東北&北海道ツーリング2001

 

2001年(平13年)9月6日(木)〜9月18日(火)

森の中を進むR102にて

昨年(2000年)の東北&北海道ツーリングは、往路の太平洋フェリーの船内で、よりにもよって腎結石が爆発。

そんなことがあってか、昨年のツーリングは不完全燃焼のまま終わってしまった。

しかしこのまま終わらす”作り人@あめふらし”ではない。

『何があっても絶対に東北ツーリングに行くぞ!』と、9月を迎えた。

ここ数年のパターン同様、今年も東北と北海道を回ることにしてルートを考える。

今回の主な目的は『道』と『温泉』。

少しでも多くの道(国道)を走り、一つでも多くの温泉に浸かることにしていた。

 

毎年何かが起こる9月の長距離ツーリング。(^^;)

果たして今年はどんなことが起こるのだろうか?

東北&北海道ツーリング2001 その1

2001年9月6日(木):自宅→名古屋フェリーターミナル【205km】

名古屋へ

 出発の日を迎える。9月3日に台風15号、6日に台風16号が相次いで発生し、日本列島に向かって移動しつつある。それにあわせて秋雨前線の活動も活発となりつつあり、私が北に向かうのを狙ったかのように活気づく気配が・・・。もしや今年は『あめふらし』の名前の通りになるのだろうか・・・(^^;)

 出発当日の9月6日、大阪は晴れていた。ひとまずは安心。前日までに準備を済ませておいたので、昼前にバイクへの搭載を終えて置く。15時過ぎに自宅を出発。『日常』から『非日常』へ。『自由な日々』の始まりの時である。長距離ツーリングに出かける時のこの開放感がたまらない。『旅人』に戻る瞬間である。長距離ツーリングに出かける時は、出発直前まで不安が湧いてしまう。しかし不思議なもので、バイクに跨り出発するとそんな気持ちは吹き飛んでしまい、『これから何が起こるのだろう?どんな人と出会うのだろう?』などと言った好奇心に変わってしまうのだ。

 『何か起こってもどうにかなるさ』というお気楽な考え方で旅に出ることが「旅」を楽しむ大前提。何かが起きて困っても、その時は辛いことでも、旅から帰ってくると楽しい思い出になることが多い。その後の自分の価値観に大きなプラス要因ともなることもあるのだ。

 自宅を出て岸和田和泉ICから阪和道に入る。西名阪道〜名阪国道(R25)で東に向かう。奈良県内までは快晴だったが、三重県に入り東に向かうにつれて徐々に曇ってきた。そして伊賀SA近くまで来ると、これから向かう東の方角には分厚い雨雲かかっている。対向車線を走る車を見るとみな濡れている。空気にも水の匂いがして来た。『雨が降る』と、今までの経験から直感した。

 伊賀SAに入り雨具を付ける。加太TNを越えると雨が降っていた。面白くないことだが予想が的中してしまった。ツーリング初日から雨とはツイていない。雨脚が強いので、かなり慎重になってバイクを走らせる。三重県内はずっと雨が降り続き、小雨になったのは愛知県に入ってからであった。

 東名阪道蟹江ICで県道に下りる。そのまま東に向かい伊勢湾岸道路に入る。名港西大橋では横風にヒヤリとさせられた。大橋の上からはFT(フェリーターミナル)に停泊する太平洋フェリーの姿を見ることが出来た。名港中央ICで高速を下り、名古屋FTに到着したのは18:30少し前のことであった。到着後、すぐにターミナルに行きクーポン券を引き替える。ところが旅行代理店の手違いで400ccの値段で購入していたことが判明。追加料金を支払った。

太平洋フェリー その1

 例年ならばこの時期は北海道に向かうライダーがたくさん居るはずなのだが、今年はバイクの数が大変少ない。私のバイクを含めて10台足らずだ。バイクツーリングをする人が減ったのか、不況で旅行しているどころではないのか、北海道に渡るライダーの数が少なくなって来ていることを実感する。寂しい限りだ。

 待機しているライダーのほとんどは、苫小牧まで乗船して直接北海道に向かうライダー達で、バイクに『苫小牧』と書かれた紙を貼っている。隣に停まっていた2人のライダーのバイクも『苫小牧』行きだ。『仙台』行きは私と原チャ1台だけであった。

 太平洋フェリーは、バイクの積み込みは車を積み込んだ後となるので、それまでライダーは待たなくてはならない。ところがパラパラと降り出していた雨が本降りになった。つらいことだが、我々バイク組は雨の中で待たなくてはならないのだ。すると太平洋フェリーの係員は気を利かせ、無線で車両甲板員と連絡をとり交渉してくれて、なんと車よりも先にバイクを載せてもらえるようにして頂いた。こういう配慮はありがたいことだ。おかげでずぶ濡れにならずに済んだ。

 バイクを車両甲板に停めて最小限の荷物を持って2等寝台へ。指定されたベットに荷物を置き、すぐに風呂に向かう。雨で冷えた体を温めて疲れを癒す。これで生き返った。

 20時にフェリーは名古屋FTを出港。横風でヒヤリとした名港西大橋をくぐって仙台港へ向かう。出港するとレストランの営業が開始となる。去年はうかつにも寝てしまい夕食を食べ損なったので、今年は風呂から戻ってからすぐにレストランに向かう。1800円と高い料金だが、バイキング形式で何度でも「おかわり」できる。品数も豊富で、和食から洋食までいろんな食べ物が並べられ、飲み放題のお茶やジュース、コーヒもあるのだ。太平洋フェリーのバイキングは豪華だ。

 満腹となってレストランから出ると、名古屋港のバイク待機場で出会った2人のライダーと再会。岐阜県で新聞店を経営されているIさんと、愛知県に住む会社員の(ハンドルネーム)EAGLEさん。てっきり二人でツーリングかと思ったら、名古屋のフェリーターミナルでばったり出会っただけで、全くの初対面だという。私も加わって北海道の話やバイクの体験談で盛り上がる。同じバイク乗りというだけで、初対面であってもすぐに打ち解けることが出来るのがライダーの良いところだ。北海道に向かうということで共通項はいくらでもある。話のネタは尽きない。

 こういう出会いはツーリングの醍醐味。出会いをきっかけにして、長いつき合いが始まったりすることもある。実際、私も1997年の北海道ツーリングで出会った人達とは、翌年98年以来、年2〜3回ぐらいの割合で会っている。会うたびに当時のツーリングでの話などで盛り上がるのだ。こういう集まりは実に楽しい。

 さてEAGLEさんはホームページを運営しているという。私も運営しているということで、相互リンクの約束を取り付ける。旅先で相互リンクの約束をするのは、去年9月の青葉城跡での佐川さん以来のこと。ホームページを開設・運営していると、こういう出会いにも巡り会うことが出来るのだ。

 2時間ほどあれこれ話して解散。ベットに戻る。雨の中走った疲れが出てきたので、23時頃には寝ることにした。

2001年9月7日(金):仙台フェリーターミナル→仙台【16km】

太平洋フェリー その2

 9月7日は朝8時頃に船内アナウンスで目が覚める。そのままベットの中で11時頃までウトウトと過ごす。ようやく起きて甲板に出てみると快晴。広い太平洋をフェリーは仙台目指して進んでいた。甲板で昨晩会ったIさんと会い少し話をする。その後、バイキング形式の昼飯を食べる。900円分以上の食事を心がける。食後、古宮さんとも会う。狭い船内でやることがないので、プラプラしていると大抵誰かと会うことになる。

 携帯を取り出すと、アンテナが3本立っていた。さすがド○モ。海岸近くだと電波が入る。

圏外になる前に北海道美瑛の定宿『星の庵』に予約の電話を入れる。宿泊日は来週14日なのだが、この日はどうしても泊まらないとその後の予定が大幅に狂ってしまうのだ。いつもは行き当たりばったりで宿に当日に連絡する私だが、1週間も前に宿泊する所を決めておくのは今回が初めてである。8月にメールを送っていたので、すでに部屋を取ってあるという。お心配り、ありがとう。m(_ _)m

 この日の13:30より、太平洋フェリー名物の『船長トークショー&ブリッジ見学会』にEAGLEさんと一緒に参加する。太平洋フェリーは長い船旅を退屈させないように、晩は歌手やピアノ奏者などによるナイトショーを、昼はこのトークショーとブリッジ見学会などのいろんな催し物を開催してくれる。あちこちの長距離フェリーに乗っているが、こんな催し物を開催してくれるのは太平洋フェリーだけである。だから毎年利用してしまうのだ。

 フェリー『きたかみ』の岡田船長と司会役のナイトショーの女性歌手がトークを繰り広げる。ここでは実に興味深い話を聞くことができた。

  フェリー『きたかみ』は排水量14500トン。全長は忘れてしまったが、あの豪華客船『飛鳥』よりもわずか50cm短いだけだという。バイクを載せた車両甲板にはトラックを8列並べて載せることが出来るほど幅が広い。この巨大なフェリーは、設計段階で、使用される全ての材料(鉄板や固定設備からネジの1本まで)の重量が計量され、総重量が算出されるという。実際に出来る船体は、寸分の違いもなく同じ重量で出来上がるのだ。

 フェリーは燃料もよく食べる。40ノットだと1ノット当たりドラム缶14本分のC重油を消費するのだという。凄い量の重油を使って進んでいるのだ。この船は。

 発生した台風の話から船の揺れについての話になる。早朝、房総沖を航行中はかなり船が揺れていたらしい。これは現在太平洋の遙か南にいる台風15号による波すなわち土用波が絡んできているのだ。

 震幅が100波に1波だけ1.5倍の高さに、1000波に1波2倍の高さになる波を土用波というらしい。土用波に人がさらわれるというのは、震幅の大きいこの波が押し寄せて来たためなのだ。今回の台風15号による土用波と黒潮の波が増幅しあって、なんと4mもの三角波が発生していたのだ。船はその波をつっきていたために大いに揺れたのだ。こういう場合、フェリーはバラストを重くして船の重心を低くすることで揺れを小さくしているという。ちなみに9月17日と23日は『台風の特異日』となっているとか・・・

 普段何の気なしに乗っているフェリーだが、船員の人達は賢明になって快適な船旅を送れるよう努めて下さっているのだ。<(_ _)>

 トークショーが終わると、いよいよブリッジ見学会が始まる。フェリーのブリッジに入ることが出来るのは、そんなにあることではない。細長いブリッジには、全方位レーダーや気象レーダー、操舵の舵やいろんな計器が所狭しと並んでいる。航海図も広げられていた。海の神様を奉った祠もあった。

 やがて姉妹船の名古屋港行きのフェリー『いしかり』が見えてきた。『見えた』と思ってフェリーを見ていると、フェリー『いしかり』は一気に近づき、そしてあっという間にすれ違ってしまった。時間にして2分ぐらいの出来事だった。聞くところでは、海上では肉眼で3kmぐら

いしか離れていないように思っても、実際は10kmは離れているという。海流や相対速度も絡んでくるのだが、2つの船は10kmを2分ぐらいで進んだことになるのだ。

 やがてブリッジ見学会の時間も終わり、皆客室へ引き上げてゆく。私は最後までブリッジに残り、EAGLEさんに船長と一緒の記念写真を撮影してもらいブリッジを後にした。

 ブリッジ見学会が終わるともう仙台も近い。2時間ほど経ち16:45、フェリーは定刻よりも15分ほど早く仙台FTに到着。EAGLEさんと『北海道でお会いしましょう』と挨拶してフェリーを下船した。

仙台へ

 約1年ぶりの仙台FT。去年は腎結石の痛みは治まったが、いつ痛みが再発するか分からない不安な状態にあった。一刻も早く宿に行きたいという思いで一杯で、『東北に来た!』という余韻に浸る暇はなかった。今回は体調は万全。去年のようなことはない。港に降り立ち『東北に来た!』という余韻に浸る。

 仙台FTからは臨海道路を走ってR45に入る。仙台市街に向かって交通量の多い大都市国道を進んで行く。ちょうど夕方ということもあって、道は混雑していた。JR東北本線をくぐって仙台市街中心部に向かうと渋滞が発生している。ビル街の中を進む幅広な道は、大都市によく見られる光景だ。大阪のような二重・三重といった違法駐車は見られないので、渋滞と言ってもスムーズに車は流れる。

 メープル仙台YHは、東北大学歯学部付属病院近くにある住宅街の中にある。去年は場

所が分からずさんざん迷って辿り着いた。YH周辺の道は一方通行規制が行われており、

なかなか辿り着けなかったのだ。その甲斐あって、今年は全く迷うことなくすんなりと到着した。到着したのは17:30。わずか30分たらず、約16kmの東北初日のツーリングだった。

メープル仙台YH

 去年9月の時は、夕食後に腎結石の激しい痛みが再発。ペアレントさんが心配して下さり、車で救急病院まで運んで頂いた。そんなことは滅多にないことなので、かなり印象深く残っていて、1年ぶりだというのにしっかりと顔を覚えていてくれた。久々に来た宿で顔を覚えてもらっているとうれしいものがあるが、昨年は別の意味で覚えてもらっていたのだ。(^^;)

挨拶もそこそこに、去年のお礼を述べておく。

 YHの前にはバイクが2台ほど停まっていた。部屋に入ると先着の2人のライダーがくつろいでいた。ハーレーライダーのFさんは、北海道の某とほ宿で8連泊していたが、就職が決まったので岐阜県の郡上八幡にある自宅に戻る途中だという。話し出したら止まらない面白い方だった。もう1人はVTR250に乗って東京から自走してきた方。東京からだと自走して東北まで来ることが出来るのだ。関西からだと自走は出来ないことはないが難しい。関西にとって東北は遠い土地なのだ。

 夕食後、食堂兼談話室で私とFさん、後から遅れて到着したノリの良い20歳ぐらいのねーちゃんのホステラー3人とペアレントさんも含めた4人で、遅くまで観光情報などで話していた。これぞ『旅の宿』である。他にも宿泊客は居たのだが、ベットで寝ているかメールを打っているかのどちらかだった。ペアレントさんは『旅人の姿がここ数年で大きく変わってしまった』と話していた。

 私もここ2〜3年で旅先で出会った旅人の姿が変わってきたことを実感している。特にYHや一人旅の旅人が宿泊する宿での『旅人同士の会話』が激減しているのだ。特に18〜25歳ぐらいの若者に良く見られる光景だ。食後、1人で自室のベットに横たわり携帯でメールを打ち合っている。旅先まで来てメールを打って過ごすというのはどうかと思う。自宅でしている同じことを旅先でしているのだ。せっかく旅に出てきたのだから、日常は置いてくるべきなのではなかろうか。

 私も連絡用と緊急時のために携帯電話は持って来ている。しかし宿に着いても携帯話し込んだりはしない。せいぜい自宅にどこにいるかを伝えるか次の宿に連絡するぐらいしか使用しない。メール機能がない古い機種を使用しているのでメールは打てない。疲れて眠る以外は、宿では夕食後、必ず談話室に居ることにしているのだ。

 一時期、ツーリング用に小型のノートパソコンを購入しようとしたこともあった。でもそんなモノを持って来たら、食後は誰とも話すことなく、自室のベットで日記を打ち続けるか撮影した写真を編集し続けてしまうので買うのを辞めた。

 旅の面白さの1つに旅先での出会いがある。自室に居ては出会いはない。全く知らない価値観の全く異なる人と話すと、自分の価値観が分かってくるし、場合によっては自分の価値観に大きな影響を受けることだってあり得るのだ。だから『旅』を辞められないのだ。

 ふと2001年4月の九州ツーリングで出会った方の、『最近の若者の多くは旅の仕方を知らない。用意されないと自分1人だけでは何もできないのだ』という言葉を思い出した。『旅』のスタイルは時代と共に変化してゆかねばならないのだろうか。

2001年9月8日(土):仙台→鶴岡【283km】

仙台市街

 昨日は曇っていたが、今日は朝から快晴。絶好のツーリング日和だ。荷物をYHに置いて『仙台→酒田→仙台』というルートを考えたが、今晩は予約で一杯なので宿泊出来ないと言うことで移動することにした。1泊だけの仙台YH宿泊であった。お世話になった仙台YHを9時過ぎに出発する。

 この日は仙台を中心に開催される国体の開会式に、皇太子殿下が来られるということで仙台市内では物々しい警備が行われていた。至る所に警官の姿が目立ち、主要道路には

白バイやパトカーがウヨウヨと走っている。昨日、市街のあちこちで白バイやパトカーが走っている理由がやっと分かった。

 この日は『ジャズフェスティバル』も開催される。仙台市街のあちこちで路上演奏会が開かれる。聞くのは無料。参加者はアマチュアバンドからプロまで制限なし。ロックやアカペラ、ジャズに弾き語りなんでもありだ。開催される2日間は仙台市街は一大路上ライブ会場になるのだ。指定された場所では演奏の準備に追われる人達の姿が目立つ。今年は日程の都合で聞くことが出来なかったが、これは見て歩いてみると大変面白い。去年はバイクに乗らずにウロウロしてあちこちのバンドを見て回ったが、楽しく演奏している姿を見ていると、こちらまで楽しくなってきたものだった。

 青葉城に向かうFさんとR48まで一緒に走る。R48との交差点で挨拶し、彼は直進し、私は右折して別れる。TNを抜けて仙台宮城ICから東北道に入るが、ICではパトカーが数台待機しており、臨時の検問所まで設置されていた。

笹谷峠

 東北道を東京方面へ南下。山形自動車道に入り山形方面へ向かう。2車線対向の笹谷TNで笹谷峠を越えて山形県に入る。山形県最初のICである関沢ICで高速を下りてR286に入る。まずは山形県側よりR286笹谷峠に向かうのだ。

 今回のツーリングでは、もう一つのサイト(3ケタ国道放浪記)のネタ集めということで何本かの国道を走ることにしていた。このR286もそのうちの1本。昨年、仙台市から笹谷峠麓の川崎町笹谷までは走ったが、山形県内は厚く黒い雨雲に覆われていたので走行を断念したのだった。

 現在の国道の多くは旧街道そのものか、旧街道に沿ったルートを進んで行く。国道1号線は東海道、国道2号線は山陽道というようにだ。R101以降のいわゆる『3ケタ国道』の沿道には、そう言った旧街道の宿場町や町並が結構残っている。また峠越えの区間では、かつての旧街道を車道にしただけの峠道もあり、旧街道の雰囲気を色濃く残す国道もある。

R286もそんな国道の1つ。R286は笹谷街道に沿うルートで、笹谷峠を越えて仙台と山形を結んでいる。宮城県と山形県の境にある笹谷峠は、笹谷街道最大の難所。それは今も同じでR286最大の難所となっており、峠を越える区間は1〜1.5車線幅の狭路がウネウネと急カーブを描きながら急勾配の坂道となっている。とても国道とは思えない道だ。 そんな狭路を荷物満載のZRX1100で進んで行く。約19箇所のヘアピンカーブを曲がり山腹を上って行く。冬期は積雪の為に閉鎖される道で、路面の荒れた『酷道』かと思っていたが、峠の分水嶺までは登山客の車も入るために道は整備されている。約6kmの道程を

20分ほどかけて進むと、笹谷峠に到着した。山形県と宮城県の県境になっている。

 峠を越えれば宮城県なのだが、頑丈なゲートで封鎖されており進むことが出来ない。というのも、1998年(平10年)頃(?)に笹谷峠の宮城県側で自然災害が発生。山の斜面が崩れ道路が数カ所で消失してしまったとかで、宮城県側の区間(宮城県川崎町笹谷地区〜笹谷峠)は通行不可能となっているためだ。工事関係車両以外は通行できないのだ。126cc以上のバイクと車は、山形道笹谷トンネルで迂回することになっている。(注1)

 峠付近で撮影中に、たまたま現れた工事トラックの運転手に尋ねてみたところ、復旧工事はまだ当分続くとのことであった。峠付近の宮城県側は地質が脆いために、土砂崩れなどの自然災害が多いそうだ。

 頑丈なゲートを越えて行く訳にはいかない。笹谷峠のゲート前で引き返し山形市街へ向かった。

(注1)R286笹谷峠

 復旧は数年先とか廃道になると言う話も出ましたが、復旧工事は無事に終了し、2002年(平14年)4月末をもって全面開通。現在は笹谷峠を通り抜ける事ができますが、道は狭路のままだそうです。大雨が降った場合は、またどこかで崖崩れなどが起こり通行止めになるかも知れません。

 11月ぐらい〜翌年4月末までは冬期通行止めです。

山形県横断 その1

 笹谷峠山形県側の狭路を戻り関谷ICまで戻る。ここから道は2車線道となり走りやすくなる。車・トラックの姿が目立つR286を淡々と進み山形市街へ。市街へ入ると道は4車線道となる。市街地に入り山形市鉄砲町交差点に到着してR286走行を終えた。昨年走った宮城県側の区間を含め、現在走行可能区間を全区間走り終える。足かけ2年に渡った国道走行であった。

 R112に入り、一度R13との交差点まで南下。山形市街南部のR13との交差点から東北国道走行の第2弾であるR112に入る。R112は山形と酒田を結ぶ国道。山形〜鶴岡は六十里越街道に沿ったルートを進む。R112は昨年走行しようとしていた国道だったが、体調不良と悪天候によって走ることが出来なかったので、今年走ることにしたのだ。

 山形市街中心部にある一方通行区間を通り過ぎる。市街を抜けると郊外の町中へ入り、やがて水田が広がる農村地帯を進んで行く。途中で東北随一の河である最上川を渡る。東北を走っているという実感が沸く。R112は整備が進んでおり、寒河江市内では別ルートで建設されたBPを走る。寒河江市街を通り抜ける街道筋(旧R112)から離れてしまうので、沿道には旧街道の面影を残す建物は見られない。

 寒河江市から西川町へ入る。寒河江市からは寒河江川に沿って進んで行く。旧街道筋のルートに戻り、旧街道の面影が残る町を幾つか通り過ぎる。

 R112に沿って山形自動車道が通っているが、走っている車は少ない。走っているのは観光バスぐらいだろうか。ほとんどの車・トラックはR112を走っている。市街地内を除けば交通の流れは良いので、高速を使う必要はあまりないのだろう。トラックは高速代を抑えるために、ほとんどR112を走っているようだ。山間の田舎に、コンクリート製の味気ない高速道路の橋脚や橋は全く似合わない。こういう光景は日本の至る所で見ることが出来る。

 西川町にある水沢温泉館に寄る。今回のツーリング初そして東北最初の温泉だ。湯はナトリウム塩化物泉。かなり塩辛い温泉だ。浴室は明るく、室内は木をふんだんに使用しており落ち着いた雰囲気が漂っていた。のんびりと湯に浸かる。広々とした浴槽は開放感があって大変良い。これで入浴料200円というのが『温泉王国・東北』らしい。関西だと入浴料は2.5〜4倍はする。入浴料だけで遠くに来たことを感じさせてくれる。

R112大越峠旧道 

 水沢温泉を出てR112を鶴岡方面へ進んで行く。寒河江ダムで出来た月山湖畔を通り、山形道月山IC手前で大越峠を越えるR112旧道に入る。大越を超えるR112は、六十里越街道に沿って進む旧R112と無料の自動車専用道であるR112月山道路の2ルートがある。月山道路が供用開始になってかなり経つのだが、大越峠を越える旧道は今だR112のままとなっている。今回のR112走行では旧道を走り終えた後、朝日村側から山形市方面へ一端引き返し西川町でUター

ン。月山道路を往復して鶴岡に向かうことにしていた。

 R112旧道は月山志津温泉街を過ぎると山中へ入り、1〜1.5車線幅のウネウネした狭路となって進んで行く。現在の大越峠を越えるR112旧道は1903年(明治36年)に竣工した道が前身。旧六十里越街道は、旧R112のルートから遠く離れて湯殿山の北東を迂回するルートを通る険しい道だったことから、庄内と内陸を結ぶ道路として建設された。その道が1920年(大9年)に山形県道六十里越街道に指定され、1934年(昭9年)に改修工事が終わり本格的な車道となり、1953年(昭28年)に国道に昇格したのだ。道1つとっても調べると歴史があるのだ。

 大越峠に到着する。路面に横線が引かれ、その隣に『西川町』『朝日村』と書かれている。大越峠は西川町と朝日村との境になっているのだ。峠を越えて朝日村に入る。やがて湯殿山道路入口に到着。旧道のほぼ中間付近に当たる。ここから残る半分の区間に入ろうとしたが、なんとガソリンの残りが少ないことに気が付いた。旧道に入る前に残量を確認していたのだが、予想以上に燃料を消費してしまったようだ。このままでは途中でガス欠になるかも知れないので、予定を変更して月山道路に下り急ぎ西川町へ戻る。鶴岡方面の何km先にGSがあるかどうか分からないので、確実にある西川町内のGSに向かうことに

したのだ。

 R112を20kmほど寒河江市方面に戻った所にあるGSで給油する。すぐに引き返しR112月山道路に入る。志津TN・月山第一TNという長大TNを1往復し、再び湯殿山道路入口まで戻ってきた。距離にして往復40km、時間にして約40分ほどのロスだ。酷道走行の際には、残量が多くても給油しておかねばならないことを肝に銘じておく。

 鬱蒼と薄暗い山中を進む残りの旧道を走り抜ける。急勾配のヘアピンカーブを抜けると田麦俣集落へ到着。多層民家で有名な集落だ。鶴岡側の旧道分岐点に到着。ここからR112月山道路に入り寒河江市方面に向かう。高速並の走りやすい2車線道を走る。月山第2TN・湯殿山TNを抜けると湯殿山道路への連絡道との分岐点に到着。これでR112月山道路も全区間走ったことになる。

山形県横断 その2 

 R112を鶴岡市に向かって進む。道の駅『月山』で休憩。ここで今日の宿となる鶴岡YHに電話して予約する。時間的にも鶴岡までが限界だろう。朝日村から櫛引町へ。櫛引町からは水田の中を突っ切るBPを進んで行く。水田には稲穂が頭を垂れている。まもなく稲刈りを迎えるようだ。東北の平野部は米の一大生産地帯なのだ。

 やがて鶴岡市へ入る。鶴岡は酒井氏17万石の城下町。現在は鶴岡城はなく鶴岡公園となっている。鶴岡市街地内は道路の拡幅が難しいためか、R112BPは鶴岡市街の外を

通る。鶴岡市街を向かう六十里越街道沿いのルートからは離れてしまう。市街北部でR7と合流するが、合流手前では久々の渋滞に巻き込まれる。

 今日のR112走行はこれで終わり。R7を新潟方面に向かう。由良峠を越えた付近で脇道に入り由良温泉へ向かう。日帰り入浴不可のホテルしか見つけることができなかったので諦める。

 由良温泉街の外れで日本海を見る。今日は山中ばかり走っていたので、海を見るとうれしくなる。宮城県と山形県の酒井である笹谷峠から山形県の端まで来た。山形県横断を終えてYHに向かった。

鶴岡YH

 鶴岡YHはR7沿いにある小高い丘の上にあった。入口は墓場の脇にある細い道。最初はてっきり墓場への道だと思っていまい通り過ぎてしまった。鬱蒼とした森の中にある鶴岡YHは、しばらく休館していたそうだ。再開して間もないという。

若い大人しそうな人がペアレントで、たった1人で切り盛りしているという。いろいろとYH運営の話を聞かせてもらったが、YH運営も楽ではないようだ。

 鶴岡YHでは仙台YHで会ったハーレーライダーのFさんと再会する。たまたま宿泊地が同じだったのだ。東京の大学のサイクリングクラブの3人の大学生とも一緒になる。しばらくしてから『温泉ツアー』ということで、ペアレントの車で先ほどの由良温泉へ向かった。海沿いのホテルから少し離れた所にある国民宿舎へ向かう。ここは日帰り入浴が可能なのだ。建物の2階にある浴室からは由良の海岸が一望できる。日没頃に入るとさぞ美しい光景を見ることが出来るのだろう。

 浴槽に浸かりながら大学生達と話す。合宿ということで活動しているとのことで、目的地まで各自自転車で向かうことになっているそうだ。途中までは列車に乗る(輪行)ことは認められているそうで、彼らも福島付近まではJRで北上してきたという。中には東京から自走する強者もいるそうだ。旅をする若者が減っているが、心配することはないようだ。こうして自転車で回る若者達はいるのだ。

 YHに戻る。YHでは夕食の提供はしていないということなので、Fさんと二人で近くのフランスレストランへ向かう。YHと提携しているとかで、YH専用メニューのフランス料理を頂いた。東京にある有名ホテルの食材通販に名前を載せている有名なレストランだそうだ。そんな有名なレストランの料理を1000円でいただけるとは・・・旅冥利に尽きるということですな。

 YHに戻ったあと、ロビーでいろいろと話す。その間にも何人かのホステラーさんがやってきた。鶴岡は地理的には新潟と秋田の中間付近にあるので、JRの鈍行旅などでは宿泊するのに便利な土地なのだ。格安のYHが復活したことは、鈍行列車旅をする旅人にはありがたいことなのだ。

 あまり遅くまで話していられないので、23時頃に切り上げ部屋に戻り寝ることにした。楽しい晩であった。

2001年9月9日(日):鶴岡→大湯温泉【299km】

R112完走

 朝食後パッキング。日本海沿い経由で岐阜まで自走して、今日中に帰るというFさんを見送って8時半頃に出発する。この日も朝から快晴。天気予報によるとフェーン現象で秋田地方の気温は上がるという。朝から気温が高く暑い。ジャケットを着ると汗ばんでしまう。

 R7に出て由良峠を越えて鶴岡市街の外れでR112に入る。山中にある加茂TNを抜けると加茂地区の町中へ。日本海に面した漁港町で、山中から下る坂道の先に見える日本海が美しい。 

 ここまで山中を走ってきたR112は日本海岸に沿って北上する。湯野浜温泉街を通り抜けると海岸から1kmほど内陸を進んで行く。道路と海岸の間には松林が広がっており、海を眺めながら走ることは出来ない。松林は防砂・防風林。日本海側から吹き付ける風や飛ばされる砂を防ぐための松林だ。途中にある庄内空港や町の前後では途切れるものの、鶴岡市〜酒田市間の約8kmに渡り松林が広がるのだ。

 防風林脇の2車線道を進むと最上川が現れた。最上川の河口近くで川幅は広くなっている。日本海頃の拠点であった酒田港は、最上川河口にあり大いに栄えた。松尾芭蕉は

『あつき日を海に入れたり最上川』と詠んでいる。そんな最上川河口を出羽大橋で渡り、酒田市市街に入る。

 市街地内にある一方通行区間を抜け、市街地北部の住宅街を通り抜ける。豪雪地帯だけあって路肩が広い道だ。工場地帯を通り抜けると小さな峠を越え、R7酒田BPと合流。ここでR112の旅は終わる。山形市から約142kmのR112全区間を走りきったのだ。

鳥海ブルーライン

 R112からR7に入り北上する。R7・R112交差点から北へ16kmほど進むと鳥海ブルーラインの分岐点に到着。側道から鳥海ブルーラインことr210(県道鳥海公園吹浦線)に入る。

 鳥海ブルーラインは鳥海山の5合目付近まで登る道路。かつては有料道路だったが、1999年(平11年)頃に無料開放された。1998年のツーリングを計画している時から走ってみたい道であったが、今回やっと走る機会に恵まれたのだ。

 山形県側の料金所跡を通り過ぎると、道は急勾配・急カーブが連続する2車線道となる。元有料道路ということもあって路面はしっかりしている。いくつも急カーブを曲がって進む。最初は森の中を走っていたが、標高700mぐらいを過ぎた辺りからは森が切れて展望が良くなる。ヘアピンカーブや坂道からは日本海を一望することが出来るのだが、急勾配の坂道では止まる訳にはいかないので、低速でゆっくりと進みながら景色を眺めた。

 標高800mを過ぎると強風が吹き付けるようになった。それも半端な風ではない。重量230kgはあるZRX1100が揺れるぐらいだ。風に飛ばされないよう注意しながら急カーブをいくつも曲がる。20分ほどかけて標高1000mの大平展望台に到着。ここも凄い風が吹いている。風下にスタンドが来るようにしてバイクを停める。大平展望台からの眺めは素晴らしい。青空の下、視界一杯に青い日本海が広がっている。こんな風景は早々見られるものではない。もっとゆっくりと見ていたかったのだが、何しろ風が強く立っているのも辛い状態だ。三脚を立ててもすぐに倒れてしまうので記念撮影できない。柵の支柱に寄り添って体を固定して風景を撮影して展望台を後にした。

展望台から少し進むと山形県・秋田県の県境を越える。鳥海ブルーライン最高所を越えると風は少し弱くなる。秋田県側にある鉾立展望台に到着する。晴れた日曜日ということで駐車場には車が多い。片隅にバイクを停めて展望台まで歩く。展望台からは広大な平野やポツポツと立つ風力発電所が見え、さらにその向こうには日本海が一望出来る。すぐ真下には深い谷を見下ろすことも出来る。展望抜群の展望台だ。展望台では酒田から来たという夫婦に写真を撮ってもらい少し話す。

 その後ビジターセンターの建物に入り少し休憩し出発する。秋田県側のブルーラインも

急カーブと急勾配の坂道が続く2車線ワインディング道路。こちらからも青くて広い日本海を眺めながら走ることが出来る。いくつものカーブを曲がると、やがて平坦な道路となり森の中へ入る。気が付くと田畑の中を行くローカル道となっていた。振り返ると巨大な鳥海山の雄大な姿を見ることが出来た。機会があれば、再び走ってみたい道である。

秋田県北上

 県道で象潟市街に入りR7へ戻る。市街地で給油したのち、R7を秋田市に向かって走り始める。道は2車線道で交通量は多いが流れは良い。淡々と2車線道を北上して行く。市街地や町中を除いては、ほとんど左側に広大な日本海を眺めて走る。

 本庄市市街を越えると間近に青い日本海を眺めて走ることになる。ただ困ったことに、どこまで進んでも同じような風景が続き、単調な道路が続くために眠たくなってしまう。カーブが連続するとか山中に入るとかという変化があれば目が覚めるのだが、海岸沿いなのでそういうこともなく、ただひたすら平坦な2車線道を進むことになる。日曜日と言うことで大型車の姿が少ないことは幸いである。

 この日はフェーン現象が起きて、気温はぐんぐんと上昇していった。あまりの暑さに考える気力はなくなり、ただ淡々とバイクを走らせるだけとなった。暑さで『ぼけ〜』としていたので、『日本のロケット発祥地』を行き過ぎてしまう。戻る気力もなくそのまま北上を続ける。

 秋田市に入るが風景には変化はない。暑さで注意力が鈍り始める。気を引き締めるが暑さの方が上手。だらだらとバイクを動かしているだけとなった。雄物川を渡って秋田市市街へ入る。R7は市街地から片側2車線4車線の道路となるの交通の流れはかなり良くなるが、車の動きに注意しなくてはならないので気が引き締まった。

 しかしそれも長続きしない。秋田市街を通り過ぎ、13時半頃に秋田県昭和町に入ると、あまりの暑さで頭がフラフラし始めた。注意する以前に思考が出来なくなってきた。これは危ないと、道の駅『しょうわ』に入って休憩を取る。象潟市街から1時間40分、約90kmもの道程を炎天下の中を休憩なしで走ってきたのだ。さすがにこれには参った。しばらく座ったまま動くことすら出来なかった。食事する気力は全くない。とにかく水分が欲しくてたまらず、自販機でジュースを買う。ここで飲んだ冷たいジュースの一口目は大変美味しかった。

 ちなみにこの日、秋田県内ではフェーン現象によって最高気温34度を記録したそうだ・・・

R285走行

 一休憩して元気を取り戻してR7を北へ進む。R7昭和BPを通り過ぎてR285に入る。 東北国道走行の3本目の国道となる。森吉町までのR285は五城目街道沿いに進む3ケタ国道。五城目街道は秋田県八郎潟町一日市で羽州街道から分岐し、秋田県森吉町米内沢を結ぶ街道。羽州街道の脇街道だった街道で、どちらかというと生活街道という感じの街道だったらしい。 

 町中を抜けると、東北の静かな農村地帯へと入りのんびりとしたローカル国道となる。交通量の少ない道を淡々と進んで行く。少し山間に入ると森の中に入るので少しは涼しくなるが、日差しは相変わらず強く暑さが続く。やがて『滑多羅温泉』という看板を見つけてしまった。”滑多羅”と書いてそのまんま「なめたら」と読む。暑い日なので温泉に入る気はなかったのだが、あまりに面白い温泉名なので立ち寄ってみる。

 滑多羅温泉は、林業保養施設『赤倉山荘』にある温泉。山間の小学校を思わせる建物の2階に温泉浴室にある。湯はナトリウム塩化物泉。入ると肌がヌルヌルする。

 冷泉なのだが温めて42℃ぐらいで使用しているのだ。滑多羅温泉の歴史は古く、17世紀中頃の文献に温泉の存在が記されているのだという。

 温泉を出た後、頭がフラフラとしてきた。昼飯を食べていないのと暑さでバテたのだろう。20分ほど建物内で休むと体調は良くなった。R285に戻り北に向かう。秋田峠をTNで越えて森吉町へ入る。米内沢からは阿仁街道に沿って北上し、鷹巣町からは再びR285に入り大館へ向かう。沿道には湯ノ岱温泉と長寿温泉という2つ温泉があったが、滑多羅温泉に入ってバテたこともあって入らずに素通りする。

 秋田県比内町の水田地帯を抜けて米代川を渡るとR103に入る。R103は交通量は多いが流れの良い2車線国道。米代川に沿って進んで行く。やがて鹿角市に入り、東北道を越えた付近にあるR282との南陣場交差点に到着。これでR285の全区間を走破したことになる。

大湯温泉

 南陣場交差点からR103を7kmほど十和田湖に向かって進み、17時少し前に大湯温泉に到着した。ここにある大湯温泉・黒森YHが本日の宿となる。バイクはYHの建物から少し離れた所にある農家の納屋前に停めなくてはならない。

 一段落付くとタオルを持って大湯温泉の公衆浴場へ向かう。YHから近い所にある大湯温泉公衆浴場の『川原の湯』と『下の湯』の2湯に入る。共に地元の人達の公衆共同浴場という感じの温泉だ。入浴料が120円というのもうれしい。

 公衆温泉の番台は近所の人達が当番制で担当しているようだ。『川原の湯』の番台に座っていたおばちゃんに「どこから来たの?」と話しかけられた。見かけない顔なのですぐに旅行者と分かったのだろう。大阪からだと答えると、「それは遠いところからよく来たね。ちょっと待って・・・」と、2つの大きな津軽リンゴを出してきた。遠慮すると、「せっかく来たんだから遠慮しないでもらって行きなさい」(と津軽弁なまりの標準語で)と言われた。ありがたく頂くことにする。礼を言って『川原の湯』を後にした。東北の人達の人情に少し触れてうれしくなる。公衆浴場や共同湯に入ると、こういう事に出会えることがあるのだ。

 タオルを入れていたコンビニ袋に大きなリンゴを2つ入れて『下湯』に向かう。こちらも公衆浴場。地元の方々が浴槽でくつろいでいた。さすがに10分前に温泉に入ったところだったので、すぐに逆上せてしまい10分ほどで温泉を出る。温泉隣にある商店のベンチに座ってジュースを飲んで休憩した。

 私の場合、シャワーやサウナなどの無駄な設備など一切ない昔ながらの公衆浴場を特に好む。有名な温泉地を訪れたら、まずは公衆温泉浴場や共同湯を探すことにしている。ところが近年、地元の人以外の観光客などのマナーがあまりにも悪いために、地元の人以外の入浴を禁止する公衆浴場が急増している。『使わせて頂いている』とわきまえて入らないといろいろとトラブルの原因となる。自分勝手な行動が他の人に多大な迷惑をかけてしまうのだ。大湯温泉もそうならないよう願いたいものだ。 

 大湯温泉YHに戻る。夕食の後、部屋に戻ると同室となる仙台の大学生さんが帰ってきた。ここに連泊してバスで十和田湖周辺を回っていたそうだ。明日もバスと列車を乗り継いでの「東北旅行」と楽しむという。一人旅をする若者が減っているというが。まだこういう大学生もちゃんと居るので一安心した。『川原の湯』で頂いたリンゴを1つ差し上げ、残る1つを食べる。実に美味しい津軽リンゴであった。

 この日の宿泊者は2人だけ。23時過ぎには寝ることにした。

2001年9月10日(月):大湯温泉→八戸FT【195km】

ストーンサークル

 東北滞在4日目の朝を迎える。朝の間は晴れているが、昼過ぎから曇り夕方から雨が降り出すという。出発3日前に発生した台風15号が本州に近づくためだ。天候だけはどうしようもない。雨が降ったら降った時である。

 同室の大学生はバスに乗るために8時半頃に出発して行った。離れた所に停めて置いたバイクを取ってきてパッキングを済まし、9時過ぎにYHを出発した。R103に出てすぐに市街へは向かわずに、『大湯環状列石』を見に行く。

 環状列石とは「ストーンサークル」の事。人工的に配置された石は、太陽が出てくる方角を正確に示している。国の特別史跡に指定されている大湯環状列石は、野中堂・万座環状列石を中心とする、約4000年前に作られた縄文時代後期の遺跡。万座環状列石の径は約48m、野中堂環状列石の径は約42mもあるそうだ。

 

 ここの列石は、1931年(昭6年)4月、耕地開拓の工事の際に偶然に発見されたのが始まり。翌年12月にストーンサークルであることが確認された。太平洋戦争中も地元の人達によって大切に守られた遺跡は、戦後になってから本格的な発掘調査が行われ、縄文時代後期の遺跡と確認されたそうだ。現在も発掘調査が行われている。

 現地は公園として整備されており、博物館も開設されている。案内をしてくれるボランティアスタッフらしき人達もおられた。道を挟んだ向かい側では発掘作業が行われており、考古学ファンならずともワクワクしてくる場所である。

 近くにある黒又山(クロマンタ山)は三角形の形をした山で、元はピラミッドと言われている。道路から見てみると、実際にそう見えてしまうから不思議だ。この山の謎を解明しようと1992年(平4年)から学術調査が行われたそうだ。その結果、黒俣山を中心に東西南北・夏至や冬至のライン上に神社が有ることが判明。古代の祀り場が後世に神社となったと推定され、かつては山を中心に祀り場があったのでないかと言われている。太陽の動きに合わせて祀り場があったというとは、天文学や地学などの知識がないと配置できないわけだ。かつては文明があったのだろうか。

 この大湯という土地を含め、東北一帯はグラハム・ハンコック氏が唱える『巨石文化』が栄えていたのかも知れない。そんな想像を膨らませて大湯の地を後にした。

大鰐温泉

 旧津軽街道のR282に入り北上する。東北自動車道が併走しているが、意外なことに大型トラックや運送会社のトラックの通行量が多い国道だ。路面のアスファルトは波打っていて荒れている。そんな路面状態の2車線ワインディング道路を走り、秋田県・青森県の県境に当たる坂梨峠を越える。

 2車線道の坂道を下り、峠下にある碇ヶ関に到着。R7(羽州街道)とR282(津軽街道)との交点にある関所で、津月三関の1つに当たる。昔は重要な交通の要所だったのだ。R7とR282との交差点には碇ヶ関の関所が復元されていた。ここから津軽の国に入ることになる。 

 R7を淡々と北上し大鰐温泉へ立ち寄る。大鰐市街には8箇所の公衆浴場があるのだが、どこにあるのか分からない。とりあえず市街地を通る旧R7を走る。少し走ると公衆浴場『大湯』を見つけたが定休日。つづいて『萩の湯』も見つけるが営業時間前と言うことで入ることが出来なかった。こういう時の鉄則は『地元の人に尋ねる』である。JR大鰐駅前まで行って土産物屋のおばちゃんに温泉の場所を教えてもらう。近くに『若松会館』という公衆温泉浴場があることを教えてもらった。

 『若松会館』は平川の西側にある公衆浴場。地区の公民館という感じの3階建ての建物

で、1階が温泉浴室となっており、2階と3階は休憩所と大広間になっているらしい。昔ながらの公衆温泉浴場で雰囲気は申し分ない。浴槽は両端が円形となった長方形型。タイル張りの浴槽にナトリウム・カリウム−塩化物硫酸塩泉の温泉が入っている。入浴客は私1人だったので、のんびりと手足を伸ばしてくつろいだ。

 ここの管理人は話し好きな方で、会館前に停めたバイクを見て旅行者と分かったのだろう、大鰐の名所やキャンプ場などを丁寧にあれこれ説明して頂いた。ここでも東北の人達の暖かさを感じることが出来た。

十和田湖

 大鰐温泉を出てR7を南に少し戻りR454へ入る。R454は青森県八戸市と青森県大鰐町を結ぶ東北横断国道。このままR454を走れば十和田湖を経て八戸に着く。今回4本目の東北国道走行となる道として選んだ理由はそこにある。

 リンゴ畑が広がる東北の農村地帯を抜ける。道幅の狭い道だと思っていたが、道は整備されて2車線道となっていた。峠を越えて深い山中を進むと平賀町小国地区の集落に到着。ここには素朴な集落の温泉である小国温泉があるのだが、今回はパスして先を急ぐ。

 R102に入り南下。R102は青森市と十和田湖を結ぶ観光道路として整備さえていた。路肩の広い快適な2車線道を下るが、滝ノ沢峠の北側は未整備で急勾配・急カーブが連続する狭い2車線幅のワインディング区間であった。幸い走っている車は少なかったので、渓流を眺めながら原生林の中をのんびりと走ることが出来た。

 滝ノ沢峠に到着。滝ノ沢峠はカルデラ湖である十和田湖の外輪山の峠。火山の噴火口に水が溜まり十和田湖となっている。滝ノ沢峠は火山の噴火口に位置する峠。国道の近くに小さい展望台がある。観光客はほとんどいないので、ゆっくりと十和田湖を眺めることが出来る。

 峠から再びR454に入り十和田湖畔を進んで行く。外輪山の内斜面に入ったので、道は凄い急勾配の坂道となっており、ヘアピンカーブも何カ所かあった。自転車ではかなりきつい峠道だ。湖畔まで下るとアップダウンはあるが概ね平坦な2車線道を走る。

 R103に出たところで、発荷峠に向かう。路面状態の悪い2車線ワインディング道路を上り峠へ到着。発荷峠も外輪山の峠で中央分水嶺の峠ともなる。こちらは一大観光地となっており、展望台には次々と観光バスや観光客の車がやって来ては去って行く。大変賑やかな峠である。ここからも広大な十和田湖の風景を見ることが出来た。空が曇っていたのが残念だった。

 峠の展望台では、これから十和田湖畔を走って湖の北側にある「おいらせYH」に向かうというチャリダーさんと出会い少し話す。互いに写真を撮りあった。

『キリストの墓』

 展望台を後にして十和田湖畔まで下る。十和田湖の南側は平坦かと思われたが、狭い2車線幅の急カーブが連続する急勾配の坂道であった。見通しはほとんどない。宇樽部地区からR454に入り、整備された2車線ワインディング道路を走り見返り峠を越え、続いて迷ヶ平(まよがたい)を越える。両方とも中央分水嶺の峠だ。峠を越えて日本海側から太平洋側に入る。

 青森県新郷村の農村地帯を繋ぐローカル国道を淡々と走る。のんびりした時間が流れているようだ。やがて『ピラミッド入口』というバス停を発見。この近くにはピラミッドではないかと噂される山があり、頂上まで登ることが出来るらしいが時間がないのでパスする。そこから少し進むと『キリストの墓』に到着した。今回の東北ツーリング最大の目的地と言っても過言ではない。

  駐車場から200mほどの上り坂(参拝道)を歩くと墓の前に到着する。階段を上った丘の上に、こんもりとした小さな小山が2つある。向かって右側がイエス・キリストの墓で、左側が弟のイスリスの墓だという。昨晩泊まったYHのペアレントは縄文時代の遺跡だろうと話していたが、物がなんであれ『イエスキリストの墓』としてしまうには立派な理由があった。イエス・キリストが戸来村で天寿を全うしたからだというのだ。

 墓の近くに『キリストの里伝承館』という博物館がある。ここには新郷村戸来地区に伝わる風習や古文書を展示している。この戸来地区には、日本でありながら風俗・風習にユダ

ヤの名残があるとのことで、ユダヤ教と何らかの繋がりがあるのでないかと言われている。

 伝承館にあった説明板によると、1935年(昭10年)に竹内巨麿という古代史研究家が見つけた『竹内古文書』に、イエス・キリストは21歳の時に訪日し、その後33歳まで滞在した後ユダヤに戻り、神国『日本』の尊さを語り続けたという記述があったという。

 キリストはローマ帝国に捉えられてゴルゴダの丘で処刑されるが、処刑されたのは弟のイスリスで、キリストはシベリア〜アラスカ経由で4年後の4月26日に八戸へ再上陸。十来太郎天空と改名し、陸奥の国戸来村にて日本人女性をめとり3女をもうけ、106歳の天寿を全うしたという。ここにある墓は、そのキリストとイスリスの墓だというのだ。

 聞いたところでは能登半島の石川県羽咋市には『モーゼの墓』もあるらしい・・・こういう言い伝えは何%かの真実は含んでいるので、もしかしたらユダヤの民の一団がユーラシア大陸を横断して日本にやって来てこの地に住み着いたと言うのが真相なのかも知れない。

 その集団の中にイエス・キリストが本当に居たのかも知れないが、それを調べる術はない。竹内巨麿はすでに他界しており、氏が集めた『竹内古文書』を含めた膨大な資料は、残念ながら東京大空襲で燃え尽きてしまったそうなのだ。現物が残っていれば、バチカンやカトリック教会、ユダヤ教会などのキリスト教を巻き込んだ大論争となっていたに違いない。

 歴史は簡単に変わる物。案外、未来には新事実が発見されて、『竹内古文書』が真実であったと言われるかも知れない。こういうことを考えるのも面白いものだ。

八戸へ

 15時過ぎに『キリストの墓』を出発すると、R454を東に向かって進んで行く。倉石村にある倉石温泉に立ち寄る。国道沿いにある村営の温泉施設だ。設備の整った温泉施設で、由良温泉以来久々に頭髪を洗う。東北で入る温泉はここが最後。東北では7湯に入っただけである。3日で7湯は少ない気がするが、東北は逃げはしない。また訪れればよいのだ。

 R454を走り、17時頃に八戸市街へ入る。夕方のラッシュによる渋滞に捕まる。ずっと山中を走ってきたので、街中での渋滞がなぜかうれしい。4車線となったR454を走る。やがてR104と重複すると街中を進む2車線道となる。やがてR45との交差点に到着。R454を全区間完走した。

 朝は晴れていたのだが、昼過ぎから曇りだした。八戸市街に着いた頃にはどんよりと曇っており、いつ雨が降り出してもおかしくない状態だった。そんな曇り空の下、八戸FTに到着したのは18時前。私の到着を待っていたかのように、18時過ぎから雨が降り出した。東北ツーリングの最後は雨であった。

 出発までは時間があるので、ターミナルの食堂で夕食を食べながらテレビの天気予報を見る。残念なことに、明日の北海道は道北を除いて雨。しかも日本列島に近づきつつある台風15号の影響で、北海道に停滞している秋雨前線(蝦夷梅雨)の活動が活発になっているという。天気だけはどうしようもない。なるようにしかならないか・・・

 フェリーの出航時間が近づくにつれ、あちこちからライダー達が集まってくる。乗船手続きが始まる頃には20台ほどのバイクがいた。八戸FTでの状況を見る限り、北海道に渡るライダーは結構いるように思える。21時前、雨の中、フェリーへの乗船が始まる。東北の地に別れを告げてフェリーに乗船する。

 22時、八戸発苫小牧行きのフェリーは八戸FTを出航。東北を後にして北海道に向かった。

東日本フェリー

 東日本フェリーへの乗船は2年ぶり。時代の流れだろうか、フェリーの2等客室は全面禁煙となっていた。タバコを吸わない私にとってはありがたいことだ。東日本フェリーの対応に感心していたが、雑魚寝寝台で提供される貸し毛布の貸し出し代が一枚300円に値上がりしていたのには驚いた。東日本フェリー、貸し毛布の貸し出し値段を吊り上げすぎだ。

 2等客室の一角に陣取る。寝台ではないので、雑魚寝の場合は早く寝た者勝ちだ。ところが近くに寝転がっていたおっさんの大きな鼾と、出航直後から喫煙所で何喰わぬ顔して馬鹿騒ぎするアホどものおかげで眠ることが出来ない。鼾はともかく、喫煙所で宴会して騒いでいるのには腹が立った。連中はどこかの会社の慰安旅行か友達連中が集まっての旅行ブループだった。20歳代後半〜50歳ぐらいのいい年した大人が15人ほど集まって、消灯後も周囲のことを考えないで酒飲んで馬鹿騒ぎ・・・社会人のくせに常識が欠如した連中は夜中の1時過ぎまで騒いでいた。『自分らさえ楽しければそれでいい』という最近の自分勝手な風潮を見事に表現してくれたアホどもであった。騒ぐなら外に出て甲板でやってくれ・・・

【東北&北海道ツーリング その2に続く】

東北&北海道ツーリング2001 その2

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つーりんぐれぽーと