●戦艦大和

 世界最大級の戦艦として、世界の海軍史にその名を残す戦艦『大和』。大艦巨砲主義の思想のもと、極秘裏に建造された巨大戦艦が日本帝国海軍に加わったのは1941年(昭16年)12月のこと。

 しかし海戦の主役は戦艦から飛行機へ移ってしまいました。

45口径46センチの世界最大の主砲は、対戦艦戦で使用されることはありませんでした。

 誕生から約3年4ヶ月後、帝国海軍の象徴と言うべき『大和』は最後の連合艦隊の一員として出撃。短い生涯を閉じました。

>>2009.04.02 Update

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●戦艦『大和』

◆『大和』型戦艦の誕生

 ワシントン軍縮条約による主力艦建造禁止の措置は1936年(昭11年)末で終わることになっていた。この後は米英日の間で激しい軍拡競争、特に戦艦を中心とする主力艦の建造競争が始まることを予期した帝国海軍では、条約が無効になる翌年の1937年(昭12年)には主力艦の建造に入れるようにと、禁止期間中の1934年(昭9年)に極秘裏に新型主力戦艦を検討し設計を開始した。20種類ほどにも及ぶ設計案が提出され、念入りに検討され結果、1936年(昭11年)7月末までに 「A140−F5案」が採用されるに至り、これにより戦艦『大和』・『武蔵』の建造が決定された。

 そして『大和』は呉工廠において1937年(昭12年)11月に、『武蔵』は三菱長崎造船所において38年(昭13年)三月に起工された。建造は軍の最高機密とされ、徹底した機密保持と情報の漏洩を防いだという。ちなみに3番艦としての『信濃』は1940年(昭15年)に横須賀海軍工廠において起工されるが、後に空母に改造。4番艦『111号艦』(艦名未定) の建造は中止されている。

【右写真】:呉工廠において艤装が進む戦艦『大和』。建造中の写真として有名な写真。1941年(昭16年)9月20日

       撮影。艦橋横左舷甲板上には15.5センチ副砲が置かれている。

>>主要要目(カッコ内は完成時の実数値)

基準排水量:61’334トン(65’000トン)

最大船幅:38.9m

速力:27ノット(27.3ノット)

航続距離:16ノットで7’200カイリ(10’000カイリ)

主砲:46センチ砲三連装三基九門

副砲:15.5センチ砲三連装四基十二門

高角砲:12.7センチ砲連装六基十二門

航空機:水偵・観測機7機(6機)

重油満載量:63’000トン

◆戦艦『大和』の活躍

 『大和』は1940年(昭15年) 8月8日に秘密裏に進水する。この日、軍は呉市全域で防空大演習を行い国民の目を逸らすという念の入りようで、進水式も極秘裏に関係者のみで行われた。その後、偽装工事が行われ完成。1941年(昭16年)12月16日、戦艦『大和』は帝国海軍に引き渡され連合艦隊の一員となり、連合艦隊の第一戦隊に編入された。【右写真】1941年(昭16年)10月20日、宿毛湾での公試運転中の『大和』。

 1942年2月12日には連合艦隊旗艦となり、連合艦隊の象徴ともなった。 1942年(昭17年)6月、『大和』はミッドウェー海戦に参加するが、この海戦において帝国海軍は主力空母4隻を敵の航空攻撃で失ってしまう。すでに海戦の主役は戦艦から飛行機へと移ってしまっていた。戦艦対戦艦という海戦は過去のモノとなっていたのだ。

 1942年(昭17年)8月5日に戦艦『武蔵』が竣工し、翌43年(昭18年)2月11日、連合艦隊旗艦は『大和』から『武蔵』に変わった。この年の『大和』は内地と連合艦隊の拠点であったトラック諸島の間を往復するだけで、活躍することはあまりなかった。この時期は大きな作戦がなかったためでもある。

 1943年(昭18年)12月末、『大和』は米潜水艦「スケート」の魚雷攻撃を受け、右舷第三砲塔付近に1本の魚雷が命中した。第三砲塔上部火薬庫が浸水したが、強力な防御力により被害は軽微なものであったという。

 翌44年(昭19年)1月末に呉に帰還。修理と改装工事のため1月ほどの間ドック入りとなり、 副砲2門の撤去と対空砲・対空機銃の増設、電探(レーダー)を増設するなど、対空防御能力を向上させている。

 改装終了後は再び南方に出動。1944年(昭19年)6月15日、『あ号作戦』発動によりマリアナ沖海戦に参加。同海戦では空母『大鳳』『翔鶴』『飛鷹』(他に油漕艦2隻)が沈没、航空機ならびにベテラン搭乗員多数損失など帝国海軍は大損害を被った。

 この後、『大和』は呉に帰還するが7月には南方に進出する。44年10月18日、『捷号作戦』発動により出動。一連のフィリピン沖海戦(レイテ沖海戦)に参加。直撃弾を受けるなど損傷を受けるが、作戦終了によりブルネイに帰還する。この海戦では、戦艦『武蔵』が激戦の後、10月24日19時35分、魚雷20本、爆弾17発、至近弾20発(諸説あります)を受けてシブヤン海に沈没した。他にも多数の艦船が沈没し、帝国海軍はその

海上戦力の多くを失っている。【右上写真】フィリピン沖海戦で撮影された『大和』。艦橋横の副砲は撤去されている。

 なお、『大和』の主砲が敵艦に向けて発射されたのはフィリピン沖海戦(サマール沖海戦)だけであった。

◆沖縄海上特攻作戦

 敗北に終わったフィリピン沖海戦(レイテ沖海戦)から呉に帰還した『大和』は、修理の後、瀬戸内海で待機状態が続くことになった。1945年(昭20年)1月、第二艦隊が編成されて『大和』は第二艦隊旗艦となる。第二艦隊は当時の連合艦隊の中で、まともに稼働できる艦艇を集めた、いわば”最後の連合艦隊”であった。

 同年3月19日、瀬戸内海一帯をアメリカ艦載機が空襲を行った。瀬戸内海に停泊していた連合艦隊の艦船の多くは被害を受けたが、幸いにも『大和』は被害を受けることなく切り抜けた。このとき実に15’000発もの砲弾を打ち上げたそうだ。

 3月25日、アメリカ軍は沖縄の慶良間諸島への上陸を開始。翌26日、連合艦隊は『天一号作戦』を発令。戦艦『大和』を囮として敵機動部隊を九州方面に引き寄せ、内地からの航空攻撃により叩こうと計画した。『大和』は豊後水道を通過して佐世保に前進・待機するよう命じれた。3月28日、『大和』は呉を出港して豊後水道に向かう。しかし同日、米機動部隊が南九州一帯を空襲したため作戦は中止となり、『大和』は引き返し広島湾に仮泊した。

 4月5日、連合艦隊司令部より、『第一遊撃部隊(大和)と第二水雷戦隊(軽巡『矢矧』と駆逐艦8隻)で海上特攻隊を編成し、4月8日黎明に沖縄に突入すべし』という命令が発令された。わずか8隻の艦船で沖縄西方海上に突入し、敵水上艦艇ならびに輸送船団を撃滅せよというものであった。

 出撃は翌6日。それまでに燃料を搭載して、可燃物や不要な物、乗組員の私物は全て陸揚げしなくてはならなかった。また乗組員には髪や爪を切って最後の手紙も出すようにとの通達もあり、乗組員は慌ただしく出撃準備を行った。

 なお、4月3日には海軍の少尉候補生73名が『大和』と『矢矧』に着任していたが、彼らは全員5日の夜に退艦させられている。

◆片道燃料の話

 この海上特攻の話では、『大和以下各艦艇は片道分の燃料だけを積んで出撃した。帰還することを最初から考えていないとんでもない作戦だ』というようなことが伝えられている。この話は誤りである。戦後になって、『海上特攻』の話を悲劇的に演出しようとした人達か、真実を確かめることなく書いた人達が広げた話である。

 事実は、『大和』以外の艦船は燃料を満載して出撃している。『大和』も満載とまではいかなくても、約4000トンの燃料を搭載して出撃している。『大和』の場合だと、内地から沖縄まで出撃して作戦行動を行い帰還するには十分な燃料であった。『大和』以外の艦船も燃料を満載にして出撃しなければ、搭載量の少ない残存駆逐艦が佐世保へ帰投出来るはずもなく、例の話が全くの作り話であることを証明している。

 ではなぜこういう話が出てきたか?当時の連合艦隊司令部にある帳簿上では燃料は半分(片道分)しかなかった。そこで司令部では、片道分の燃料で出撃させることを命令するつもりであった。

 しかしそれでは「武人の情けに非ず」と、第二艦隊機関参謀ならびに関係者の尽力により帳簿外燃料を集めることになった。帳簿外燃料とは重油タンクの底に残っている燃料のこと。この燃料は在庫とみなされずに帳簿外として扱われていた。それらを手押しポンプで集めるなどすればかなりの量がまだあることになる。

 この結果、呉鎮守府機関参謀の命令により帳簿外燃料がかき集められ、各艦艇には満載の燃料を搭載することになったのである。

◆戦艦『大和』の最後

 1945年(昭20年)4月6日15時20分頃、『大和』を初めとする海上特攻隊は徳山の三田尻沖を出発する。艦隊が豊後水道にさしかかる付近で、米潜水艦に発見されるがそのまま予定進路を進んだ。翌4月7日午前6時、大隅海峡を通過。艦隊は『矢矧』を先頭、『大和』を中心とする輪型陣を取る。

 その後、午前10時すぎに米哨戒機の接触を受け、それから約2時間後の12時30分過ぎに米艦載機群襲来。以後、約2時間半にわたって386機の米艦載機の攻撃を受けた。『大和』を始めとして各艦艇に襲いかかる艦載機に対して、壮絶な戦闘が展開された。しかし執拗な米艦載機の攻撃により、『矢矧』を初めとする各艦艇は次々に沈没する。

 最大の標的である『大和』にも数多くの艦載機が攻撃をかけ、最終的に爆弾は6発、魚雷は10本(一説には14本)が命中した。魚雷はうち8本が左舷に集中し、これが致命傷となり『大和』は左に向かって大傾斜していった。

 そして14時23分、艦底を露出するほど左側に大きく傾くと突然大爆発を起こして沈没した。(前部弾薬庫の弾薬が誘爆したことによるとされている。) 爆発による火柱は上空6000mにまで上がり、鹿児島より見ることが出来たと言われている。沈没地点は九州坊ノ岬沖90カイリの地点。北緯30度22分、東経128度3分の位置であった。

【右写真】戦艦『大和』の最後。大爆発を起こして沈没した。左側に駆逐艦3隻が写っている。 左より『霞』

      『初霜』『冬月』と言われている。

◆眠る戦艦『大和』

 沈没した戦艦『大和』は、北緯30度43分、東経128度4分、水深345mの海底に静かに眠っている。船体は3つに別れており、原型をとどめている艦首は北西方向に、同じく艦尾部は東方向に向けている。艦中央部は原型をとどめておらず、艦首と艦尾のある地点から南にに転覆した状態で眠っているとのこと。

 出撃時の『大和』乗組員総数は3000名近くになると言われている。これは終戦時の命令により書類が焼却処分されたため正確な数字が残っていないためだ。このうち生存して救助された『大和』乗組員は約200名。第二艦隊司令の伊藤長官、有賀艦長以下、乗組員約2800名は『大和』と共に今も眠っている。

◆戦艦『大和』以外の艦艇の最後

 1945年(昭20年)4月7日の戦闘では、戦艦『大和』ならびに軽巡洋艦『矢矧』と駆逐艦4隻が沈没したが、駆逐艦4隻が佐世保に帰還している。戦艦『大和』の最後は本が出版されたり映画化されたりして有名な話となっているが、他の艦艇の最後がどうなったのかはほとんど知られていない。

 以下に『大和』以外の各艦艇について簡単に述べる。

>>軽巡洋艦『矢矧』(沈没)

 1943年(昭18年)12月に竣工した『阿賀野』型軽巡洋艦4隻のうちの1隻。僚艦として『阿賀野』『能代』『酒匂』があった。

 大隅海峡を出てからは『大和』の前方約1000mの位置を進んでいた。戦闘が始まって15分ほどして右舷船尾に魚雷が命中し航行不能に陥る。その後、米艦載機の集中攻撃を受け、爆弾12発と魚雷7本を受ける。艦は大きな被害を受けたが、搭載魚雷放棄や火薬庫への注水など、乗組員の臨機応変な対応により最後まで爆発や沈没を免れていた。甲板が海水に洗われるほどになっても機銃を撃ち続けていたそうである。しかしついに力尽き、14時5分頃に沈没した。

 なお、漂流する『矢矧』乗組員に対して、米艦載機は執拗な機銃掃射をおこない、それによりさらに多くの犠牲者が出てしまったという。

>>駆逐艦『朝霜』(沈没)

 1943年(昭18年)1月に竣工した『夕雲』型駆逐艦(計20隻)の15番艦。

 1945年(昭20年)4月7日11時頃、エンジン不調により艦隊より単艦で脱落。その後、米艦載機の攻撃を受けて沈没。乗組員は全員戦死した。なお日本海軍関係者で『朝霜』の最後を見た者は1人もいない。

>>駆逐艦『浜風』(沈没)

 1941年(昭16年)6月に竣工した『陽炎』型駆逐艦(計18隻)の13番艦。 真珠湾攻撃を初めとして、大東亜戦争(太平洋戦争)における主要な作戦の多くに従事した。フィリピン沖海戦にも参加して沈没した『武蔵』乗組員を救助。また空母『信濃』の呉への回航では護衛として同行し、結果的に乗組員を救助している。そして海上特攻作戦では『大和』の護衛として同行。『大和』型3隻に深い関係を持つ駆逐艦である。

 『浜風』は乗組員全員が密な連携を持つよう訓練されており、そのおかげで各作戦でも大きな被害を受けずに乗り切ってきた。海上特攻作戦でも連携プレーによって米艦載機からの魚雷・爆弾を避けていたが、一瞬の判断ミスにより右舷艦尾付近に直撃弾を受けて両舷推進器が脱落して航行不能なった。その後集中攻撃を受けて、4月7日12時49分、船体は真っ二つに折れて沈没した。

>>駆逐艦『磯風』(日本海軍によって処分され沈没)

 1940年(昭15年)11月に竣工した『陽炎』型駆逐艦(計18隻)の12番艦。『浜風』共々艦名としては2代目となる。(初代は大正時代に竣工し、昭10年に退役) 同型艦の『浦風』『浜風』『谷風』と共に第十七駆逐隊に配備されて、主要作戦の多くに参加。『大和』型3隻に深い関係を持つのも『浜風』と同じである。

 4月7日、第一波・第二波の攻撃を受けるが巧みにかわして無事であった。13時30分頃、炎上中の軽巡『矢矧』からの「近ヨレ」という信号によって『矢矧』に近付いている最中に被弾し浸水。推力軸受けが焼き付き、操舵室までも浸水し操艦不可能となった。米軍攻撃終了後、『雪風』により処分され沈没。

>>駆逐艦『霞』(日本海軍によって処分され沈没)

 1939年(昭14年)4月に竣工した『朝潮』型駆逐艦(計10隻)の9番艦。真珠湾攻撃を初めとする主要作戦の多くに参加した。42年(昭17年)6月、キスカ島湾口において前部切断の大破を被るが修理されて復活している。

 4月7日、攻撃を巧みにかわして無事であったが、13時半頃に直撃弾2発を受けて浸水し停止。沈没はどうにか免れたが、曳航することは不可能と判断され、乗組員は『冬月』に移乗。午後5時前に『冬月』の雷撃により処分されて沈没した。

>>駆逐艦『涼月』(大破しながらも帰還)

 1942年(昭17年)12月に竣工した『秋月』型駆逐艦(計11隻)の3番艦。防空駆逐艦として建造された艦であった。

 1944年(昭19年)1月15日、日向灘において米潜水艦の雷撃を受けて艦首と艦尾を失い、船体中央部の第二缶室と前後部機械室を残すだけとなったが沈没は免れて防備隊に曳航されて帰還。半年に及ぶ大修理の後に復活するが、同年10月16日に同じ日向灘において米潜水艦の雷撃を受けて、再び艦首を失った。それでも再び修理されて復活した。

 4月7日13時過ぎ、直撃弾1発と至近弾3発を受けて第二砲塔と艦橋の間に大きな破口が出来てしまい、第二弾薬庫が浸水。そのまま前進するとバルクヘッド(隔壁)に水圧がかかり破れそうになったので、後進で進むことになった。米軍の攻撃で沈没することなく生き延びたが、燃料タンクから漏れだした重油に火がつき火災が発生。また砲弾と重量物を投棄するなど沈没を避けるためにあらゆる努力を行った。

 やがて火災は鎮火。しかし3つある機関室のうち2つは破壊され、唯一残った1つだけとなっていた。この残った機関室では、応急員が円材を隔壁に押し当てて黒こげの状態で絶命していた。このおかげで缶室の爆発と浸水を防ぐことができ、後進ながらも動くことができたのである。

 コンパスは破壊されたため、短艇の羅針儀を後部指揮所に持っていき、また士官の時計に着いていた磁石も参考にして、後進ながらも佐世保に向かって進み始めた。甑島近くでようやく通信が回復。4月8日早朝には九州西海岸にまで達した。そして8日14時過ぎ、佐世保湾に到着。奇跡的な生還を果たしたが、ブイを取り錨を入れた瞬間にバランスが崩れて浸水が始まった。タグボートによって戦艦『武蔵』を建造した大型ドッグに引き込んだが着底してしまった。まさに奇跡の生還であった。

 なお『涼月』の戦死者は100名に及ぶが、前述の応急員の犠牲がなけば残る乗組員の生存も危ぶまれたのは確かである。

 戦後の『涼月』は、1948年(昭23年)に北九州市門司港の防波堤となった。現在は完全に埋め立てられて姿を見ることはできない。

>>駆逐艦『冬月』(帰還)

 1944年(昭19年)5月に竣工した『秋月』型駆逐艦(計11隻)の8番艦。防空駆逐艦として建造されたが、戦訓を生かしてハリネズミのように機銃などを装備していた。これが効を奏したようで、米艦載機の攻撃は消極的となった。ロケット弾の直撃を受けるなどして10名の戦死者が出たが、『冬月』は大きな被害を受けることなく生き延びた。『大和』『矢矧』『霞』の生存者を多数救助して佐世保に帰還した。

 その後、45年8月20日に呉に回航使用としたところ触雷。航行不能となった。1948年(昭23年)、『涼月』『柳』と共に防波堤となったが、現在は完全に埋め立てられてしまい姿を見ることはできない。

>>駆逐艦『雪風』(帰還)

 1940年1月に竣工した『陽炎』型駆逐艦(計18隻)の8番艦。戦争勃発とともに、南方作戦に参加。以後、全期間を通じて主要な作戦に参加している。

 4月7日の戦闘においては、米艦載機の猛攻を受けるもののほとんど被害を受けることなく生き延びたが、3名の戦死者を出している。戦闘終了後は『大和』『矢矧』『磯風』の生存者を救助して佐世保に帰投している。

 その後、『雪風』は舞鶴に回航されて終戦を迎え、引き揚げ船として使用された。1947年(昭22年)に賠償艦として中華民国海軍に接収され『丹波』(タンヤン)となる。『丹波』はそのまま台湾海軍の艦艇となり活躍するが、1970年(昭45年)5月に台風による座礁により大破。復旧困難な被害を受けて解体された。

 そして『雪風』の主錨と舵輪のみが帰国を果たし、広島県呉市江田島町の海上自衛隊第一術科学校敷地内に保存展示されている。

>>駆逐艦『初霜』(帰還)

 1934年(昭9年)9月、『初春』型駆逐艦の3番艦として竣工した。海上特攻作戦に参加した艦艇の中では最も古い艦であった。開戦後は南方戦線で活躍。1942年(昭17年)中頃からはアッツ島攻略戦など北方作戦に従事した。44年(昭19年)からは再び南方戦線で活躍。45年(昭20年)の北号作戦でシンガポールから戦略物資を緊急輸送して内地に帰還している。

 海上特攻の命令が発令された時、最初は『初霜』『霞』は入っていなかったが、第二艦隊から連合艦隊司令部への意見具申により作戦に加わった経緯があった。

 4月7日の戦闘では、攻撃により通信能力を失った『大和』の通信代行艦として活躍。『大和』の至近距離に位置していた。それにもかかわらず、一人の戦死者も出さずまた被害を受けることなく無傷で戦闘を生き延びた。『大和』沈没の電報文を連合艦隊司令部に打電したは『初霜』であった。戦闘終了後は『矢矧』と『浜風』の乗組員を救助して帰投している。その後、日本海側に回航されるが、45年(昭20年)7月30日に宮津湾において対空戦闘中に触雷して擱座している。

◆よく分からない海上特攻作戦発令の真相

 米軍が沖縄に侵攻してきた1945年(昭20年)4月の時点で残っていた戦艦は『大和』『長門』『伊勢』『日向』『榛名』だけでした。海軍(司令部)では残存艦艇の多くを浮き砲台として活用するつもりでした。すでに戦艦の存在意義も薄れ、また残る燃料も少ないので艦隊決戦をするような余裕も資材もなかったためでした。もちろん『大和』も例外ではなかったのですが、現場である第二艦隊司令部の働きかけにより繁留されずにいました。

 当時の連合艦隊司令部内では『大和』の処遇について悩んでいました。大金の税金を使って建造した『大和』が、もし敵の手に渡ってしまったら日本海軍は世界中の笑い者になる。それよりも国民に対して申し開きがたたないというのです。

 1945年(昭20年)3月末、アメリカ軍は沖縄に上陸を開始します。この頃、『天一号作戦』を上奏した海軍首脳に対して天皇陛下が『海軍にはもう海上部隊はいないのか』と質問されています。

 このこともきっかけとなり、”日本海軍の誇りである戦艦『大和』にふさわしい死に場所”として沖縄への海上特攻作戦を発令しました。強く押し進めたのが神重徳参謀長でした。一方で司令部内部では、貴重な重油や弾薬・人員を無駄にするようなことは避けたいという意見があり、作戦自体に反対もしくは疑問視する人達も多くいました。最後の特攻機に乗った宇垣中将や沖縄守備隊陸軍司令官の牛島中将も作戦には否定的な意見でした。しかし心情的な面からと、何よりも天皇陛下の一言で、実施に同意したというのが真相だと言われています。

 作戦終了後、第二艦隊司令部は、『水上特攻とはいえ基地航空と緊密な連携をとることが絶対条件である』との内容の戦訓をまとめています。また『思イツキ作戦ハ精鋭部隊ヲモミスミス徒死セシムルニスギズ』と連合艦隊司令部の作戦を痛烈に批判しています。

 『大和』も浮き砲台として活用することを貫き通していれば、『大和』を初めとする艦艇の沈没もなく多くの戦死者も出さずに済んだのかもしれません。が、これは今だから言えることであって、当時の状況では無理だったのかも知れません。海軍全てが『大和』水上特攻を希望していたのではなく、むしろ反対していた人達も多くいたことは知っておいて欲しいものです。

 なお水上特攻作戦を強く押した神重徳参謀長は、終戦後の45年(昭20年)9月15日、終戦処理のため北海道より帰還途中、飛行機のエンジン故障により津軽海峡に不時着した際に行方不明となっています。一説では、救助に来た船には背を向けて一人離れて行き、そのまま沈んで二度と浮かんでこなかったそうです。水上特攻作戦の責任を取って自決したのではないかと言われています。

『大和』10分の1模型

 

 

 広島県呉市にある呉市海事歴史科学館(通称:大和ミュージアム)には、戦艦『大和』を10分の1サイズで復元した模型が展示されている。この模型は『大和』の原図と潜水調査による画像、生存者の方々の証言、多くの研究家の協力、そして膨大な資料をもとにして新たに図面を起こし建造されたもの。岡山県玉野市の造船所で建造され、進水式まで行ったことはニュースにもなった。最終的な艤装は呉市音戸町の山本造船で行われ、最終状態の戦艦『大和』が精密に復元された。

▲艦首正面から。水上の部分しか知らなかったので、こう見ると意外と細く

 見える。逆光状態なのはご容赦・・・m(_ _)m

▲艦尾をやや煽りで撮影。喫水線下の状態が良くわかる。スクリュープロペ

 ラは4枚。中央に舵がある。

▲第一・第二主砲と第一副砲。第二主砲の上にも25mm3連装機銃がある。

 副砲が巡洋艦の主砲であることは有名。

▲上から見た艦橋付近の中央部。ご覧の通り対空戦闘のための機銃群が

 大幅に増設されている。

▲艦尾。第二副砲と第三主砲。飛行機は零式水上観測機。

▲開館当初はなかった水観の模型が設置された。多分1/10サイズ。

▲左後方から。 左舷側面から艦尾はこういう状態。

▲斜め上から全景。艦首からの写真がないのは逆光で真っ暗だったため。

▲艦橋付近。 マストや電探(二十二号か?)まで精密に復元されている。

▲右前方から艦橋付近を見る。高角砲・機銃などの配置が分かる。

▲左舷舷側。格納庫は短艇の収納庫だったように記憶している。主砲の衝

 撃でバラバラになるため収納する必要があったとか。

▲艦尾の舵とスクリュープロペラ。

 

▲船首下のバルバス・バウ。

▲1/10サイズの『大和』を建造した造船所のプレート。

【写真】平成20年(2008年)4月17日撮影

 10分の1模型とはいえ全長は26.3mもある。昔、小学生の頃に作っていた田宮模型のウォータラインシリーズの700分の1模型とは比べ物にならない・・・。当たり前か。(^^;)

 模型とはいえ、ここまで精密に復元されていることに驚く。聞くところでは、指摘を受けてあちこち修正しているとのこと。いずれは完全な形となるのだろう。当初計画では砲塔を動かしたり、スクリュープロペラが回るようにする予定だったが、予算不足で実現できなかったそうだ。限られた予算内でここまで精密に復元した、関係者の方々の熱意には頭が下がります。

【戦艦大和 終わり】

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