは不明。副砲は合

  計18門(左右各9門)あった。

2.引き上げられた「陸奥」の船首部分。ここにあ

  った『菊の紋章』は、引き上げ時に取り外さ

  れ、江田島の自衛隊学校に保管していると

  か。

3.手前は16番砲塔だそうだ。説明板によると

  射程14800m、砲身7mで重さは18トン。

  副砲だがめちゃくちゃ大きい。後ろに艦首が見

  える。

 

4.四基あったスクリューのうち、左舷内側のスク

  リュー。材質はマンガン・ブロンズだそうだ。

  翼面積74u。重量11トン。

5.丘の上からは柱島が見える。ここから3kmほ

  ど先の地点で、「陸奥」は爆沈した。今は静か

  な海が広がっている。

 

戦艦『陸奥』爆沈

○戦艦『陸奥』

 アメリカに対抗して計画された『八八艦隊』計画で

建造された新戦艦の2番艦である。1番艦は「長門

」であり、「陸奥」はその姉妹艦として建造が進めれた。

 起工は1918年(大7年)7月、進水は1920年

(大9年)6月、そして完成したのが1921年(大10

年)10月24日である。完成とは言っても偽装工事

が引き続き行われている状態であった。

 1921年(大10年)11月のワシントン軍縮会議

では、米英は「陸奥」を未完成艦と見なして廃棄を

要求。「長門」「陸奥」がペアを組まなければ、「長

門」の戦力は中に浮いてしまうことなどから、日本

側は「陸奥は完成艦である」と強く主張。いろいろ

な駆け引きと譲歩の結果、保有を認められ廃棄さ

れずに済んだ。

 ちなみに『八八艦隊計画』で同じく建造されてい

た戦艦「加賀」「天城」「赤城」「土佐」は建造中止。

「加賀」「赤城」は空母へ、「天城」は空母への改造

中に関東大震災で損傷し解体(代わりに「加賀」が

空母へ)、「土佐」は標的艦となった。

 「陸奥」は「長門」共々、40cm砲8門を搭載した

当時の世界最大級の戦艦として君臨。『ビックセブ

ン』と呼ばれた世界七大戦艦のうちの2つに数えら

れていた。

 「陸奥」は、1927年(昭2年)の特別大演習では

御統裁艦となり、同年秋の観艦式では御召艦とな

った。この2艦は国民に広く知れ渡り、当時の子供

達が描く軍艦は「長門」か「陸奥」だったと言われる

ほど人気があった。

 「陸奥」はその後、「長門」共々2回に渡る大改装

を施され、1936年(昭11年)で終わった第2期大

改装で近代的な戦艦となり、「長門」「陸奥」は日本

帝国海軍第一艦隊第一戦隊を編成。「大和」「武

蔵」が竣工するまで、連合艦隊のシンボルとして君

臨する。

○戦艦『陸奥』の戦歴

 「陸奥」最初の任務となるとなるは意外にも兵員

輸送であった。1937年(昭12年)7月7日に勃発

した日中戦争(支那事変)においてである。同年8

月下旬、陸軍の将兵2000名を三津浜港から上海

沖に輸送したのだ。上海沖で将兵を他の艦に移乗

させて任務は終了する。

 1941年(昭16年)12月8日、太平洋戦争(大

東亜戦争)が勃発。同戦争における「陸奥」の初陣

は1942年(昭17年)6月5日のミッドウェー海戦

であった。このときは空母部隊の後方を進む主隊

にいたために戦闘することなく帰還している。

 同年7月、戦艦「武蔵」が完成したために「長門」

と共に第二戦隊に編入される。その後、ソロモン方

面の作戦支援でトラック島に進出する。

 1943年(昭18年)1月、横須賀に帰還。改修工

事を受けた後、2月に瀬戸内海の柱島泊地に回航

され、来る戦闘に備えて訓練に励んでいた。同年5

月、アッツ島に米軍が上陸。第二戦隊は北太平洋

のアメリカ艦隊を攻撃するために出撃準備を整えて

いたが、アッツ島玉砕により出撃することなく泊地

に待機となっていた。

○戦艦『陸奥』爆沈

 1943年(昭18年)6月8日、修理のために呉の

第四ドックに入っていた第二戦隊旗艦「長門」が、

修理が終わったので午前9時半頃に呉を出港し

た。柱島泊地には13時頃に到着することになって

いた。

 それまで柱島泊地の旗艦ブイに繋がれていた

「陸奥」は、この日早朝より艦上訓練が行われてい

た。訓練が終わって正午前になった頃に、「陸奥」

は旗艦ブイを「長門」に明け渡して二番ブイに移動

すべく準備を始めていた。

 この日は小雨が降り霧が濃かったそうで、「陸

奥」の西南約1000mの地点に在泊していた戦艦

「扶桑」からでさえ、「陸奥」の姿を見ることは出来

なかった。

 この日、「陸奥」には乗員1321名に加えて、艦

務実習のために霞ヶ浦海兵団の予科練習生とそ

の教官合わせて153名が乗船していた。合計14

74名が「陸奥」に乗艦していたことになる。

 6月8日正午過ぎ(12:10過ぎという話もある)、

第三砲塔下の弾薬庫が大爆発を起こし、「陸奥」は

第三砲塔付近で2つに折れて転覆。艦尾を突き出

した状態で浮かんでいたが、2分ほどで船体は沈

んでしまったという。

 艦長以下1121名が犠牲となった。乗り込んでい

た乗員の約四分の三もの将兵が犠牲になったこと

になる。1121名の死亡した将兵のうち、8月中旬

までに収容された遺体は180体ぐらいだという。

(うち6体は氏名不詳) 多くの将兵の遺体は「陸

奥」とともに水深40mの瀬戸内の海底に沈んでし

まったのだ。

 生存者は負傷者39名を含めて353名だった。そ

の生存者も健全な314名については、1943年

(昭18年)8月にトラック島の警備部隊に移動とな

る。その後半分の将兵がサイパン島へ移動してい

る。南方に送られた将兵の多くは戦死。終戦時に

生き残って帰国できた「陸奥」乗組員は、わずか

60名ほどであったという。

○『陸奥』爆沈の原因

 「陸奥」爆沈後、直ちに「M査問委員会」という調

査委員会が設けられた。委員会では、「陸奥」爆沈

の原因を追求する。「敵潜水艦による攻撃」「諜報

員による工作活動」「砲弾(三式弾)の自然発火」

などいろいろな説が飛び交った。

 艦の破損状況から艦内部から爆発したことが明

らかになったので、外からの攻撃である可能性は

ほぼなくなった。一時期は三式弾の自然発火が濃

厚になったが、実験の結果それはありえないという

結論に達した。

 結局は、装薬(砲弾の発射時に砲身につめる火

薬)が爆発したと断定される。しかし実験でも装薬

の自然発火はあり得ないことが証明。また仮に発

火しても装薬缶に詰められているので、火薬庫全

体が爆発することはない。

 ところが何らかの発火が起こり、装薬缶の蓋が全

て開いていれば、次々と誘爆して大爆発が起こる

可能性はあった。

 委員会では人為的な原因に絞られた。帝国海軍

では明治以来6件の火薬庫爆発による事故が起こ

り、うち4件で4隻が爆沈している。(戦艦「三笠」も

事故で一度爆沈している。)人為的な事故もあった

そうで、「陸奥」で起きても不思議ではない。

 結局、M査問委員会では、当時「陸奥」で盗難事

件が頻発していたことに注目。第三砲塔員の2等

兵曹が事件の発覚をおそれて、火薬庫に放火したのでないかと結論づけた。もちろん確かな証拠はな

い。本人も爆発で行方不明となっている。

 2ヶ月後の8月、M事故査問委員会は、火薬・砲

弾の自然発火を否定。『爆発が人為的によるもの

でないという確証がない』としつつも、2等兵曹の放

火による疑いが濃いと報告。なんとも曖昧な結論の

まま事故調査は終わった。

 一説には敵国(米英)の諜報機関の仕業という見

方もあるが、真相は今も謎のままである。

○戦艦『陸奥』の引き上げ

 「陸奥」の引き上げは、爆沈直後に提案された。貴

重な戦力なので引き上げて3ヶ月で修理して戦線に

復帰させよという無理な要求だったが、調査の結

果、引き上げ・復旧は無理であることが分かり断念

している。

 その後、1944年(昭19年)7月に『竹作戦』と呼

ばれる重油回収作業が行われて580トンの重油が

回収された。これが旧帝国海軍による「陸奥」に対

する最後の作業となった。

 終戦後、1949年(昭24年)から引き上げ作業が

開始されるも困難極まりない作業のため中断され

る。しかし遺族・生存者は「陸奥」引き上げを強く熱

望し続ける。その熱意が実り、1970年(昭45年)6

月になって、本格的な引き上げ作業が開始され

た。1978年(昭53年)まで引き上げ作業が行わ

れ、この8年間に船体の約75%が引き上げられ、

多くの御遺体と遺品も回収された。

 引き上げられた「陸奥」の鋼材は、長く海底にあっ

て核実験の降下物にも汚染されず、また鋼材の中

に放射能を含まないことから、放射能汚染を測定す

る機器の外壁として重宝され、各地の主要原発で

再利用されている。(戦後生まれの鋼材は、製造方

法の都合で微量のコバルトが含まれるので不向き

だとか。) 日本初の原子力船「むつ」にも使用され

たとのこと。

 戦後、「陸奥」の鋼材が平和的に使用されている

のは、犠牲者に対する何よりの供養になるのではな

いだろうか。

参考資料>>吉村昭『陸奥爆沈』

 

○陸奥記念館

 引き上げられた遺品や艦の一部、御遺族から寄

せられた貴重な資料を展示するために、東和町によ

って1973年(昭47年)11月に建設されました。

 1994年(平6年)4月、R437改修工事により現

在の場所に移転し再オープン。

 館内には引き上げられた戦艦「陸奥」の一部はも

ちろんのこと、戦艦「陸奥」に関する資料や引き上げ

に関する資料、亡くなられた将兵の御遺影や御遺

品が展示されています。

 柱島泊地を眺めることが出来る近くの丘には、引

き上げられた船体の一部が展示されています。

●陸奥記念館

 山口県大島郡 周防大島町伊保田

 пF0820−75−0042

●入館料:大人420円

●開館時間:午前9時〜午後4時30分

 /年中無休。

 

○屋代島快走

 陸奥記念館を出た後、瀬戸内海を見ながらR437をひたすら走る。交通量は少なくマイペースでの走行が可能だ。淡々と小さな漁村を通り抜けて進んで行く。静かなのんびりした島だ。正午を過ぎると風はきついものの、上空の雲は抜けて青空が広がってきた。北風があるので少し寒く感じる。

 東和町下田地区付近からは徐々に交通量が増え始める。町中を走るようになるが、町中にあるガードレールは何故か黄色になっている。(写真参考) ガードレールが黄色というのは山口県

独特なのだ。他の地方では見たことがない。黄色いガードレールは結構目立つが、もし大阪で黄色いガードレールを設置したら黒ペンキで縞模様にする人がいるかもしれない・・・

 橘町に入り、屋代島中央付近でr4(県道大島環状線)に入る。島とは思えない山中を通り、TNで一気に島の南側に出て竜崎温泉に立ち寄る。本日3湯目の温泉だ。フロントで無料貸し出しのタオルを受け取って脱衣室へ向かう。浴室は明るい。内湯と露天風呂があり、露天風呂からは向かい側に嵩山と安下庄湾を見ることが出来る。湾はまるでジオラマのように見える。眺めは大変良い。

 ここのお湯は赤茶色を呈した塩化物泉。鉱物成分を含むので外気に触れると参加して赤茶色になる。内湯は濾過しているので透明だが、露天風呂は源泉を入れているとかで赤茶色となっている。傷がある状態でこの湯に浸かると、傷がめちゃくちゃしみてしまう。夏の海水浴で体を焼いたあと、この湯に浸かると・・・・・・。海水浴の後は浸からない方が良いかも知れない。

 温泉から出た後、食堂で「イカ天麩羅定食」を食べて昼飯とした。天麩羅の他、刺身・茶碗蒸しなどが付いていた。すべて食べるとお腹一杯になった。さすがは瀬戸内の島。魚介類は新鮮なものばかりだった。

 心身ともにリフレッシュして温泉を後にした。

○あめふらし@危機一髪!

 r4を走ってR437に戻る。島の西部に入ると町中を通るようになり、また交通量も増えてくる。信号は少ないので流れは良い。時々遅い車が走っているが適当な所で抜いて進む。淡々と海岸沿いを瀬戸内の海を見ながら進んで行く。空は晴れており、これで北風が吹いていなければ快適なツーリングなのだが。

 山口県久賀町の西端にさしかかった。道は集落の中を通る2車線道で、前方(約30mぐらい先)の脇道から一台のバンが出てくるが見えた。トロトロと徐行しながら出てくる。確認のためにゆっくりと出てきているのかと思ったら、そのまま車道に入った。

 バイクが接近してきているのに無視して車線に入るドライバーは多い。バイクに乗ったことがない人は、バイクが結構早く移動してくることを理解していない。今まで何度となくこれで事故に遭いかけたことがある。

 さて、脇道から出てきたこの車、あまりにトロトロ走るので停まるのだろうと思い、対向車はいないので中央線寄りに位置を変え、速度を50k/hぐらいに落として車を抜こうとした。ところがこの車、車線に停まるのではなく、そのまま道路を横断し始めて向かいにある空き地へと移動し始めた。Uターンでもするのだろうか、車は完全に道路を塞いだ。

 一瞬で体が凍り付いた。反射的にブレーキを掛けるが、案の定後輪がロックしてKSRUは真横に向く。迫り来る車(バン)の側面。『あかん・・・。転けよか・・・』と思ったが、車の前方とガード

【写真左】:この写真を撮影した直後に事故に遭いかけた。

レールの間に僅かながら隙間があることに気付く。すると勝手に右手が動いてスロットルを開いた。そのままKSRUは前に動いて車の直前を通過。気が付くと道路とガードレールの間にある僅かな空き地に停まっていた。

 一瞬、何が起こったか分からず呆然としていた。数秒後、助かったことが分かる。次に出てきたのは『怒り』。運転席を見ると、地元のバカ風の若者が2人座っている。あちらも呆然としていた。文句を言ってやろうかと思ったが、『こんなバカに怒ってせっかくのツーリングが台無しになっては勿体ない』という考えがいきなり浮かんだ。見ると、こちらもあちらも損傷していない様子。KSRUも何事もなかったようにエンジンが動いている。なんら問題ない。再びKSRUで動き出した。

 現場を去った途端に心臓がバコバコとなっていることに気が付く。足も震えてきた。何事もなかったのは『奇跡』としか言いようのない出来事だった。2kmほど進んで、対向車線側にあった待避帯に停まって落ち着くのを待った。

○本州へ

 今時の若者はすぐに「逆ギレ」する輩が多い。先ほどの車も追っかけてくるかと思ったが、大都市と違って人間ができているのだろうか(?)、追ってくる様子もなかったのそのまま走り続ける。

 大島町に入ると日本三大潮流の一つである大畠瀬戸を見ながら走る。やがて大島大橋が見えてきた。大島大橋は1976年(昭51年)7月に完成した全長1020mの連続トラス橋。最大スパン325mの大橋は、連続トラス橋としては日本第2位の長さ

だそうだ。かつては有料だった大橋だったが、1996年(平8年)6月より無料開放された。

 R437とr4との交差点を右折すると大橋に入った。橋を渡ると眼下に大畠瀬戸を見ながら進んで行く。対向2車線道なので停まってゆっくりと見る事は出来ない。少し速度を落として進んで行く。ゆっくりと漁船が橋の下をくぐって行くのを見て「橋を渡っているな」と感じた。1kmほどの橋を渡るとそこは本州。あっという間に大畠大橋を渡ってしまった。橋の本州側にある広いスペースは昔の料金所跡だろう。ここで停まって一息入れた後、R437を北上した。

【写真右】:R188から撮影した大島大橋。ここを渡ってきた。隣の線路はJR山陽本線。

 R437本州区間に入る。道は整備・改良された2車線道となっている。アップダウンが連続するが、整備されているので大変走りやすい。山口県由宇町にある由宇温泉に寄ろうかと思ったが、時間の都合でパスする。帰りは柳井からフェリーで四国に渡るつもりでいたので、その時間に間に合わないかも知れないと思ったからだ。

 R437は山間を淡々と進んで行く。最近まで狭路があったそうだが、今では道は整備されている。山間の農村を繋ぎながら進むが、沿道の風景を見ているとローカル国道という雰囲気が漂う。整備された2車線道をKSRUがただ1台だけ走っているという状況もあった。マイペースで進んで行き、15:30前に山口県玖珂町のR2との交差点に到着した。

1.「カープ坊や」発見。この近くに広島カープの

  練習球場があった。

2.ローカル国道然としたR437。ガードレールは

  やはり黄色。

3.R2との交差点近くで発見した謎の像。「ライオ

  ンキング」の一場面を再現?

 交差点角にあるGSで給油した後、今度はr70(県道柳井玖珂線)に入る。こちらも山間の農村地帯を抜けるローカル県道。道は整備されているので走りやすい。淡々とマイペースで走って行く。30分ほどで柳井市街に到着。R188に入り岩国方面に少し進んで16時前に柳井港に到着した。

 山口県本土(本州)を走っていたのは1時間ほどであった。柳井港からは防予汽船のフェリーに乗り、再び四国の三津浜港に戻るのだ。

○四国へ

 16:15発の防予汽船に乗船することが出来た。乗船券売り場では『固縛承認書』というバイクを(ロープで)固定することを承認する用紙に証明させられた。あちこちのフェリーに乗っているが、このような用紙に記入させられたのは初めてだった。

 フェリーには車・乗客は少なく、かなりゆっくりと過ごすことが出来た。瀬戸内海には本州・四国を結ぶフェリー航路がいくつかある。それらをうまく利用すれば、原付バイクでもかなりの距離を稼ぐことが出来るのだ。ただ残念なことに、どこの会社も経営が苦しいのか、経費のかかるフェリーは減便や航路廃止が目立つ。それでも是非ともがんばってもらいたいものだ。

 防予汽船は柳井港を出た後、大畠瀬戸を東に向かい大島大橋をくぐる。2時間ほど前に渡った大橋を甲板の上から撮影。夕陽をバックに大橋を撮影することが出来た。しばらく船の上から屋代島を見ていたが、寒くなってきたので客室に戻った。フェリーは屋代島の北側を通り、柱島沖を通過して三津浜に向かっていた。60年ほど前は連合艦隊の船舶をあちこちに見ることが出来た海域だが、今は漁船やフェリーが行き交う静かな海となっている。

1.柳井港を出港。山口県(本州部分)にはわず

  か1時間ほどの滞在であった。

2.フェリーは大島大橋をくぐる。向かい側は屋代

  島。下から見上げると巨大な橋だ。

3.夕陽をバックに撮影。夕方には完全に晴れた。

  晩秋の夕陽という感じがする。

○権現温泉

 やがて周囲は暗くなる。少しばかり寝ていたようで、気が付くと18時過ぎだった。もうすぐ三津浜港に到着するとのアナウンスが流れる。18:15、すっかり暗くなった三津浜港に到着する。9時間ぶりの四国だ。帰りのフェリーまで、まだまだ時間があるので権現温泉に向かうことにした。由宇温泉に入らなかったので、その代わりというわけだ。

 地図をちゃんと確認せず看板だけを頼りに進んだため、温泉近くで位置を見失ってしまった。そうこうしている間に、山の上にある『権現山荘』という旅館(?)に迷い込んでしまった。なぜ山の上に上ったのか今だに分からない。そこの従業員に場所を尋ねると、山のすぐ麓だという。山道を下って少し進むと権現温泉が見えてきた。

 19時過ぎに権現温泉に到着。スーパー銭湯という感じの温泉施設だ。あいにくと土曜日の晩と言うこともあり人が多い。浴槽に入ってぼけ〜としていると、浴槽で暴れていた見知らぬガキにいきなり湯を掛けられた。ガキを睨み付けるが謝る様子もない。私の様子を察してか、そのガキのじーちゃんらしき人が謝ってくれたが、ガキ自身は最後まで謝ることはなかった。躾はちゃんとしろよ・・・

 人が多いのに嫌気がさし、30分ほどで温泉から出る。他に寄る所もないので、そのまま松山観光港に向かった。

○松山観光港

 松山観光港に戻る。乗船手続きをしたが、乗船までには時間があるので、FT近くにある『博多ちゃんぽん』の店に入り、ちゃんぽん+ご飯で夕食とする。

 港に戻るとフェリー入港直前だった。暗闇の中から巨大なフェリーが近づいてくる。手際よく接岸作業を行い20:50頃に着岸した。待っているとシルバーウィングに乗ったおっちゃんが2人やって来た。めちゃくちゃ陽気な、いかにも大阪人という感じのおっちゃん達で兄弟のようだ。話を聞くと、今日は早朝にフェリーで松山にやって来て、私とは逆方向の石鎚方面に向かったそうだ。4人のマスツーリングで、みなスクーターバイクでの参加。寒いが順調に進んでいたが、とあるトンネルを出ると一面の銀世界。路面は凍結+積雪という状態であったという。「まずい!」と思ったそうだが遅かった。まずは先頭が転倒。それを見て2台目も避けようとバランスを崩して転倒。3台目・4台目も然り・・・ 結局、4台とも転倒。そこで引き返してきたという。2人は松山かどこかに泊まって明日帰ることにしたそうだが、2人は今夜の便で帰阪するという。R494で縦断しなくて正解だった。しかし、こういう天候なのに山に向かうとはなかなかの強者だ。

 21:10頃に乗船する。帰りは2等寝台を予約しておいた。関西汽船はベットに荷物棚が設けてあるので大助かりだ。通路に大きな荷物を置かなくて済む。一段落してから風呂に入り冷えた体を温める。権現温泉に入って暖めたが、港まで来る間に冷えてしまったのだ。

 風呂から出てベットに横になる。五体満足でフェリーのベットに寝転がっているのが信じられない。もしかしたら今頃は病院のベットに横たわっていたかも知れないのだ。

 1日の疲れがどっと出てきたので、23:30頃に寝てしまった。

◆11月10日(日)【大阪南港FT→自宅:28km】

○無事帰宅

 午前5時頃にアナウンスで起こされる。5:30神戸港中突堤に接岸。どやどやと神戸下船組が下船する。神戸港で降りて自走して帰った方が早く自宅に着くのだが、寝たかったので南港まで乗船することにしていた。7:20に神戸港を出港。神戸停泊中に寝てしまい、気が付くと8時頃であった。

 甲板に出てみると空は快晴。秋晴れの天気だ。やがてフェリーは大阪港に入港。遠くにATCのビルが見える。人工島の沖を進み、8:40、大阪南港FTに接岸した。

 車両甲板に降りてみると、満載されていた車両は1/3ぐらいになっていた。ほとんどが神戸で下船したのだろう。松山観光港で会った2人も南港下船だったようだ。船内では会わなかったので、別の部屋に居たのだろう。彼らはそそくさと下船して行った。

 8:50過ぎに南港FTを出発。日曜日の朝ということで道路は空いている。のんびりと走って午前10時前に自宅に到着した。

 五体満足で怪我もなく玄関から家に入る。これでツーリングは終了した。

【瀬戸内ツーリング2002終わり】

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