【ざっきちょう】

いろいろなことを書いています。

過去の雑記帳

【2002年〜2003年】

『過去の雑記帳』です。昔の『雑記帳』、『こんな出来事ありました』を載せています。

各サイトに戻られる場合は、プラウザの『戻る』を押していただくか、ページ最下段のバナーを押して下さい。

雑記帳TOPへ戻る

○過去の『管理人@あめふらし』の独り言(2002年2月3日〜2004年1月6日掲載分)

◇我、帰還セリ・・・ 【掲載:2003.11.06〜2004.01.06】

◇9月中旬からの約3週間と10月中旬からの約1週間、沖縄県渡嘉敷島に長期出張に行っておりました。渡嘉敷島は

 沖縄本島から西にある慶良間諸島の一島で、諸島の中では沖縄本島に一番近い島です。太平洋戦争末期の沖縄戦

 では、本島上陸作戦の支援基地とすべく、本島に先駆けて1945年(昭20年)3月末にアメリカ軍が上陸。島民の集

 団自決があったなど悲しい歴史がある島です。

◆『あめふらし』の異名の通り、今回も台風がらみでかなり泣かされました。まずは台風14号の接近で出発が1週間延

 期となり期間が短くなりました。まぁ、このおかげで阪神のリーグ優勝を大阪で見ることが出来たので良しとしましょう。

◇島に渡った直後の週末、台風15号の影響で大雨。関西での暴風雨並みの雨風が、あちらでは強風域の雨風でし

 た。向こうの人は、「こんな雨風、並みですよ」 確かに小学生は傘さして平気に登校していましたけどね・・・。しばらく

 海は大荒れでフェリー・高速艇とも欠航。3日ほど島に閉じこめられました・・・。ちなみに、このときの大雨で島の水不

 足は解消されました。

◆一時帰阪のため10月上旬、島を離れることに。ところが沖縄南方に停滞した熱帯低気圧の影響で、島は凄い風雨。

 しかも海は4m近い大時化。高速艇は欠航。フェリーも欠航かと思われましたが、高校の修学旅行の団体さんがいた

 ために運航してくれました。しかし揺れる揺れる・・・。最初ははしゃいでいた高校生達はすぐに静かになりました。

◇10月中旬、再び渡嘉敷島へ。時同じくして太平洋の南海上に台風17号台風18号と2つの台風が発生。気圧配置

 の関係で、2つとも沖縄本島からは遠く離れた海上を北東に向かったので、直接の影響はありませんでした。

◆仕事を終え、とりあえず沖縄本島に戻る日のこと。大陸からは高気圧が張り出しましたが、北日本付近に低気圧が停

 滞したために一時的に冬型の気圧配置に。南には台風17号が・・・。高気圧の縁を回ってくる北風と、台風から左回

 りに入ってくる風による相乗効果により、この日は朝から凄い風が吹いていました。台風17号間接的な影響があっ

 たのです。もちろん海は大荒れです。4m〜5mもの大時化。高速艇は全便欠航。フェリーも欠航のはずでしたが、こ

 の日も本島に戻る修学旅行の高校が2校もいたので運航することになり、どうにか那覇に移動することが出来ました。

 ちなみにこのときフェリーは洒落にならんぐらい揺れ、波をもろに受けていました。約400名の高校生達も、すぐにグ

 ロッキー状態に・・・。大変な修学旅行となったようで。

◇断っておきますが、台風も熱帯低気圧も、私は召還していませんよ。(^^)

◇さておき、渡嘉敷島についてですけど、良い島でしたよ〜〜。(゚∀゚)イイ!

 島の人達はとても親切でした。子供達は人懐っこくて素直(純粋)で、すさんだ子供はいません。島の大人達は島の

 子供達をみんな知っていて、島の大人がみんなで子供の面倒を見ているような感じでした。本土の田舎では薄れ始め

 ている『地域ぐるみ』(この場合は「島」ぐるみ)での付き合いが、ちゃんと残っていて羨ましかったです。

◆週末の晩になれば、どこかの家で宴会が。私のような「余所者」でも、近くを通っただけでも呼んでくれて宴会の和の

 中に入ることができます。下戸なのでほとんど参加しなかったのは、今考えると勿体ないことをしたかもね・・・

 それ以外でも、普段から島の方達の人情を肌で感じることが出来た約一月の出張でした。

◇魚は新鮮でおいしく頂きました。ゴーヤチャンプルは苦くなかったし、家によって違う味のするサータアンダギーもたら

 ふく頂きました。喰っちゃ寝だったので太りましたね。痩せなくては・・・(^^;)

◆一月近くも滞在したので、渡嘉敷島には特別な思いが出来ました。離島する日、お世話になった人達が見送りに来て

 くれた時はうれしかったです。マジで。また渡嘉敷島に行きたいですねぇ。今度は仕事抜きで。そんでもって自分のバ

 イクに乗って訪問したいです。

TOPに戻る

◇ツーリングを終えて・・・ 【掲載:2003.09.11〜2003.11.06】

◇今年もどうにか長距離ツーリングに出かけることができました。9月から長期出張を控えているので、あまり長い期間

 をとることができなかったのですが、まぁ行けるだけありがたいと思わないと・・・。

◆さて、今回のコースは津軽半島〜下北半島〜道南というコース。メインは東北で、北海道はフェリーに乗るために上

 陸するという感じでした。今回のコースでは、コース近くに「とほ宿」や「YH」といった低料金の相部屋宿という宿はない

 ため、必然的に一般の民宿を利用することになりました。今回、初めてツーリングでビジネスホテルにも泊まりました。

 宿では個室となるので、他人に気兼ねすることなく過ごすことができます。テレビも好きな番組を見ることが出来ます

 し、寝起きする時間も自由でした。「個」を中心とした旅となったわけです。

◇しかし期間中誰とも話さないというのも寂しいので、北海道最終日はニセコのとほ宿『旅物語』に宿泊。今回唯一の相

 部屋となりました。夜の宴会や星空鑑賞会など、全く見知らぬ旅人同士で集まり、いろいろ話をすることの楽しさを再

 認識した次第です。

◆個室に泊まって他人に気を遣ったり干渉されずに過ごす旅を取るか、相部屋に泊まったりして他人とふれ合う旅を取

 るか・・・。どちらが良いかは、個人の考え方次第でしょう。若い間は、出来るだけ『他人とふれ合う』旅をしてもらいた

 いものです。

TOPに戻る

◇大滝ダム完成 (T T) 【掲載:2003.06.01〜2003.09.11】

◇2003年(平15年)4月1日をもって、奈良県吉野郡川上村に建設中だった大滝ダムの本体工事は終わったそうです。これからは細かな仕上げと周辺施設などの工事が続けられるとか。工事が公になってから(着工から?)40年かかったそうです。

◆これに先立ち、3月下旬頃よりダムを閉めて試験的に貯水を始めています。4月10日に現地に赴くと、道の駅『杉の湯川上』付近から北側はかなり水が溜まっていました。つい去年まで走っていた川沿いの旧道は水没してしまい、姿は見えません。昔神社があった所も、そこにあった遺跡も、御神木の根も、旧道沿いに生えていた草木も全てが水没。川を渡っていた橋の橋脚の一部が見えていますが、これも水没するのは時間の問題でしょう・・・

◇上流に向かって進んで行くと、4月上旬時点では移転した川上中学のある付近で流れが止まり、水が溜まっています。その先は中井戸地区付近から流れは悪くなっているので、将来は武光橋付近まで水が溜まるのではないでしょうか?最後まで残っていた下多古地区の集落は、すべて移転してしまい跡地は更地となっていました。

◆1人の釣り人が鮎釣り(?)をしていましたが、ダム湖が出来ると必ず某外来魚を放流する香具師が出てきますから、生態系もどうなるか心配です。山の生態系もおかしくなるだろうし・・・

◇ゲームのように「セーブ・ロード」などできないのが現実です。「取り返しのつかないことをしてしまった・・・」と将来悔やむことにならなきゃいいけど。

◆人間の都合で、神様を立ち退かせたらだめでしょ・・・ いずれ罰が当たりますよ。

◇2003年5月中旬、ダム周辺の道路・建物・民家などに亀裂や歪みなどが現れました。急激な貯水による圧力(水圧)の上昇によって、周囲の土地がたわんでしまったためだそうです。それほど水圧というか水の重さが凄いのでしょう。

 5月末、台風4号接近時には移り住んだ地域の人達が避難をしました。亀裂やたわみによって地滑りなどの発生を警戒してとのこと。これって神様の罰ですかね?これからの梅雨の季節、大変かも知れません。

TOPに戻る

◇イラク戦争 【掲載:2003.03.23〜2003.06.01】

◇2003年(平15年)3月20日、日本時間午前11時半過ぎ、ついに第2次湾岸戦争が始まりました。この文を書いて

いる時点(3月24日)では、アメリカとイギリスは圧倒的な軍事力でイラク内陸に向けて進軍を続けていましたが、徐々にイラクの抵抗を受けて侵攻ペースは鈍っているようです。

◆さて、この戦争についてです。私の考えは米英の行動は間違いだ(時期が早かった?)と思っています。今回の武力制裁は国連を完全に無視したやり方であり、明らかにアメリカの独走です。かといってイラクのフセイン体制は存続させるべきではないとも考えています。

 イラクの将来、それはあくまでもそれはイラク国民自身が判断することです。米英がイラク(とフセイン)の運命を、フセイン後のイラクを決めてはいけません。武力制裁は間違いだということです。

◇もう一つ忘れてはいけないことは、フセイン大統領は、第1次湾岸戦争(1991年)前や戦後に、反乱を起こしたクルド族やシーア派イスラム教徒の弾圧・虐殺を命じたことを。そういうことを他のイラク国民に見せつけて国内を治めていること。

 フセインは被害者ではなく、(イラク国民に対しては)加害者なのです。彼の側にもアメリカに攻撃の根拠を与えた責任があるのです。

◆『戦争反対!』といっている方々、ただ単に戦争と言う手段に出た米英だけを非難しているようですが、イラクも非難して下さいな。『人間の盾』に志願した人達の考えもわからん・・・

 朝鮮半島でも同じことが起こったら、同じようなことするのだろうか?

◇今回の戦争、戦場では米英が勝っても、最終的には世論誘導でフセインが勝利しそうだな・・・

◇追記

 イラク戦争は米英の圧倒的な戦力でもって一応終わりました。世論を誘導する前に敗北してしまいましたね。アメリカは情報戦でもイラクを圧倒したということでしょうか?2003年5月末時点ではフセイン本人とその仲間達は行方不明のままです。

 で、戦後のイラク。イラク国内では、フセイン体制の残酷さ、住宅地の中に弾薬庫を設けるなど国民の命を無視した(対米英戦争)政策などが次々に明るみになっています。一般の自国民の命を粗末にする一国の指導者がどこにいるのか?一般国民の生命を最優先で守るのが一国の指導者の務め。その責務を最初っから放棄していたフセインとその仲間達は失脚して当然でしょう。「解放された」と喜ぶイラクの人達の姿は本当だと思いますよ。

 で、アメリカとイギリスはイラクの人達のことはほったらかしで、仏独露と戦後イラクの露骨な主導権争い・・・ 暴動・略奪を放置しているし・・・

博物館が襲撃されて、貴重な品々が略奪されたと聞いて愕然とした人も多いことでしょう。メソポタミア文明の貴重な品々(資料)がなくなったのは米英の責任です。

 「イラク国民を助ける」と言っていたのはどこの国でしたかね?イラク国民をほったらかしで油田保護を優先ですか・・・。もうね、アホかとバカと・・・(以下略)

 

 アメリカの傲慢な態度が至る所で目立った戦争でした。これからイラクがどうなるかは誰に分かりません。イラクの未来は、米英が決めるのではなく、イラク国民自身が決めることです。

 米英主導で決められても、それをイラク(アラブ)の人が受け入れるのは難しいでしょう。「植民地の復活か?」というような印象を持つかも知れません。アラブの人々の西洋国家への不信感は、少なくとも19世紀から続き、なおかつ根強いことをアメリカ指導部は分かっているのかな?

この決定も力で押しつけられそうだな・・・

 

 空爆前のバクダットの朝は、小鳥(雀?)の鳴き声が聞こえ平穏な朝でした。この光景が早く戻りますように・・・

(2003.04.30追記)

TOPに戻る

◇手紙 【掲載:2002.12.27〜03.03.23】

◆先日、昔のフィルムを探していたのですが、いつの間にか引き出しや押入の大掃除になってしまいました。すると手紙の束が出てきました。かつてのツーリングで出会った人達からの手紙の束です。本格的にバイクツーリングにのめり込んでいった1997年9月の北海道ツーリングで出会った人達。98年9月の北海道ツーリングの時、美瑛の某宿に泊まった翌日、大雨だったので皆でお金を出し合ってレンタカーで富良野巡りをした人達などなど。あのときの出来事が新鮮に思い出されます。

 読み返してみると、皆いろいろ思うことがあって旅に出た人達ばかりでした。会社を辞めて北海道の農場で働いていた人。会社や身内関係のゴタゴタが嫌になり旅に出てきた人。宿のヘルパーをしながらあちこち移動し、北海道に移住することを決意した人・・・ みんないろんな思いで旅していたんですねぇ・・・

 『手紙』という伝達手段は結構本音を書いてしまうようです。手紙には、『旅に来て(私を含めた)いろんな人達と会ってどんちゃん騒ぎをすることで悩みが吹っ切れた』とか、『一緒になってはしゃいでいたが、実はあの時は精神的に落ち込んでいたんですけど、旅に出て元気になりました』とか書かれている方もいました。

 これって『手紙』ならではのことなんでしょう。一文字一文字から、書いた本人の気持ちが伝わってきます。『電子(携帯)メール』じゃ絶対に真似の出来ないことなのです。

 メールは手っ取り早いのですが、受け取ったメールを見ても相手の顔がすぐに浮かんできませんが、『手紙』ならすぐに思い出します。『手紙』のいいところです。

◆1997〜98年頃といえば、携帯電話のメールサービスが始まるか始まった頃。メール機能付きの携帯を持っている人は少ない頃で、今のようにメアドを交換するのではなく、互いの住所を教えあっていました。

 記念撮影した後に『写真送るから住所教えて』という風にして、いわゆる「住所交換会」という一種の儀式を良く見かけました。それは誰かが一方的に始めるのではなく、自然と始まる儀式でした。一種の連帯感(仲間意識?)が生まれていたんでしょうね。

 旅を終えてから、焼き増しした写真を相手に送る。便せんに汚い字で色々と書いて送ったものでした。多い時は、15人以上の相手に送ったことがあり、そのほとんどからお礼の手紙と写真を送ってもらいました。

◆いつごろからでしょうか。「住所交換会」という儀式を見なくなったのは?1999年を境にあまり見かけなくなったように思います。『住所を教えるとストーカーのようにつきまとわれた・・・』という話を聞くようになったのもこの頃。どうやら身の安全のためにほとんど教えることはなくなったようです。(それはメアドにも言えることですけど・・・)

 聞きたくても、そういう風に見られるのが嫌で、私自身も住所を聞くことはしなくなりました。聞かれたら教えるようになったのですが、聞かれることは皆無に・・・ 以来、『手紙』は激減しました。

 自分自身にも原因があるのですな・・・

◆2002年10月に北海道旅行に行きました。(時間の都合で飛行機+レンタカーで・・・) で、いつも泊まる某とほ宿で「住所交換会」を久々に見ました。そして道中、清里峠から開陽台まで車に乗せてあげた徒歩旅の人に住所を教えてもらいました。なんかうれしかったですね。『あ、返ったら手紙送らなあかんな・・・』と自然に考えていました。昔に戻っていたのですな。

◆先日ようやく徒歩旅の人に手紙を書きました。<(_ _)>オソクテスンマセン 写真を一緒に撮影したのでその写真を送るためです。手紙自体は年何通か出しているのですが、ここ数年は怠けてワープロ打ちの文章を印字した手紙を送っていました。そんな手紙が味気ないと指摘してくれた人がいたので、今回は一発奮起して自筆の手紙を送ることにしました。

 便箋にペンであれこれと書いたのは何年ぶりでしょうか?ワープロ打ちならすぐできるのに、なんと3時間もかけて何枚も書き直しました。1枚書いては赤ペンで添削したり書き加えたりしていたのです。気が付くと、最初考えていたのとは全く異なる、まとまりのない内容の手紙が出来上がりました。しかし乱筆・・・自分では精一杯綺麗に書いたつもりなんですけど・・・(^^;) 

 書き終えた後、妙な満足感。自分の手で直筆で書いたことで、それなりに気持ちのこもったであろう手紙が出来上がったからでしょうか? う〜〜む、単なる自己満足か?

 直筆の手紙にはワープロ打ちの手紙やメールにはない、書いた人の想いを伝える何かがあるんでしょうね。やはり封書の手紙は直筆に限ると再認識した次第です。

◆来年からは直筆の手紙を書くことにします。と、その前に汚い字を何とかしないと・・・ 

TOPに戻る

☆乗鞍スカイライン その2 【掲載:2002.11.02〜12.27】

 2002年10月31日をもって乗鞍スカイラインの営業は正式に終了しました。これで来年からはバイク・車で畳平まで登ることが出来なくなりました。

 実際には、積雪のために10月27日(日)をもって営業は終了。10月25日頃から日本列島は冬型の気圧配置になり、真冬並みの寒気がなだれ込んだのが原因。標高2600mを越える畳平には1m以上の積雪があったとか・・・ 例年なら積雪があればすぐに営業終了だったのですが、最後の年ということで、道路公社もギリギリまで閉鎖を延ばしていたようです。それでも積雪が1mを越えている状態では危険なため閉鎖を決定したのでしょう。

 2003年開通時より、乗鞍スカイライン全区間と長野県側のr84(乗鞍エコーライン)の三本滝〜畳平の間はバイク・車は全面通行禁止となります。タクシーとバスのみ走ることが出来ます。上高地と同じく、駐車場にバイク・車を停めてタクシーもしくはバスで畳平まで登ることになります。ちなみに駐車場は、夏場は使用していないスキー場を使い、出来る限り新たな駐車場を造らないようにするそうです。

 誤解しないで欲しいのは、来年から乗鞍や剣ヶ峰がなくなるわけではありません。ご来光を見ることが出来なくなるわけではありません。単にバイクと車で走ることが出来なくなるだけのこと。乗鞍周辺にはまだまだ素晴らしいスポットがあるので、是非ツーリングや旅で訪れて下さい。

 しかし日本有数のツーリングスポットが消えてしまったのは残念です。(T T)

TOPに戻る

◇乗鞍スカイライン 【掲載:2002.09.28〜11.02】

 半年ぶりぐらいの更新です。(^^;)

 2002年(平14年)9月に乗鞍に行って来ました。御存知の通り、乗鞍スカイラインが2003年(平15年)開通時から無料開放されるのに合わせて、乗鞍スカイライン区間(平湯峠〜畳平間)と長野県側の乗鞍エコーライン(r84)の三本滝〜畳平の間への、バイク・車の乗り入れは全面禁止となり通行できなくなります。許可を受けた車・タクシー・バスは通行可能ということで、上高地と同じ措置がとられるわけです。

 自分のバイクで標高2700mまで登る日本最高所の一般車両通行可能な道路を走ろうと、今年は例年になく大勢のバイクが集まってきているそうです。かくいう私もその1人。1996年(平8年)8月にZRX400で走って以来、実に6年ぶりに走ってきました。

 あの豪快な道が来年から走ることが出来なくなるというのは、本当に残念なことです。来年から許可を受けた車・タクシー、バス・観光バスでしか走れないのですね・・・ 箱の中に入って移動するだけとなります。(T T)

 標高が100m違うだけで温度が違うことを肌で感じたり、霧が発生した時の風や空気の冷たさ、そして何よりも急カーブをいくつも曲がって、自分がまさに標高を上げながら走っているという実感を感じることが出来なくなるわけです。バイクに乗って感じることが出来る自然をほとんど感じることがないまま、畳平まで上がってしまうことになってしまうのです。

来年からは『ワシが若かったころはのぉ・・・』という感じで、昔話になってしまうのです。

 走ったことがない方は是非とも走って下さい。走ったことがある方はまた再訪されることをお勧めします。仕事なんて休んでも取り返すことが出来ます。今年を逃せば、乗鞍スカイラインは自分のバイクでは二度と走ることができなくなるのです。

 10月31日まであと30日余り・・・ 天候次第では閉鎖が早くなる可能性もあるので、チャンスは実質3週間ほどしかありません。仕事と乗鞍スカイライン&エコーライン、あなたならどちらを取りますか?

TOPに戻る

◇カーナビゲーションの功罪 【掲載:2002.03.21〜2002.09.28】

 2002年3月14日に発売されました講談社刊の漫画週間雑誌『モーニング』に連載されている、須賀原洋行氏の『よしえサンち』という漫画で、R421石榑(いしぐれ)峠のことを取り上げていました。

 話を要約すると、2001年10月末、永源寺に精進料理を食べた後名古屋の自宅に戻る作者が、カーナビで帰宅経路を検索。検索したルートで誘導されるがままにR421を三重県方面に進んで行くと、やがて道は荒れた狭路になり、不安が絶頂に達したときに石榑(いしぐれ)峠でコンクリートブロックに遭遇。パニックに陥りながらもどうにか滋賀県側のブロックを通過するが、すぐに三重県側のブロックに遭遇してしまうというお話。

 作者が乗っていたのはプリウス。実際に現地に行かれた方ならお分かりになると思いますが、あのコンクリートブロックの幅はクラウンまでが限界。プリウスの車幅では擦ってもおかしくない幅です。

 コンクリートブロックがかなりデフォルメされて大きく描かれていたり、R421の路面が廃道のように描かれていて、かなり大げさに『極悪酷道』として表現されていました。まぁそれは、作者自身の恐怖と(道路行政に対する)怒り、そして運転に集中していたために記憶がほとんど残っていなかったからでしょう。漫画ですから、多少の誇張は致し方ないでしょうね。

 この漫画で描かれているように、カーナビを利用する人のほとんどは、カーナビで設定・誘導されたルートを何の疑いもなく信じ切って走ってしまいます。示された道が整備された快適な道だろうとそうでなかろうとです。カーナビの大きな欠点ですね。

 目的地への最短距離(最善ルート)を検索してくれますが、カーナビは道(ルート)の経路は知っていても路面状態に関する情報は持っていません。整備された快適な道路だろうが、山奥を進む路面の荒れた急勾配の続く狭路の坂道だろうが関係なしに、単に『道(ルート)』として認識しているのです。市販されている地図も同じようなことが言えますが、地図によっては『この道悪路』というような注釈が付けられるのでまだマシです。

 

 カーナビを持っていると、遠出するごとにその地方の地図を買ったりする必要もなくなります。そしてなにより、『地図を読めない』案内役の同乗者がいなくなることが大きいですね。イライラが解消されますし、同乗者と不仲になる可能性を少なくしてくれますから。『地図を読めない』人にとっては自動翻訳機みたいなモノで、地図を片手にウロウロしたり車から降りて地図片手に悩むことを解消したという点では大きな功績があります。

 その反面、今回の漫画のように、安心しきってカーナビ通りに進んで行くと恐怖の体験をするという事態が発生する危険性があります。カーナビ通りに進んでいったら狭路で、泣きながら運転した人とか、車が傷だらけになってしまった人がいるはずです。カーナビを絶対的に信頼してはいけないということですね。

 

  『この先5km、狭路です』

 『この先3kmから極悪酷道です。運転初心者は行かれないほうが無難です。引き返すなら今のうち』

 

・・・という音声が流れるようなカーナビが出れば、少しはこういう被害も少なくなるのではないでしょうか?

 ところがカーナビに言わせてみれば、『最短ルートを検索しろと言うたから検索して表示しただけやんけ。走ろうとする道が、あんた(運転手)の運転技術で走ることが出来るかまで、わしゃ知らんで。えらい目に遭ったんは、ルートをよく吟味しなかった、もしくは途中でやばいと思って引き返さなかったあんたの責任とちゃいまっかぁ・・・』ということになります。その通りですね。

 カーナビで表示されたルートを走るかどうかは運転手が決めることです。走っていて道が狭くなってきたり、怪しい雰囲気が出てきたら、体裁や面目など気にせずに迷わず引き返さなくてはならないことを肝に銘じておかないといけないでしょう。1人で運転しているならともかく、同乗者がいる場合、その同乗者の安全を守る義務があるのですから、無茶なことはすべきではありません。

 

 地図があるなら、その地図で絶対に追認することが望ましいですね。地図からだといろんなことを読みとることが出来ます。例えば標高線からその道が勾配があるかどうかが読みとれます。また地図によっては『悪路危険』という表示もされています。

 カーナビや地図だけではなく、道路標識でも十分に狭路・悪路走行の危険を少なくすることが出来ます。おおかたの狭路には『この先○km大型車通行困難』とか『この先幅員減少。路肩脆弱』とかいう表示が設置されています。『この先、連続降雨量○mm以上で通行止め』という表示ある山中の3ケタ国道・都道府県道は、かなりの確率で悪路となります。

 こういう標識があれば、『この先は悪路だ』と心構えが出来るはずです。標識がある地点ならば引き返すことも可能でしょう。サインからこの先の道路状態を読むこと、なによりもそういうサインを見落とさないのも運転手の務めです。『地図が読めない』運転手でも、標識や道路の状態から『道を読める』ようになっておかないといけません。

 

 結局は、カーナビはあくまでも運転の補助機械であり、最終決定は運転する人間が決めなくてはいけないということです。カーナビ情報からの判断を3割、運転手の判断を7割で行くのがよろしいかと。

 サイトを見てお分かりのように、私は狭路とか悪路を好んで走ります。時々、カチカチに固まって怖い形相で運転している人を見かけたりします。R308暗峠では、峠の手前で『この道、国道ですよね?』と地図を片手に半泣きになって道を尋ねに来た運転手とも会ったことがあります。

 ほとんどの人は、『国道だから整備されているだろう』と思っているようですが、そんなことはありません。国道だけに絞るなら、整備されているのは国土交通省直轄の国道(R1〜R58他)と残り(R101〜R507)の6割ぐらいです。残る4割は、とても国道とは思えない狭路・悪路なのです。中には階段や登山道が国道というのもあります。 地図上(カーナビ画面上)を見て山中をウネウネと進む国道は、9割方『酷道』です。(都道府県道になると整備されている道の割合はさらに低下します。)

 

 最後に、私なりの忠告を・・・

1.全ての国道が快適な道ではない。むしろとんでもない悪路・狭路が国道ということが多い。

2.カーナビのルートを絶対に信じていけない。

3.走っている道が怪しいと思ったり、自分の運転技術では乗り越えられないと思ったら、速やかに引き返す。

4.地図は必ず持っていくこと。そして地図を読めるようになっておくこと。

 お疲れさまでした。m(_ _)m

TOPに戻る

◇アウトライダー 【掲載:2002.02.03〜03.21】

 バイクツーリングという旅行にはまって、かれこれ8年ほどになります。ツーリングに出かけるに当たって、目的地の情報というモノは、私の場合はたいてい雑誌から収集します。その主な情報収集源だった雑誌が『アウトライダー』というバイクツーリング雑誌でした。

 私がこの雑誌を知って買い始めたのは1994年(平6年)の秋頃。ちょうどバイクに乗り始めて、バイクツーリングというものに興味を持ちだした頃です。表紙をめくると、日本の美しい風景をバックに走るバイクの写真が溢れんばかりに載っていました。『バイクに乗らないと気づかない風景』があることを始めて知った瞬間でした。

 プロのカメラマンの方々が撮影される写真は旅心をくすぐる写真ばかり。雑誌で特集された地域に行き、載っていた写真の撮影ポイントを見つけた時にはうれしくて、自分でも同じ構図で撮影したものです。まぁ、所詮はアマチュア。できあがりは雲泥の差でしたけど・・・(^^;)

 長らく私のバイクツーリングの情報源として重宝してきましたが、残念ながら2002年(平14年)3月号をもって休刊となりました。バイクツーリングを始めるきっかけともなった雑誌だったので、非常に残念です。

 季刊でいいから復活しないかなぁ・・・

TOPへ戻る

お戻りはこちら